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『しあわせホルモン依存症』の話。




 『七月と安生』という映画を観た。



 原題『七月與安生 / SOUL MATE』。カタカナで読むと『チーユエとアンシェン』。原題にソウルメイトとあるとおり、ふたりの少女が生涯を通じて酸いも甘いもないまぜになった友情を育んでいくという物語。まだDVD化されていないのでネタバレはやめておくが、片方がウェブで私小説を書きはじめ、片方は妊娠出産を経験したことから、観たあとに叫び出したくなるような美しく激しく胸しめつけられるラストに収束する良い映画だった。

 同性の友情を描いているが、ベッドで腕枕して男の振りをしてふざけあったり、実際にどちらもに男との関係性が生まれはじめると、互いに「うん?」と、なんだか自分の胸にざざめいた感情を持てあまして顔を背けたりしてしまうのが描写としてはボーイズラブ的だなあ、と思いながら、けれども現実にも、同性異性問わず、友情に第三者との恋愛が絡んできたときにざんざめく嫉妬のごとき重低音な叫び的それというのは、よくある感情で、そんな感情を足がかりにして友情が欲情に変わって一秒前までの友人を押し倒すなどという展開は、そうそうあるものではない。少なくとも私は経験がない。「そうなんだ好きなひとができてうまくいっているんだよかったな」と言いつつも友人のくせにけっこうな嫉妬をおぼえるということはノンフィクションとしてもあるが、それは所有欲独占欲という観点から生まれる当然の心の揺らぎだと納得している。

 今年のNHKの大河ドラマが、大河ドラマ史上初のボーイズラブ展開を描くということで話題になっているけれど、とはいえ西郷どんが押し倒されて、ぁんぁんらめぇっ、なんて展開はさすがにないと推察される(演じる鈴木亮平には変態仮面という実績があるので能力的には可能なはずだけれど)。ということはボーイズラブ的展開があるといってもプラトニックなもので、だとするとそれを深みのBL方面から眺めるぶんには、それってボーイズラブじゃねえよという気もしなくはない。

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 で、たとえばこの世界が女性専用車両だったら、ということを『七月と安生』を観ながら考えた。ノーブラ主義のはずのあんたがなぜブラを干しているのよそれにしたって残念ね彼はこういうのは趣味じゃないのこういうのが好みなのと純白のブラをはだける場面は上の予告編でも使われているが、その名場面も、男がいなければ生まれない。ところで女性専用車両で劣情は生まれないのだろうか。

 ふと、その映画を思い出した。
 がっつりエロいWヒロインものだ。
 『アデル、ブルーは熱い色』。

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 原作は『ブルーは熱い色』。

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 映画に足された『アデル』というのは、主演のアデル・エグザルコプロスのアデルである。フルヌードで女同士の濡れ場満載な作品に、キャラ名をつけず自分の名前で演じるという決断をして監督のお気に入りになったようだ。Wヒロインの片割れレア・セドゥは、この女と私は別人、ということでキャラ名でいくことをかたくなに主張したらしい。映画のなかでは歳上のどちらかというと男役で、イメージ的に本気でそういう嗜好だと信じるファンが増えるとやっかいだという判断もあったのだろう(彼女は結婚制度を信じてはいないために結婚はしていないが男性の恋人とのあいだに男の子を作っている)。だったら原作のままの『ブルーは熱い色』でよさそうなものを、片方のヒロイン名だけ冠する(原題は、邦題とは違って原作のタイトルをなぞったものではない)タイトルになっているあたりが、監督とレアとの関係性も透けて見せているようで興味深い。アドリブを多用しテイクを延々と重ねて細かな画を撮るアブデラティフ・ケシシュの手法に、レアのみならずアデルも二度と監督とは組みたくないと公言しているから、監督が自分の望みを聞いてくれたアデルに肩入れしているだけで、双方向での関係性と呼べるものが構築されていたのかどうかは怪しいが。

 男同士の恋愛であれば『ブエノスアイレス』という傑作がある。

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『ブエノスアイレス』の話。

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 私にとっても聖書的な映画なので、どうしても比べて観てしまう。たとえば、女同士だと、ケンカがこうだ。

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このアバズレ

売春婦 セックスしたのね

我慢できない?

