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『禅+デフォルト・モード・ネットワーク』の話。



 あけましたよこんにちは。
 さてなんの話をいたしましょう。
 徒然に。

 大晦日。

 年末格闘技をテレビ観戦。年によっては年越しプロレスなど観ていることもあるのですが、地上波で大々的に放送されているのがあると、リアルタイムで観ておかないと翌日には避けられないネタバレに遭うというネットの世紀。

 で、観ていて。たのしかった。それはよかった。ただ、まったく試合内容と関係ないのですが、夜も更けてアルコールを浴びつつ観ていたせいもあるのか、妙なことを考え続けていた。

 女子スーパーアトム級タイトルマッチ。

 ハマサキ・アヤカ VS ハム・ソヒ

 良い試合だった。
 結果はここでは語りませんが、テレビで観ている私も、テレビの向こうの会場のボルテージも、最高潮だった。それを、さらに高めようとアナウンサーが叫ぶ。

 声援にかき消される絶叫の中継。

「ハマサキが! ハムソヒが!」

 なんでやねん!!
 と、私は大声で、つっこんでいた。

 聞きとれない。名前が似ている。というか、似ているのだから、呼びかたを変えるべきではないのか。いや、変えるというか、ハム・ソヒはフルネームだ。韓国のひとの名前は、日本と同じく、性が前で名が後ろ。

「ハムがハマサキの!」

 なら、聞き間違えようはないのに、わざわざフルネームを絶叫するから、ややこしくなっている。思い出す。韓国の映画は、よく観る。映画のなかでも、だれもが相手のことをフルネームで呼んでいる。理由はあきらかで、あの地方のひとたちの名字は、五人にひとりがキムだから。私はヨシノギなんて珍妙な名だが、もしも社員二十人の会社で、四人のヨシノギさんがいたら、おのずとフルネームで呼ばれるようになるだろう。

「ヨシノギタクミさん」

 いやだったら名前で呼べばいい?
 でも、職場で「タクミ部長っ、会議に遅刻しますっ」なんていうのは、やはりおかしい。そういう事情で、フルネームで呼ぶことが一般的になったのだろうことは、心情的に、よくわかる。

 だったら、だ。

「ハムソヒがハマサキアヤカの!」

 と言ってくれたら、いい。
 長い?
 私も、そう思った。

 そこに違和感をおぼえた。
 王座戦である。たとえばボクシングで三兄弟全員がチャンピオンなんていう一家がいて、そういう場合には、アナウンサーも下の名前で躊躇なく呼んでいる。職場ではない。エンターテインメント興行である。わかりやすさは大事。

「ヨシノギ長男のフックにセコンドのヨシノギ次弟は声援を送りヨシノギ末弟は気を抜くなと声をからしております!」

 長い。
 名字は抜けよ、とだれもが言う。
 タクミ部長は、失礼なのだとしても、

「初の防衛戦を迎えたチャンピオンのタクミが吠えております!」

 というのは、失礼に当たらない。
 だからアナウンサーも下の名前だけにする。
 大晦日、これもそうでいいのに、と私は思っていた。

「ソヒがアヤカの!」

 で、よくはないか。
 まあ、たぶん、実況してみるまで、アナウンサーもハムソヒとハマサキの語感似ている問題に気がついていなくて「アヤカ」と呼ぶのは照れくさかったのでしょう。

 と、いうようなことに気を散らしながら観戦していた私が、その脳髄の裏側で同時進行的に考えていたのが、デフォルト・モード・ネットワークの存在だった。

 DMNと略される、Default-mode network。

 禅における瞑想とはなんであるか、という文脈で日本では昔から論じられてきたことが、近年、世界中でいまさら解明されつつある。

 ヒトはなにも考えないではいられない。

「無になってみましょう」

 と、目を閉じる。
 もしくは流れゆく雲を眺める。

 でもヒトは無になれない。
 どころか、脳はデフォルト・モード・ネットワークを活性化させる。いわば、暇ができたのでディスク・クリーンアップしてデフラグまでしてしまおうというようなことが起きる。脳の中身をすっきりさせて考えがまとまったり閃いたり。ビル・ゲイツは無心に皿洗いをする時間が自分には必要だと言った。それも禅。

