最近の記事

スポンサードリンク

月別アーカイブ

『棺桶マッチ』の話。


時々 思うんだ
僕は一生で味わう感情を
味わってしまい──
新しい感情は
もう湧かないかもと
ただ──
味わった感情の劣化版だけ

B07B2TM7YJ

映画『her/世界でひとつの彼女』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 スパイク・ジョーンズ好き。『かいじゅうたちのいるところ』をスマホに入れて持ち歩いていて、私自身もふと観たり、泣く息子に観せてあやしたり。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『雪に埋まれ』のこと。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 孤独。というものが、監督の作品にはいつも描かれていて『her/世界でひとつの彼女』では、彼女がついに人工知能である。

 『シュタインズ・ゲート ゼロ』でもやっていたが、人工知能彼女を胸ポケットに入れてデート。

B07BGMC3DQ

 スマホのカメラを通して彼女は現実世界を散歩する。たのしいおしゃべり。声だけのセックスまでやってみるところが、いかにも監督だ。そして当然のように孤独が倍増して襲いかかってくるのかと思いきや……

 実際のところ現代において、Skypeでのビデオチャットがセックスライフの中心という地球の離れた場所で暮らす恋人なんて珍しくもなく、だったら相手が有機脳だろうと機械脳だろうと、なんら問題はない。

 好きか嫌いかだけ。
 生殖から切り離された現代地球の恋愛は、プレイの幅も広がったので、同好の士が見つかれば、それによって恋に落ちればいい。友人から「それってたのしいの?」と訊かれても、ということはこっちから見ても「それってたのしいの?」という人生プレイを共有できる相手を友人だってさがしていたり得ていたりするのだから「それってたのしいんだ。ふうん」と、まったく理解できないけれど他人のことなのでそういうひとなんだなあと、友人関係は続けるのに支障ないから続ける、というのがデフォルトである。

 昨夜、私は、私の大好きなルチャ・リブレをテレビで観ていた。メキシカン・プロレスである。顔を隠したマスクマンが多く、勧善懲悪ストーリーなので、いわば仮面ライダーシリーズのひとつででもあるように熱狂できて、私ほどではないが、素顔で予測できないガチ試合を演じるアメリカン・プロレスよりは、三歳の息子も、ルチャのほうが飽きないで観てくれている。

 その彼が、焼きそばを食べながら言った。

「あれ、ひいおばあちゃん、はいってる?」

 二日ほど家を空けていた。
 それでさっき帰ってきたから、簡単に山盛り作れる焼きそばが晩ごはんだった。二日ぶりのプロレスを、テキーラをソーダで割って飲みながら観ていた。

 妻の祖母が亡くなったからだった。

 テレビでは、帰ってきて熱狂しようと私の観はじめたルチャで、妻の顔色をうかがってしまいそうになることに、棺桶マッチがおこなわれていた。

 メキシカン・プロレスでは、ドクロのマスクをかぶったレスラーも多い。彼らは正義の側だ。仮面ライダー一号も、石ノ森章太郎はドクロのデザインとして考案し、スタッフからダメが出て、触覚をつけて緑色に塗りバッタということにしたと聞く。

 棺桶マッチとは、対戦相手を棺桶に入れて蓋を閉めたら勝利する、というルールのプロレスである。試合では、まだだれも入っていない棺桶の、蓋をまず開けるというところから攻防がはじまる。

 白と黒のマスクマンが、蓋の閉まった棺桶を挟んで対峙する。

 三歳児は焼きそばを口に運びながら、その日の午後、私の腕に抱かれて見た光景と、囁かれた言葉を思い出していたのかもしれない。

 死体を清めて着物を着せて棺桶に入れ部屋に置く、というすべてを通夜で見せた。翌日、その棺桶が三歳児は目を輝かせずにいられない大仰な機械で、窯に運ばれ、押したくて仕方なかったが、喪主が押すことになっているので押せなかった赤いボタンを押したら、ボッと音がして、ひっ、となった。

 私が言った。

「火が点いたんだよ」

 三歳児は答えた。

「ひいおばあちゃん、はいってる?」

 もちろん二時間後に、灰になった棺桶も見せたのだ。しかし帰って、ルチャの棺桶マッチを観て、またそれにもあのひとは入っているのかと訊いた彼の有機脳では、彼女が焼けて消えてしまったというところが、きちんとは理解されていないのか。きれいに洗われて、棺桶に入り、一晩置かれていた。その棺桶を入れたのに、火が点いた?

 二日間、なにをやっていたと解釈しているのだろう。

 彼女は、私を下の名前で呼んで可愛がってくれた。その彼女が、目を病み、世界が見えなくなって、ベッドの上での生活を余儀なくされてから、息子を連れていった。

 三歳になるまで、なんども逢ったけれど、いちども、彼が泣かずに彼女に抱かれたことはなかった。私を呼ぶように、私の息子も下の名で呼んで、猫なで声で、見えないので手がゆらゆらとさがす。息子は近づこうとしないが、そういうわけにもいかないから彼女のそばへとやると、大泣きした。

 きっと彼女は、小さな私を想像していたと思う。そしてまだ自分で歩き、見ていたころ、私の手を握ったように、私の息子を抱こうとするが、彼は一秒とじっとしていないし、あきらかな拒絶どころか、盲目の老女に恐怖しか表明していない。

 だけれど。
 苦笑いする彼女は、一秒触れるのがやっとな、見ることもできないミニチュア版の私との交流とも呼べないような交流に、それまでの人生で味わってきた感情の劣化版を感じているようではなかった。

 他人のことだが、見ていて、断言できる。最期まで、彼女のなかに湧いていたのは、その日に生まれた新しい感情だった。

 最期のころ、なんどか私に対して、彼女らしからぬさびしさを滲ませた抱擁を与えたことがあった。あれこそむしろ、彼女は過去を見ていたのではないかと思う。見えていたころの私を、触れて見えている気になって、いま見えていない自分を思い出す。

 ああごめん、と思わず言いそうになる。私は過去で、私に触れると彼女は過去にもどってしまう。彼女がひとり暮らしする家で、幾度もコーヒーを煎れてもらった。そのコーヒー好きが、豆に注ぐ湯を沸かすのに見えなくて火を出し、彼女の目がすでに視力を取りもどせない段階になっていることを周囲に知らせたのだが。

 逢うと、コーヒー煎れよか、と言う。
 私に触れてそう言いかけて、自分がコーヒーを他人に煎れるどころか、内機能疾患のために自分自身も舐めることさえ禁じられていることを思い出す。

 ああごめん。
 身を離すべきか、強く抱くべきか、迷った。

「ひいおばあちゃんは入っていないよ」

 テキーラを継ぎ足すと、息子がオレンジジュース入りのコップを差し出す。

「かんぱい」

 いや、それは違うなあ。
 三歳児は通夜でも、点されたロウソクに「ハッピーバースデー?」と祖母に訊き、なんだかよくわからないがみんなが泣き笑った。

 棺桶のなかに花を入れ、私が彼女の頭を撫でると、息子も手をのばした。やっと、彼女がひいおばあちゃんだというひとで触れてもいい相手だとわかったのに、彼女は動かないし、物理的に冷えてしまっていた。

 でもまあ、すれ違いの時間軸だったにしても、彼女も彼も、互いの感情を新たに揺さぶりあって、響いたのは違いない。

「おつかれさま、かな」

 グラスと、プラスチックのコップを合わせ。
 棺桶マッチの続きを観た。

TRACKBACK http://yoshinogi.blog42.fc2.com/tb.php/747-dc8449c3