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『初心者たち』の話。




狩猟用に
強く勇敢な犬を作った
キツネを追いたいと
思うのは──
そういう性質を
与えられたから
でも今は みんなが
”かわいい犬”と思うから──
キツネを狩るためでなく
かわいさで飼われる
だからテレビや映画に出て──
キツネの代わりに
テニスボールを追うんだ

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映画 『人生はビギナーズ』

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「愛されたかった人生でした」

 と書いて。

「みんなありがとう、大好きだよ」

 と書く。
 私ならば、躊躇なく、みんなのことを愛していると書く。

 「好き」と「愛」は違うニュアンスのものだったのかもしれない。

 まだまだ幼い少女だったとき、闘う母親を観て、血が流れていて、泣きじゃくっていた。

 その頭を撫で、母は笑う。

 大丈夫だ、これが母の仕事だ。
 みんなもよろこんでくれている。

 私は愛していた。
 愛している。

 狩猟犬を狩猟犬として愛でていて、血を流す闘士の娘が、望んで闘場へおもむいたものの、あまりの凄惨さに泣いてしまった、そのときもうすでに、少女も母のような闘士になるかもしれないと予感した。

 現実に少女は、ほどなく、闘いはじめた。

 闘う動物を愛でる界隈では、血統というものは特別視される。

 少女は、まぎれもなく、闘うことが「好き」に見えた。

 血だね、と、私は観ていた。

 なにかあっても、血がよりどころになることはある。踊る、歌う、書く、読む、作る、見る、愛でる、吠える。

 キツネを追ったら褒められる。
 そう作られて、そう育てられて。
 その犬がキツネを追うことになったのが、結果的なことであったにしても。血が導いた先で、キツネに噛みつく犬は、迷いなく美しく。

 少女は、まだ少女だった。
 そういうことか。

 少年少女の時代には、だれもが行き詰まる。
 巣を出て、巣を持つ、途上にあるから。
 よりどころのないなかで、接する世界の辺境が、すべてになる。

 とりあえず目の前のエサを得るのが、動物としての本能。宇宙が広大なことを教科書で習っても、知覚できる世界は広くならない。

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 自分が体感できる狭い世界より、自分が見ている広い世界のほうを『住んでいる世界』と認識するほうが正しい。けれど、どうしてもこの広い世界に自分がいるのだという実感が持てない。

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 奈須きのこ 『空の境界』

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 血の導いた、よりどころのある世界で、少女は己の巣を作りはじめているように見えた。時代のせいで闘場が閉鎖されているあいだに、振り切ってしまったのは、とてもやるせない。

 大丈夫だ、これが私の仕事だ。
 みんなもよろこんでくれている。

 キツネの代わりにボールを追って、撮られて。

 世界が広いことは知っているのに、いまいる世界とは別の世界へ行ける自分は見えなくて、だから確認してしまったのかもしれない。

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シーモアは試してみたくなったんだ。これが現実なのかどうか、そのことをだ。

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 乾緑郎 『完全なる首長竜の日』

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 ここに、いる、のか、いない、のか。
 「る」ことを証明できるのは悪魔だけだけれど、「ない」ことを証明するのは、だれでもできる。なくしてしまえばいい。あってもなくなるし、もとからなければ、なにもなくならないのだから、事前事後とも、なにもない。

 私の祖母は、動物的勘の鋭いひとで、株に強かった。リアリストで、虚構の類をまったく受けつけず、一冊の小説も、一本の映画も愛でることなく、生涯を閉じた。基本的に人間不信で、夫が逝って、ほどなく後追いのように逝った彼女のことを、私たちは、いかにもなことだと受けとめた。

 私は、彼女のなかで、彼女は、もう、いなかったのだと思った。

 みんなが誘っていたし、どこへでも行けたし、なんだってできるのに、彼女には、ほかの彼女が想像不能だった。

 『人生はビギナーズ』でユアン・マクレガーの父は、連れ合いをなくして、七十五歳にして、はじめて男の恋人を求めて募集広告を打ち、実際にセックスの相手と恋人を得て、そのことを息子にカミングアウトする。監督・脚本のマイク・ミルズの身に起きた実話だそうだ。

 思い出さずにいられなかった。
 ということは、私は、その映画を観ていなかったら、別のことを考えていたか、考えもしなかったのかもしれない。

 同時に、何冊かの本の一文も頭によぎった。

 なにより、少女の闘った試合を思い返した。

 ということは。

 逝ってしまった彼女も、私をカタチ作っている一成分。彼女によっても作られた私が、彼女の語った言語を引用しながら、彼女についてまた考えていることにもなる。

 ただ逃げる、とか、それを正当化する、とか。
 自分を納得させる、とか、ほかの可能性について考える、とか。

 ひとりでは無理。
 動物には、できない。

 世界のぜんぶは知れない。
 世界のほとんどは知らないことでできている。
 人生は短すぎて悟りに到達できない。

 だから、直接的にでも、間接的にでも、他人から分け与えてもらって補う。

 人生初の無観客試合のあと、少女が言った。

 なんだか独り言を言っているような気分。

 闘いを魅せて、観ることが、共通言語だったのに、会話が成り立っていない、と。世界はひとりじゃつまらない、と。

 いま思えば、少女に、それ以外の言語のなかったことが。そういう闘う血を魅せてと望んだ、狭い言語を熱烈な信仰に近く解するひとりとしても、うなだれたい。その言語は万能じゃなかった。だれもを救うわけではなかった。

 世界には無数の言語を話すひとがいる。そんなのは、わかりきっている。わかりきっているのに、自分の棲むところがすべてだと信じてしまう。こんな奇怪な言語を解するひとはどこにもいないはずだと決めつける。

 なにかの映画で観た、あの島に逃げようかと、その映画を観たことのない少女は思えない。

 どこにでも救いはあると、どうにでもなると、先人たちのつぶやいた悟りのかけらがあふれかえっていて、否応なくだれもが摂取して、話せないけれども、自分とはまったくちがう言語で生きられる世界もあって、そっちもこっちも行き来は自由だということは、初歩の初歩として幼児以上はみんなが知っている場所であってほしい。

 なにも知らない初心者のまま終える。だったら、どこでどう仕切りなおそうと、やっぱり初心者。なのだから、いくどでも初心者のよろこびを味わうべく新たな世界に転ぶのが、きっと満ち足りる。


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