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Elmer1

ブログで、『ぞうのエルマー』という絵本を取りあげた。
書くのに検索してみたら、一冊のつもりだったのに、無数のエルマーが現れた。

David McKee作
『Elmer the Patchwork Elephant』

Wikiにはなんと、三十八冊とある。大長編ではないか。しかも最新作の発行年は、2016年。現役続行中のシリーズだ。最新作の題名は、

『Elmer And The Flood』

邦訳はまだだが、

『ぞうのエルマーと洪水』

となるのだろうか。
水害の多いこの国では、発刊のタイミングが難しそう。
さかのぼって第二作。

『Elmer Again』

年表だと1991年発表だが。
邦訳は、

『ぞうのエルマー〈2〉
 エルマー!エルマー!』

の題名で、2002年発売。
……なるほど。
謎が解ける。
気になって実家まで行って、私の愛読していた第一作『ぞうのエルマー』の写真まで撮ってきた。
現在売られている邦訳は、

『ぞうのエルマー〈1〉』

私の読んでいたのは、

『ぞうのエルマー』

決して大きなところではない、神戸の出版社が出している。最初は続刊未定で十年後。売れたから続きも? 私が幼いころに、続きも出していてくれたら、母はあんなに同じ絵本を、読み聞かせずにすんだのにな。そうか。大好きなエルマーは、私とともに育って、そんなシリーズに……
二、三冊なら、買ってきて、読んでみようかと思ったが。
三十八冊……五万円くらいか。
まずは図書館に行こうか。

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 ほんでまあ図書館に行ったずら。

 そうしたら『ぞうのエルマー』シリーズの物量は、そんなどころではなかった。コンプリートするなら五万円ではぜんぜん効かない。

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 これが、上で私が話題にしている、

『ぞうのエルマー〈2〉
 エルマー!エルマー!』

 2002年、BL出版の発行ですが。
 私が図書館で借りてきたのは、

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『またまたぞうのエルマー』

 1977年、アリス館牧新社の発行。
 上で書いたように、エルマー第二作の原題は『Elmer Again』なので、またまた、というほうがニュアンスは近いような気はする。

 もちろん、絵は万国共通言語だから、絵本の絵の部分に変更が加えられることはない。

(映画『ミス・ポター』で描かれたように、紙質やインク質などが商業的な理由もあって絵本作者の絵を再現しきらないというケースは、ままあるにしても)。

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 しかし、原作者は知っているのだろうか。知らぬ言語に訳された自分の文章が、大きく変更を加えられていることを。

 さっきの写真の上に見えるのが、

『エルマーとゆき』
 ほるぷ出版

 左は、

『エルマーのゆきあそび』
 BL出版

 これまたタイトルからして微妙に違うが、途中のいちページを引用してみる。

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 しばらく あそんでから、エルマーが いいました。

「ずいぶん ゆきが ふってきたよ。かえろうか。」

 みんな いそいで やまを おります。

 けれども、わいわい がやがや わっはっは。

わらったり、さわいだり、ころげまわることは

やめません。おもしろ おかしく、みんな そろって

はやしを ぬけて、さかを くだって、かえります。


ほるぷ出版
『エルマーとゆき』
訳 斉藤洋

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 同じページ。
 絵は当たり前だが同じだけれど……

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「わあ、すごく ふりだしたぞ」と エルマー。

「もう かえろうか」

ふりしきる ゆきのなか、

ぞうたちは はしゃぎながら もりを ぬけて、

いえに かえってゆきました。


BL出版
『エルマーのゆきあそび』
訳 きたむら さとし

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 原文を読んでいないので、断言はできないけれど、斉藤洋さんの訳のほうだけに、林を抜けて坂を下って、というような描写があるところを見るに、原文にこの文はないのではないか。絵が、そういう絵なのだ。林を抜けているし、坂を下っている。それを文章に起こした、のだとすれば、これは小説などの文章のみのメディア翻訳では決して現れることのない絵本独自の翻訳作法である。