車でフェラチオしたあと

私にキスした

私に触れ 私を見た

よくそんなマネを

しかもウソをついた

作り話をした

汚いアバズレ!


映画『アデル、ブルーは熱い色』

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 私の記憶にあるかぎり、女性が描くボーイズラブ作品においてさえ「女にクンニしたあとおれにキスした!」と怒る男に出遭ったことはない。

 一方、エロ描写のない友情を描いているはずの『七月と安生』でさえ、たびたび男は邪魔者であり忌むべき存在だということが言及されている。

 女性専用車両はあっても男性専用車両はない。

 仮定してみる。男性専用車両があったとして、私はそこに乗り込むだろうか。否である。即答する。運賃が五十円くらい安くなるとしてもことわる。かといって女性専用車両には乗れないから、両性車両に乗る。なぜなら動物の本能として、まわりが男ばかりという状況は生存のための危険が確実に増大するし、緊張感も生むので心労だけで早死にしそうだから。男性ホルモン臭なんて自分のだけでいっぱいいっぱいだ。

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寂しいの

触れ合えないことが

会えないのが

息を吸えないのが

欲しいの

いつも

あなただけが

すべてが恋しい

欲しくてたまらない

触れさせて


映画『アデル、ブルーは熱い色』

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 そう言ってアデルは、レストランで彼女の指をしゃぶりはじめる。

 しあわせホルモンと呼ばれる脳内分泌物質オキシトシンは、性交渉による子宮頸部への刺激で分泌促進されるためにラブホルモンとも呼ばれてきた。出産や授乳に関わるために女性特有のホルモンとされていたのが、近年、男性でも分泌されると証明され、オキシトシンが分泌されるとあらゆる依存症を改善する効果があることもわかって研究が進んでいる。

 男性には子宮頸部がないから刺激も不可能なので次の策を練ることになるのだけれど、実のところ性的接触にのみならず、無機物たる可愛いぬいぐるみを抱きしめてもオキシトシンが分泌される。
 が、ここで一句。

 ぬいぐるみ
 熊だと思えば
 ヒゲ男

 テディベア=毛だらけ=ヒゲ男、というような連想の働くノンケの男性がテディベアを抱きしめても、研究者の見解を待つまでもなくオキシトシンは分泌されない。

 可愛いぬいぐるみ、と思えるかどうかが鍵なのだ。

 そして科学は幻想を砕く。
 オキシトシンはラブホルモンと呼ばれてきたが、子宮頸部への刺激を与えるのは偽物のチンコでもいいのだった。しあわせホルモンと呼ばれているが、抱きしめる、抱きしめられる相手とのあいだに恋愛感情のあるなしは別にどうでもいい、ということもわかった。

 つまり、ぁんぁんらめぇっ、と声をあげられればそれでよく、言ってしまえば自己陶酔できるひとにオキシトシンは降り注ぎ、ハッピーな思考回路でセックスもオナニーも大好き他人に触れてはきゃあきゃあ言える脳天気ぶりを発揮すればするだけ、現実にしあわせになる。現実の現状がどうであれ、しあわせを感じるのは脳であり、なんであれ恍惚となにかをしゃぶればオキシトシンを分泌できるのならば、しゃぶればしゃぶるだけしあわせの極地に向かっていく。

 そういう現代の研究成果を片手にたずさえてさっきのアデルを眺めると、合点がいく。困ったことに、逆説的な理由によって、その喪失はどんな依存症でも癒やすことができない。ドラッグ依存症を回復させてしまうオキシトシンが、彼女に触れて舐めて愛を語れば脳内でドバドバ出るのだから。