 暇があったらニュースを見るクセのあるひとは、デフォルト・モード・ネットワークが活性化する暇がないので、だんだんと脳の活動速度が落ちていく。それがスマホ依存の正体であり、瞑想の時間を持たないヒトは考える葦ではなくなって、ヒトとしての生きる意味さえ見失い、ヒトから逸脱していく。

 そんな脳の仕組みが解明されはじめた昨年、禅を論じる思考遊戯のアプローチとは別角度から、磁気共鳴画像の撮影によって脳の実際を観察しながらなにがどうなるのか研究しはじめたひとたちがいて、とある事実を突き止めた。

 「美しいもの」

 それを見るとデフォルト・モード・ネットワークが活性化する。

 ……ほう、という研究結果。

 ぼおっとすることが瞑想であって、それによって脳の基礎機能が元気になる、という過程で、なんであれ外部刺激が作用するという考えは、これまでなかった。しかし「美しいもの」を見ると、DMNにブーストがかかるっすよとMRIが言っている。ならばこういうことだ。

 ビル・ゲイツは皿を洗うかわりに美しい妻の瞳を見ても閃く。

 うん、そうね。あるかもね。この文章だとありそうだが、くだんの研究でおもしろいところは「美しいもの」の定義が完全に主観であるところ。おもしろいというか、もちろん当然といえば当然のように、私が彼の美しい妻の瞳を眺めても、デフォルト・モード・ネットワークは活性化しない。たぶんしない。私は私の美しいと思えるものを眺めなければ効果を得られない。

 私は私の妻の瞳の奥を……

 と、想像したとき。
 そんな状況で「美しい」と口にしたことはいちどたりともないが(照れているだけ。思っていないということではむろんない)、違う状況で、その言葉を自分がひんぱんに口にしていることに思い至る。

 ルチャ・リブレでは、ほぼ毎試合のように、宙を舞う彼らに。
 ジャパニーズ・プロレスの試合では、バックドロップのアーチに。
 女子格闘技王座戦では、けずりあう、こぶしとこぶしの攻防に。

「美しい」

 グラスを傾けながら特に、連発している。
 心の底から想っていて漏れる言葉。

 ということは。
 私は、闘う彼ら彼女らを眺めて、美しく極まる技や試合に、禅寺で瞑想しているのと同じ効果を得ていることになる。

 だからか。

 闘うふたりの姿を見るだけで 美しい とつぶやき瞑想状態に入った私の脳ではデフォルト・モード・ネットワークが活性化され、私の人として生きる意味を明確にする。それこそがアナウンサーの気転のきかなさにつっこみを入れて記憶し、新年に真っ先に書かずにはいられないこんな状況を生み出している。もしも私が揺れる水面を見てデフォルト・モード・ネットワークを活性化できたなら美しい水の詩を詠めただろうに、私ときたら生身のヒトとヒトが血眼でくんずほぐれつしているさまでしか活性化されないから。

 ああだから、くんずほぐれつしているさまを描くのか。

 とても自然ななりゆき。

 王座戦。さすがレベルの違う風景に、さとりを与えられた。人生に迷いがなくなっていた。納得して、書き続ける年明け。

 禅、に、デフォルト・モード・ネットワークという解釈が足され、無心で格闘に魅入るときにこそ、あれこれやと考えている我が脳を肯定できる。たかが言葉だが、その言葉あるゆえに、さとる。

 チンコ、と書く。

 そこにそれはないのに、ここにある。なにもかもがそうだ。愛も恋も憎しみも、ないのに、ここにある。

 ヒトは無になれない。
 いや、無にはなれる。消えればいいだけ。ヒトで在りながら、無になることができない。すでに在るから。

 チンコとは、チンコという物体ではなくて、その言葉によって私とあなたのそれぞれが想い浮かべたなにかだ。そのなにかは、もうすでにここに在る。

 禅である。

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