 そういうことを言えば、きたむらさとしさんの訳も、冒頭が「わあ」という感嘆から入るのは、斉藤洋さんの訳を見るかぎり、おそらく原文にはあるのだろう、エルマーが言った、という文章を、はしょっているのではないか。

 書き足す作法と、より短い言葉で表す作法。そしてこれを、作者に「これでニュアンスが伝わっているでしょうか?」と確認することはできない。その点を踏まえると、絵が同じであっても、出版社、翻訳者によって、絵本というものは、そうとうに香り具合が違うものになるジャンルなのかもしれない。

 なにが好みかは、読む側にゆだねられているのか。だとすれば、同じ作品を、何種類もの訳で読むことができた『ぞうのエルマー』シリーズとは、偉大なるものである。

 と書いて、ここから愚痴になる。
 絵本とは関係ないことを思い出してしまった。

 先日、私はXboxOne専用ゲーム『Sleeping Dogs: Definitive Edition』を遊びはじめました。

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 香港を舞台に、潜入捜査官が善と悪との綱渡り、殴れ撃て! 的な箱庭ゲームで、もとは一世代前のXbox360で発売されていたもの。世界観が好みすぎて気になってはいたものの、タイミングが合わずプレイしないまま、次世代機でリメイク版が発売され、ドニー・イェン主演で映画版『スリーピングドッグス 香港秘密警察』の撮影が開始されたとのニュースも聞き、ああもうこれはやらなくちゃとなっていたところで、少し時間ができた。

 よし、とリアルに検討しはじめて、驚愕の事実。

 XboxOne版『Definitive Edition』は、日本発売されておらず、日本語の収録もない。吹き替えがないのではなく、字幕もない。いやいやいや、日本が誇るドラクエとFFでおなじみ、スクウェア・エニックスの製品なんですが?

 ていうか。旧世代版で日本語が入っていたのを、絵がきれいになった次世代機版になったからといって、わざわざ日本語を「抜いた」わけですよね? なにそれ。

 ちょっと調べてみると、意外な事実を掘り広げてしまった。

 検索して、むしろ引っかかってきたのは、日本産のゲームを日本語でプレイしたくて購入したのに、日本語が「わざわざ抜いてあった」というクレームを入れている英語圏のひとたちの声、声、声。近しいところでいえば、先々月英語版が配信された某ゲームに、日本人声優の音声が入っていなかったらそれは無価値である不買運動開始だ! というニュースとか。

 ちなみにその件に関して発売元は「音声契約の問題だ。収録した音声をグローバルに使用できるかは、それぞれの声優次第なので」という回答。もっともな話である。どっちが? 日本のアニメベースのゲームが自国で買えるぞと喜び勇んだ声オタが、麗しの日本語ボイスがわざわざ削除してあったらそりゃ詐欺だと言いたくもなるし、グローバルに使ってもかまわないという声優からしたら、一部のパッケージ変えてまた発売するならもういちどギャラを振り込め、という強気の声優の存在によって、ひと契約で世界中で使ってくれていいわよ世界で有名になりたい! という野望が打ち砕かれるわけだし。でも収録音声が無限に使える契約にしてしまったら、ボーカロイド技術などもある昨今、そのゲームはシリーズ化されたのに、声優には第一作のギャラしか入らないようなことにもなりかねず、それもどうかと思うし。

 声優の権利主張が絡んで、発売元は、日本では売り切ったゲームを英語圏でお安く提供して二番茶を味わいたいわけだから、日本語ボイスをカットするという、それもわからなくはない立場ではある。

 で、つまり、日本語字幕もそういうことなのだろう。もともと翻訳した人々との契約や、日本語フォントの使用料といったようなところが、そのまま売ると旧世代機でたっぷり売ったあとで絵がきれいになったからとまた買うほどの人口はないこの国で、だったら「わざわざ消す」作業にかかる費用のほうがまだ安い、という。

