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『追憶のメリークリスマス』のこと。

 昨日、クリスマスの売場を作り始めました。私はもともと抽象絵画を専門としていたくらいで、小説のプロットも書いている途中で勢いにまかせて変更したりするし、基本的に棚割とか事前に用意して売場を作るほうではない。ごちゃっと商品を持ってきて、空っぽの棚を睨んで「うりゃ」と作るので、だれかに手伝いましょうかとか言われても、むしろ丁重に断ってひとりでやらせてコレが楽しいんだよというくらいで。まあ日がな一日、ああでもないこうでもないと遊んでいたのですが。電飾に電気を通し、ツリーをキラキラ光らせだしたころから、通りがかるお客さんが意味もなく「うわあ」もうそんな季節なのねえ、と表情を明るくして足を止めだす。そんな季節といっても売場作っている私は汗だくで半袖姿なので、むしろこの地球の温暖化のほうにこそ驚けという感じですが(いまも自宅の私の隣では扇風機が稼働している。11月です。あと三年もすれば冬がなくなるに違いない)。まあみんな嬉しそうな顔をする。なにが嬉しいんだかわからないが、クリスマスに良い想い出でもあるんでしょうか。私はどっちかというとクリスマスも正月も面倒くさいタチで。つつがない毎日がつつがなく回っているのに、そこに余計な行事を入れないで欲しいと思ったり。特別なデートの企画して失敗して破局するカップルとか、正月にどっちの実家に戻るべきかでもめて気まずくなる夫婦とか、いっぱいいると思うのです。静かに毎日を送っていれば幸せだったのに。

 で、今日は家にいて、原稿の合間に、売場で流すクリスマスCDを編集しているのですが。クリスマスといえばみんなが笑顔なのに、なんでかまあクリスマスソングってせつない曲が多いのね。とくに邦楽は。食いつきがいいので、できればJ-POP中心に選びたいのですが、そういえば去年も目新しい明るく楽しい邦楽がなくて、定番の英語クリスマスソングをベースにしたなあと思い出す。そうそう、徒然にも書きましたねEPOも(今年も出ませんでしたニューアルバム。確実に作業は進行しているようですが、レーベル立ち上げて何年も作り込み。作家としてのものすごさは感じるものの……鼻歌でいいからあなたの歌声をもっと頻繁に聴きたいですよ、というのは職人に対して失礼に当たるものでしょうか)。なんでだか天使が迷っているだの、いつかのメリークリスマスだの、きっと君はこないだの、暗いよ。それでもケツメイシの山下達郎カバーとか無理矢理に明るい感じのものを交えて作った去年だったのですが、そういうイロモノは人の記憶に残っているので今年は使いたくない。あれこれ入れたり抜いたりしながらファイル操作していて、結局、ベースはマライアのアルバムで、とかに落ち着く。こんなにみんな笑顔なのに、どうしてクリスマスに哀しい曲が多いのか。市場原理として出しても売れないんでしょうね。なんでだか。

 精神医学療法的に、哀しみには哀しみで対抗するのが良いらしく。失恋して落ち込んでいるからコメディーじゃなくてメロドラマを観る、というのが心の癒しのためには正しいのだそうです。ということはあれだ。私の背中越しにできあがりつつあるクリスマス商品群を見て「うわあ」と笑顔になった彼女のあとをそっとついて行ってみれば、数十秒後には笑顔の反動でため息をついているのかもしれないと夢想する。祭りのあとに意味もなく泣けるように。笑顔の理由は過去からの学習で、脳が記憶するすばらしくハッピーなとある瞬間のことを想いだしたからこその笑顔なのであって──そのことは同時に、最高の瞬間はすでに過去のものであることを確認しているのに等しい。

 しかし、だれもがクリスマスのデートを失敗して破局した経験を持つわけではないだろうし、ひとりで過ごしたクリスマスの記憶なんてほとんどすべての人が持っているだろうし、人は自分の顔に浮かんだ笑みで数十秒後に過去の幸せを想ってどんよりするのだとしても、こんなにも哀しく切ないクリスマスソングに需要が多いのはどうも釈然としない。そこで思う。メロドラマ療法においては、メロドラマの内容というのはあまり関係ないのだということを。要は切なさに切なさ、ちょちょ切れる涙にちょちょ切れる涙をぶつけられればそれで用をなすのである。ということは。

 需要があるのは、破局の歌ではないのかもしれない。

 ただ人はなんとなく、楽しいクリスマスの雰囲気のなかで、胸にもやっと浮かんだ切なさをどうにかしたいなと思うだけなのかもしれない。いつかのメリークリスマスを聴いて、いつかのメリークリスマスを想い出し、いまはそばにいないいつかの恋人とのことを想い出すのではなく。もっと普遍的なもの。惚れたの腫れたの、やったのやられたの、くっついただの別れただのいうような、具体的な想い出にもとづく追憶のうえでの切なさではなく、もっと抽象的な。だれもが持つ切なさがこそ、哀しく切ないクリスマスソングを求めているのかもと考えたりするのでした。

 だとすると。洋楽に脳天気なハッピ-クリスマスソングが山とあるのに、この国ではクリスマスソング=追憶のバラードという図式になってしまいがちなことからも、容易に仮説が成り立ちます。根元的にクリスマスが聖誕祭としてのハッピー行事であるキリスト教圏と違い、この島でのハッピークリスマスとは家族行事のこと。思春期に入れば、クリスマスは恋人たちの行事になってしまうここでは、いっさいのしがらみなく笑顔だけがあるクリスマスの風景は、子供時代にしかない。現実の姿をぼんやりとしかとらえられず、サンタがこの世にはいないと確信してもなお、クリスマスのプレゼントとケーキには満面の笑顔でいられた。意味なんて無い。クリスマスだから=ハッピーの風景。

 失ってしまった二度と手には入らない完全無欠のハッピーとは、遠い子供時代の吹き消したロウソクではないですか? 失恋クリスマスソングを聴いて癒されるのは、完全無欠には決してなりえない現実と打算だらけの今年の私のクリスマスのせいではないですか?

 ──かもな。
 そう思って、今年はバラード調のモノぜんぶなし。脳天気にハッピーマライアに歌い上げさせておきます。

 追憶のなかでツリーを買って帰るがいいさ。
 買って帰って「なんでこんなもの買ってしまったのだろう」と呟いて切なくなるのは、自分の家でやればいい。
 しかし、いまもタンクトップ姿で冷たいミネラルウォーター飲みながらコレ書いているんですが。本当にホワイトクリスマスなんてこの国では夢のことになってしまった。追憶するのは、四季のあったこの国──そうだなあ、もしかするといま書いたことぜんぶが見当違いで、単に世界におけるキリスト教圏のほとんどで、冬といえば路上で凍死者が出る冬のことを指すのであって、だからこそ、寒い時期のお祭りとしては空騒ぎでもハッピーにアップテンポな曲が求められるってだけかもしれない。この島は恵まれているのだよ。半袖で冬支度をしながら、死とは無縁のぬるい寒さに切なくなったりする。結局のところ、切ないクリスマスソングが売れるのも、年の瀬の寂しささえ「わびさび」だと楽しんでいるということなのかもしれません。

 クリスマスの準備をしながら、そんなことを思ったんですよね(稲川淳二調)。気のせいでしょうか。

Mariah

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