 しあわせホルモン依存症、と呼べばよい。

 確かに近年、男性にもオキシトシンは分泌されると証明された。だが、長きにわたって、それが女性特有のホルモンであるとされてきたのは、その依存症患者が多かったからに他ならないのではないか。

 別れた男とヨリをもどそうという会談の席で「おまえに触れたくてしかたなかった」と言って自分を抑えられず彼の指をしゃぶりはじめるボーイズラブも読んだことがない。感覚的に、どうもしっくりこない。私なら彼の手をとって「彼に」私の唇を触れさせる。求めるのではなく、相手にとって自分が必要な存在であるということを、認めさせるように試す。接触自体が重要なのではなく、相互依存の力関係を確かめたい。

 恋愛対象がどうであれ、肉体構造として男と女が違うからには、同じではない傾向というものがあるはずだ。それは大げさに言えば、犬と猫の性質の違いのような。犬のような猫だって、猫のような犬だっているにはいるにしても、そういうふうに進化した、という根底から違う部分はある。

 それが接触によってオキシトシンの分泌されるせいなのかは定かではないにせよ、Wヒロイン映画を観ると、好いても嫌っても愛をささやいても激怒していても、なにかにつけ「触れた」「触れない」が焦点となっていることに気づく。そしてそれが自然だ。いかにも女性はそういうことを問題視する。

 男性ボクサーは、試合前に禁欲するようトレーナーから言いわたされる。男性は射精の瞬間にオキシトシンが分泌されるが、同時にプロラクチンも放出される。プロラクチンはコルチゾールの活動を促進し、ドーパミンの分泌を抑制する。コルチゾールは筋肉を分解して栄養に変え、ドーパミンが抑制されると意欲が失われる。つまり男性は、射精するとしあわせホルモンも出るが、脱力して意欲がなくなる。ウルトラハイパーリラックスモード。目を細めて天井を見つめての賢者タイム。となりの女に頭なでなでしてとか言われても、もうセックスは終わったのにうるさい毛のない熊だなあと思う。こっちはすべてが終わって筋肉まで溶けているところで、殴りあう試合どころか会場に行く気さえも失せている。

 そうなると単純な話、しあわせホルモン依存症におちいった女性にとって、オキシトシンを分泌させる肉体の接触を延々と続けるには、相手も女性のほうが構造として正しいと思えてならない。射精という仕組みは、どう考えても邪魔だ。喉の奥にも性感帯があるというひとがいるが、それはそれとして、偽のチンコでもいいし……ほら、彼女の指でもいい。

 生殖行為というものがまずあって、そこに被せての恋愛だったがために犬と猫がカップリングされてきたが、それを抜きにして、ただただしあわせとはなんであるかを考えれば、それはホルモンの分泌で、自分がなにを好み、なにをなでなでしたいか、なにになでなでされたいかということに尽きてくる。そういうことをシンプルに突きつめていくと、車をなでなでしたり、フィギュアをなでなでしたりという修行僧的行為こそ、しあわせ教の終着駅のような気もしてくる。恋人もペットも子供も、いつかいなくなるという虚無への不安を一抹加えてのなでなでだが、無機物で分泌できるようになれば永遠を手に入れたのも同じだ。

 奇しくも、ボーイズラブの新人賞ではハッピーエンドが推奨されているのに、世に出まわるLGBTを孕んだ映画のことごとくがハッピーエンドを描かない。愛とは欲求であり、賢者タイムで終わらないオキシトシンの分泌を追い求めると……すなわち、しあわせそのもの……を追い求めると、もちろん破綻する。なんであれ依存症患者はそれによって日常生活がままならなくなるから患者なのである。ぁんぁんらめぇっ、で目の前が真っ白になってハッピーエンドのボーイズラブは夢だからこそエンタメとして成り立っている。地球の裏側の『ブエノスアイレス』では欲求が射精によって承認されたあとに現実が待っているので夢を見てばかりもいられない。酔えないオキシトシンに依存することはむずかしい。