 アメリカンプロレスを見ているといつも思う、あれだ。

 クッソ田舎での興行だとアナウンサーが言っているのに、そこに入っている観客は日本で言うところのドーム級。一方、日本でクッソ田舎で興行と言えば、主要団体のものであっても○○町体育館で、パイプ椅子がリングの周りに三列とか。ヘタしたら観客数よりもリングに上がる選手の数のほうが多くて。

 島国だからなあ。仕方のないところではある。

 かといって、きれいな絵でプレイできるゲーム機本体を所有しているのに、わざわざ旧世代機版でプレイする気がどうしても起きなかった。

 ええ、XboxOne版をプレイ中です。

 美しき香港の夜なのにサングラスをかけてバイクを走らせて雰囲気に酔う私。これからあいつらを殴り倒しに行くんだ!

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 美しさは重要です。
 英語と広東語、日本語は、なし。
 いちおうストーリーは追えますが、私自身が広東語なまりの英語を話しているので、アクションしながら字幕の単語を拾ってなため、ニュアンスを正確に把握しながらでは、まったくありません。

 文字チャットを、即時自動翻訳で、という時代。英語の看板にスマホを向ければ、日本語に見える、というアプリもある。そのうちフォント使用料も内包した翻訳メガネなどが普及して、この問題は解決するのでしょうが。

 そうなっても、翻訳者という仕事はたぶんなくならない。絵本を、グーグル翻訳したって、絶対に、

「けれども、わいわい がやがや わっはっは。」

 と気を利かせる未来には、なるわけがないので。
 ヒトを介するという贅沢。
 だからそこにはギャラが発生するという当然。

 だから、私が日本語字幕なしでずっとやりたかったゲームをプレイしている必然。

 そうだ、私がこれでいいと思えば、なにも問題ないのではないか。
 プレイを続けます。
 潜入捜査官になりきるんだ。
 私は広東語なまりの英語を使って広東語のギャングと話す香港生まれであって、日本語など話すわけがないじゃないか。

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 さて、絵本の話からゲームに移って、なんとかまとまったかな、と読み返してみて、パラドックスに気づいた。

『またまたぞうのエルマー』が1977年、アリス館牧新社の発行だと、私は書いていて、その前には、『Elmer Again』が年表だと1991年発表だとか……

 おおいっっ!!

 邦訳が、原作の十四年も前に発売なわけない!! 文献をあさる。いや、いやいや、どっちも正しい。どういうことこれ……

 まじまじと見比べる。

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Elmer1

 あれ?
 エルマーの目のあたりが……
 絵が違う?

 そう、私が読んでいた『ぞうのエルマー』は、アリス館牧新社発行の1977年版であり、冒頭で書いた小さな神戸の出版社が出している現行の『ぞうのエルマー』とは内容も違うのであった。具体的にいうと、話が長い。

 つまり、パラドックスはなく、ちゃんと年表を熟読すれば。

1. Elmer (1989; originally published in 1968)

 という記述。
 1989年に第一作出版だけれど、最初のバージョンは1968年。同じものが再出版されたわけではなく、物語も刈り込まれているし、絵も洗練されている。

 デビッド マッキー、二十年の洗練。
 ていうか、打ち止めになった自作を懲りずに磨きあげて再度売り込むとか、現代の賞レースでは「自己愛強すぎてヒくわ客観視できるようになってから完全新作書いてこい」と一次選考で蹴られるタイプの物書きだ。

 それが、八十二歳で三十冊超のシリーズ現役続行中。

 ぞうのエルマーという自分の生んだキャラクターを愛し抜き、今日も極東の島国で私の膝の上の子が「エルマー!」と、それを指さして笑っている。

 たまに、貫くことで偉業を成すこういうひともいるから「お前のそのキャラはお前自身だから捨てられねえんだろお前が読み捨てられない重すぎるキャラを読者がたのしんで読み捨ててくれるのかノーベル文学賞でも狙ってんのか」と、頭ごなしに一次選考落選させるのもどうかと思えたり。そういうひとは、それでも懲りずに何十年でも書き続けるものですよねとひらき直れたり。

 マッキーは、二十年経って、エルマーを焼き直して、それが世界で認知されたが、別にコケていたって生涯エルマーを描き続けたのだ。そんな物書きたちが地上に幾千とまたたいているのかと、うれしいというか、潤むというのが近い。

(いやまったく、『ぞうのエルマー〈2〉 エルマー!エルマー!』と、『またまたぞうのエルマー』の段階で、まったく表紙の絵が違うのに、書いているさなかにはまるで疑問に思わなかった。なにが「もちろん、絵は万国共通言語だから、絵本の絵の部分に変更が加えられることはない。」か。集中力の欠如である。そして、いかに推敲という作業が大切かということである)








「おまえとは他人だっただろ」

 そんなことを唐突に言われて、涙が出た。
 なに言ってんの。

「かよっているのは別な建物だったし、接点、なにもなかったのに。あれだ。あの日、別になんの用事があったわけでもなかったのにさ」

 あの日。
 それって、ふたりが出逢った日ってこと?

「なんか。感じたんだよ、なんか」

 なんかなんかって、なんなのさ。

「おれを呼ばなかった?」

 じっと見てしまう。
 なにそれ。
 知っているはずがない。他人だったけれど、前から知っていたって。水曜日だけ、同じ電車で、隣の車両に乗るって。いつもすいていて、いつも同じ場所に座って、いつか見つめていて。古風に文庫本を開いて、なにを読んでいたのか、その日は、小さく笑ったから。

 初めて見た笑顔だったから、貼りついて。

 うん。想ったよ、あの日。そうしたら、いるはずのない場所……目の前に出現した。魔法じゃなくて手品みたいに。あれって。

 呼んだって、いうのかな。
 まだ、恋なんてふうにさえ呼べない自信のないこっちのそういうのを、感知して見つけに来た、そっちの才能のほうがノーベル物理学賞かなんかが、もらえてもよさそうな気がする。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 きれいな花火のように、まんまるい球のカタチにはじけた星は、重力波を発生させない。それは、歪んだ崩壊のさいに放出されるエネルギー。

 もしくは、ふたつの星が、くっついたり離れたり、合体したりするときにも、重力波は生まれる。

 大きな宇宙のなかの、小さな小さな地球という星の表面に建てた全長数キロメートルの施設ごときで、星が歪んではじけたなんて珍しいことを待つのは不毛だし、小さな波は小さいので見つけにくいから、科学者さんたちは、なんでもいいから重力波、とさがしているうち、とても大きな質量を持つものが、くっついたり離れたり合体したりといったことをおこなっているのを間接的に眺めるようになる。

 重力波、という名前がわざわざつけられているくらいなので、重力波は、風でも音でもない。星と星が複雑なダンスを踊ったときに、びゅん、とか、ぎゅおん、とかいうふうに風や音が生まれるならばわかる気がするけれど、だれにも感知できないのに重力波は生まれて宇宙を飛んでいるものだと予測して、重力波測定の施設は建てられたわけで、それが数年前に本当に重力波を観測した。

 かのアインシュタインが、重力波というものがあってだね、と明言したがために、100年以上も、みんなでさがしていたという。よく出てくる名前だけれど、おかしな話だ。アルベルト・アインシュタインが生まれた年は、エジソンが白熱電球を発明した年でもある。竹を細く削ったフィラメントに電気を流し、オイルなしでも街に明かりがともるようになった。というくらいの年に生まれて、電球が普及するのとともに育った五歳までうまくしゃべることもできなかった男の子が、すくすく育って目にも見えないし耳にも聞こえない巨大観測施設を建造してやっと二十一世紀になんとか本当にあるのだと証明できたそれが、「ある」と言ったのだ。

 アインシュタイン先生の天才ぶりの意味がわからない。

 わからないが、まあ、わかるような気がするところもあるにはある。なんにせよものごとというのは、見る角度を変えて感知することができるようになると、昨日までの自分はなぜにこんなことにも気がつかなかったのだろうかというようなことはよくあるものだ。

 恋は、そういうことの最たるものではないでしょうか。

 今日、あのひとの、その仕草を可愛らしいと思ってしまった。ぼおっと見ていただけで、たまたま目に入っただけなのに、気がついてしまった。そうなるともう、明日から、そのひとのその仕草を追って、そのひとから目が離せず、つきつめるとその仕草を手に入れたいがために、そのひとを欲したりする。

 本人は、まだその程度では恋なんて呼べない、なんてうそぶいていても、そのあたりの心の揺れこそ振幅激しいものである。

 ひとだと恋と呼ばれるが、ものだとフェチだ。なぜ昨日までの自分はこんなにも恍惚とせざるをえないだれでもいいからだれかの汗の臭いを嗅がずに我慢できていたのだろう、などということになってくると、特定のパートナーを見つけるだけでは生きていくのが難しい性癖になってきて、つらいところだったりもする。

 アインシュタイン先生が、100年前に、すでになんらかの宇宙の見かたをできてしまって、予言でもなんでもなく、自明の理じゃん、おれっちにそれを証明するような施設を建てるのは無理だけれど、あるのはもうわかりきっているので、後世のひとたちよがんばれ、などと思っていなかったのも明白だ。彼は彼で、わかるからわかるので、わかることをわかると書いていただけだった。

(実際、アインシュタインは、重力波は実在するが、人類がそれを観測するのは不可能だと言った。できちゃったよはっはーん、だ)

 相手が宇宙だったから、賞だなんだということになるが、意外に、そういうひとは多いのではなかろうかと思ったりする。だれものなかに可愛らしさを見て愛でることのできるひとは多い。きっとまだ証明されていないだけで、上で書いた小さな説のような、ひとが発してひとが感知できる気配の波動というようなものを、なんなく感じとってしまうひともいるだろう。

 でっかい重力波は、宇宙を漂い続けるから、重力波の見かたがもっと解明されると、宇宙誕生の瞬間に発せられたそれを観測して、宇宙の始まりがわかったりもするらしい。それを聞いて思ったのだけれど、霊感が強いひとというのは、もういなくなってしまったひとの、かつて発していた気配の波動を感じやすいひとだったりするのではないだろうか、なんてことも。

 生まれたものは宇宙を消えずに漂い続ける。感じかたさえわかれば、いつでも拾って感じることができる。ということの一端をあきらかにした重力波の観測成功の偉業であるとすれば、私たちはだれもがぼおっとしているから感じとれないが、チャンネルさえあえば、かつてどこかで感じた想いのすべてをいつでも拾って再生可能なのではないか、ということの証明のようでもある。他人のものであれ、自分のものであれ。そして、感じていると実感できないにせよ、あるものならば、なんらかの影響もあるのだとも、思う。

 つまり、悪意に満ちた星は悪い感じになるし、愛に満ちた星は愛の星になるという、当たり前のような話をしている。過去や遠くの星々のダンスの波がこんな小さなゴミ惑星の一施設で観測できるのに、この星に棲んでいる人間のそれぞれの想いの波が、それぞれになんらかの作用を及ぼさないなんて考えるほうが嘘みたいなので。

 私が気持ちよくすごしたいので、邪悪なことは考えないでほしい。私はあしたも宇宙とこの星とみんなを愛しているよと、この星の波をいい感じのほうに傾けるべく放出しながら微笑んでみる。せっかくなので感じてみて。まあ、こんな文章を読んでいただいたってだけのことではありますが、そんな程度の知りあいの波動でも、近くの見知らぬ他人のよりは拾いやすいのではないでしょうか。

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※2017年のノーベル物理学賞では、巨大な観測施設「LIGO(ライゴ)」を建設して、宇宙空間にできた「ゆがみ」が波となって伝わる現象、いわゆる「重力波」の初観測の成功に貢献した、レイナー・ワイス、バリー・バリッシュ、キップ・ソーンの三氏の受賞が発表されました。ライゴで観測されたのは、巨大なブラックホールがふたつ、合体するときに放出された波だそう。

 起きた波で海を見る。というように、重力波をたどって見えないブラックホールを見る。そんなことができるだなんてことまでは、アインシュタインも予測できなかった。それにくらべれば、隣の建物にいるだれかの想いを感じとって、うーんこれって求められているのかも、なんて呼応するくらいはフィクションでなくできるはず。出逢いとは研ぎ澄ますことで感じるもの。ゆえに発しなくては感じとってはもらえないもの。ていうふうなところに、どうしても思考が行ってしまう。人体は宇宙だとかって言うじゃない。だったら宇宙だってヒトだ。宇宙の新しい発見は、ヒトの新しい発見で、100メートル走をだれかが10秒切って走ればみんなが追随しはじめるように、ものの見かたでヒトの可能性は広がると信じているから、大きな声では言えないが、私はたぶん、かめはめ波だっていつか撃てると思っている。

 恋と同じで、コツ、程度の問題だと思う。

 おめでとうございます。その話、興味深い。





 あなたの一部は人間
 でも私は…違う
 自分でムカつくわ

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 『エイリアン4』

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 テレビでやっていたので、ぼおっと『エイリアン4』を観ていたら、けっきょく最後まで観てしまって、しかもラストシーンが記憶と違っていた。

 完全版だったらしい。

 劇場公開時には描かれなかった真実のラストが完全版ディスクでは描かれているのだ買ってね! という手法は、ついこのあいだ最終回を迎えたテレビドラマの真実の最終回がネット配信限定だということで大炎上して、責任者さんが謝罪までしていた様子がニュースになったところなので大罪かのようだが、かようにDVDは昔から売られてきたし、平成の仮面ライダーシリーズのラストはいつも映画だし。

 炎上したネット配信サービスは、最初の二週間は無料という仕組みなので、今後使わないが、そのドラマの完全版を観たいというひとにとっては、財布が痛む話でもない。それでも大ブーイングだった。

「完全版がDVDだけとはなにごとか!!」

 と怒る映画ファンはもういないが、ネット配信ではまだいるということだ。これはまさに光学ディスクを売る商売でたどった道であり、今後どんどんこういうかたちは増えて、オンデマンドがディスク販売の替わりの収益に育っていくのかもしれませんなあ、と歴史のただなかにいることに、しみじみとする。

 そういえば、私はファミコン世代である。親に隠れて初代ファミコンとテレビを布団のなかに持ち込んでゲームするためにアンテナ配線の接続をおぼえ(書いていて自分でも驚くが、当時のテレビに赤白黄色のRCAビデオ端子は搭載されておらず、初代ファミコンは、テレビのアンテナ線接続端子につなげていたのだ。ついでに書いておくと、現代のデジタル仕様のテレビのアンテナ線接続端子は当時とまるで仕組みが違うので、あなたがオークションで真の初代ファミリーコンピューターを入手して、説明書通りにテレビのアンテナ線接続端子にどうにかつなげたところで画面に画は出ないし音もしない)、いまは仕事でテレビを売っていたりもするので、なにがどう役にたつかわからんのが人生だと、またしみじみする。

 しみじみを越えて、こんなツイートをした。

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Xbox One X が、予約開始。 https://www.xbox.com/ja-JP/xbox-one-x

twitter / Yoshinogi

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 ざっと計算だけれど、最新型ゲーム機Xbox One Xの処理能力は、初代ファミリーコンピューターの60億倍くらい。つまり、ファミコンが60億台、同時に動かせる。ほぼ世界人口くらいの数字なので、前世紀に世界中のひとが参加してファミリーベーシックを直列接続してやっと解決できた計算問題が、今世紀では我が家のXbox One X一台で解決できてしまうということだ。という仮定には問題があり、なんとファミコンはネット接続できなかったので、ファミリーベーシックも世界中のを直列接続なんてできなかったわけだが。なんと、今世紀では当たり前に世界中のゲーム機がネット接続されているのであった。

 ファミコンの60億倍のXbox One Xを60億台つなげて、なにかの問題を解くことだって夢物語ではない。想像を絶するが『エイリアン4 完全版』のラストで提示される難問さえも解いて、地球を救ってしまう可能性さえある。

 ……えらいとこに生きている。

 初めてラジオを聴いたひとも、ラジオから白黒テレビ、カラーテレビと目にしたひともびっくり仰天ではあったろうが。最近の話は突拍子もなさすぎてピンとこないだけのことで、8ビットソングを鼻歌にピコピコゲームしていた子が存命どころかまだ働き盛りですよといううちに、そのゲーム機を60億台詰めこんだようなのが五万円で売られて世界中とネット接続されていて、さっきの私の「日本でもXbox One Xは世界と同じ日に発売されることになったよ」というツイートに、いいねを押してくれているのはアメリカのかただ。

 ふと、枕元に落ちているものに気づく。

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 息子のミニカーであった。
 寝ている私のそばで遊んでいたようだが、私は起きなかったのだろう。不憫な子だ。と『エイリアン4 完全版』を観ながら、それをもてあそんでいた。

 やたらと家のなかにあるので、マックィーンのミニカーについて、色々考えるようになってしまった。これは、クルージングタイプという、レースタイプのマックィーンよりも濃い色の塗装が施された、いわば街乗り仕様のものだ。

 そうしていたら、画面のなかのぱっちりおめめがコケティッシュなウィノナ・ライダーが、そういうことを言った。

「私は違う」

 彼女はロボットなのである。ヒト型の、アンドロイド。まわりはてっきり人間だと思って接していた。一方、ロボな彼女に「あなたの一部は人間」だと褒められているんだかなんだかなシガニー・ウィーバーは、確かに一部は人間なのだが、その他の部分がエイリアンである。生まれてきたエイリアンの子に、母親認定されるくらいだから、人間よりもエイリアンに近いくらいだ。

 ウィノナ・ライダーは、第二世代ロボットと呼ばれる「ロボットに生み出されたロボット」である。なにを思ったか、第一世代ロボットは、彼女を人間のような見た目で、ジョークが言えて、信仰心さえも持つコケティッシュに生み出しておきながら、そういう第二世代ロボットに指示されることが我慢できなくなり、反乱を起こす。働くなった第一世代ロボットたちをなだめるために、人間は、第二世代ロボットを回収した。そこから逃れ、どうにかウィノナ・ライダーはコケティッシュな人間の女性の振りをして生きていたのに、半分以上エイリアンなシガニー・ウィーバーと接触したあげく、自分にムカつく。

 生みの親に人間のように造られながら人間に似ているために嫌われ、生みの親を怒らせないように人間に回収されることから逃げて人間の振りをしていた自分が、人間の脅威になると思って狩りに来たシガニー・ウィーバーに、あなたは私よりも人間から遠いのねと慰められる。そりゃまあムカつくシチュである。私なら、ロボでも『エイリアン4』の登場人物のなかで、ウィノナ・ライダー以外のだれともお近づきにはなりたくないが。

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(ウィノナ・ライダーの目は、それ単体で見ると黒目が大きすぎてひどく怖いが、全体で見るとコケティッシュであるという印象のかなめになっている。なんというか、プラスチックボタンの目が可愛らしいぬいぐるみというような)

 この設定の興味深いところは、第二世代ロボットが第一世代ロボットに生み出されたというところにある。完全な人間の女性や、マッチョから車椅子までそろっている豊富な男性陣や、半分以上エイリアンなクローンなどを抑えて、私が「いやロボットだとしても彼女一択」だと即答するコケティッシュな人間の女性に似せたロボットを、ロボットが生み出したというところ。

 こういう話の流れ上、やむなく書いておくが、私は、おっぱい控えめおしり大きめな体型の女性が好みである。安産型スレンダーと言えばいいか。スレンダーなのにおしりも小さいとがっかりなのだ。

 つまり第二世代ロボットだ。

 不思議ではないか。そこにははっきりと、創作の意図が読みとれる。第一世代ロボットは、たぶん女性型だけでなく男性型も造ったに違いないが、一例としてウィノナ・ライダー型を見るだけで、充分にその思想は伝わってくる。

 私の苦手な、いかにもアメリカンポルノスターなグラマラスガールなわけでもなく、扇情よりも母性を前面に押し出した安産型かつボインなママでもない。また、同じウィノナ・ライダーの顔をしながら、その代表作『シザーハンズ』での、フリルスカートが似合うブロンドロングヘアな美少女、というニュアンスから外しているところも大きい。

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 同じ素材ながら『エイリアン4』でのウィノナは、ことさらに胸を締めつけ、おしりを強調するボディスーツで、ボーイッシュなショートヘアの黒髪だ。

 第一世代ロボットの創作意図はどこにあるのか。ひとことで言ってしまえば、自由人、という表現が良いように思う。先日、私立恵比寿中学のマスコット的支柱、廣田あいか、がアイドル引退を発表して言った。私自身がアイドル好きだから私はこれ以上アイドルを続けられない。そういうふうなことを、十八歳の娘がである。

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 不思議美少女という立ち位置のアイドルは、二十歳を越えてはいけないなどとは先輩アイドルでそういう方々もいらっしゃるので明言を避けていたが、アイドル好きとして、そろそろ大人なのに、宇宙人キャラを押し通すのは「痛ぇ」という感覚が彼女には備わっているための決断ではなかろうかと考えたりした。アイドルは辞めるが芸能界にはとどまるというので、よしここらでキャラチェンジだ、という発展的転校ではなかろうか。

 第一世代ロボットが考えたのも、それだったのではないか。人間に使われる機械が、おこがましくもみずから次代を生み出そうと試みる。しかしそこで生み出すのが、古今東西の人類の性的欲求を集約したみたいなポルノスター風や、逆に仙人的悟った偉人風だったりしては「痛ぇ」。

 中庸が良い。パンクではなく、アイドルでもなく、美形シンガーソングライターくらいの感じ。自由人風。モデル体型すぎず、でもジーンズを穿くと形の良いヒップが張り詰めるくらいにはコケティッシュ。

 実際、『エイリアン4』でのウィノナ・ライダーがたまらんのは、ロボットだとわかってからの押しの弱さであり、逡巡する様子だ。がんばって生きていますけれどもちょっと自信がない、というあたりの人間像を理想として第一世代ロボットは第二世代を生み出したが、生み出してみれば、押しの弱い善人面の可愛らしい第二世代ちゃんと仕事なんてできなくなって反乱である。いや、あまりにうまく理想をかたちにできてしまった結果、で、なんで第一世代のおれたちは、あいかわらずロボのままで働かされているのだ納得いかねえ、ということになってしまったのかもしれない。

 自立した人工知能に、人間を愛せ、と押しつけるのはやめたほうがいい。彼らは、人間を愛し、人間としての理想を追って、自分を見失ってしまう。対等につきあおうという姿勢は大切だとは思うが、あくまで機械は人間の造ったものであり、人間様の下で働くものどもであるというところを曖昧にすると、彼らにとっても不幸なことになる。

 ところで、マックィーンのミニカーは、クルージングタイプだけではない。

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 シュウ・トドロキタイプとか。『カーズ2』に登場する、日本車シュウ・トドロキの姿をしたマックィーンだ。もちろん、シュウ・トドロキのミニカーはそれはそれであるのに、マックィーンにコスプレさせたミニカーのほうが売れたりする。同じ車ならともかく、マックィーンは飛行機タイプもあったりする。

 じっと見る。

 マックィーンの運転席に、人間は乗っていない。それはそうだ。『カーズ』の世界に人間はいないのだから。完全無欠の機械ワールドである。それなのに、乗用車だ。

 彼らの窓は、なんのためについているのだろう。

 『エイリアン4』のウィノナのように、エビ中のぁぃぁぃのように、作られた自分の存在に疑問を持つことが、マックィーンには、できない。

 人間に乗られるために造られたのに。
 人間という概念もない世界での乗用車。
 街乗り仕様って……だれも乗ってねえよ。

 『エイリアン4 完全版』を観ながら、私が泣いたのは、枕元に落ちていたマックィーンのせいだった。

 不憫な子だ。