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私は幸せよ

こうしているのが幸せ

これが私の幸せなの


映画『アデル、ブルーは熱い色』

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 彼女の裸の乳房に頬を寄せてアデルは言う。家にいてばかりでなく、あなたのしあわせを見つけてよと彼女は言ったのに、アデルはその彼女のおっぱいに脳をやられている。まぎれもないしあわせの果てでアデルは微笑んでいるのだが、しあわせホルモンはテディベアを抱きしめても出る。彼女が去って行くのは、彼女のおっぱいが萌えイラストのプリントされた抱き枕ではないからだ。

 この図式は、あらゆる恋愛関係のなかにたちあらわれるものだし、どうしようもない問題だからこそ普遍的に映画の題材になっている。ふたりが互いに、いい感じでなでなでしあうには、友人の線を越えないか、相互アナニーというような概念を導入するしかない。

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『相互アナニーについて考えてみる』のこと。

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 互いに生きたフィギュアで、慰めあうのが愛なのかということは突きつめずに、しあわせホルモンを量産して、どうやって射精というものにも折りあいをつけていくのか、話しあったりせずに試行錯誤で続けているうちにかけがえのないパートナーになる。

 しあわせに依存したいが現実にも生きたい。その欲求が、物語をせつなく彩ることが多いように感じるのは、観客が流す感涙もまた、射精によって爆裂に増えるコルチゾールを体外へ排出するからだ。涙がストレス物質を流し出す仕組みだということが解明される前から、人類は仮想の悲恋に心揺さぶられるのを好んだ。ただひたすらに耽溺して人生を終えるわけにはいかない。だからただ、耽溺して終わる物語にあわれを感じて涙する。それもまた、他人の手を借りたマスターベーションである。映画に、触れてもらっている。なでなでされている。しあわせな時間。

 彼女の指にしゃぶりついて恍惚となっているアデルを演じたアデルは当時十八歳で、十分のベッドシーンを十日かけて撮る監督は彼女に、アデルを演じずアデルになれアデルになって本気で感じるまで撮る、と指示した。本物のセックスを要求する監督の姿勢は、男性向けポルノ作家のそれで、原作者(女性)も映画版は男性作家によるファンタジー的なうんぬんかんぬんと批判的な発言をしている。

 そういえば『七月と安生』も男性監督である。ボーイズラブを描くのは圧倒的に女性が多い。先週、丸井池袋店で開催するはずだった『百合展2018』の中止が発表された。先に中止された『ふともも写真の世界展』と同じ写真撮りのかたが参加されていたために、ふとももはダメなのに百合はいいのかという議論の果てらしい。

 ジェンダーへの理解に貢献したSF・ファンタジー作品に贈られるジェイムズ・ティプトリー・ジュニア賞の2009年の受賞作品が、男女逆転の時代劇を描いた、よしながふみ『大奥』だった。

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 そのジェイムズ・ティプトリー・ジュニア賞の日本版であるセンス・オブ・ジェンダー賞を2011年に受けたのがN・K・ジェミシン『空の都の神々は』。

 よしながふみ『大奥』に多大な影響を与えられたと公言するニューヨークの女性小説書きが、年齢も性別もあってないような「神」とのエロを描いた虚構のなかで、神だかヒトだかさえも曖昧になったヒロインに語らせる。

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 わたしはナハドのすべての顔を受け入れることができたので、彼が特にどれかひとつを必要とすることはなかった。

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N・K・ジェミシン『空の都の神々は』

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 すべてを受け入れる。だからなにも選ぶ必要がない。という世界でまだ「彼女」は、ナハドを「彼」と呼び、そう呼ばれるから、ナハドは「彼女」にとっての「彼」であり続ける。

 逆はどうなのだろう。「彼」が観測する「彼女」は、「彼」が確定させたがゆえに「彼女」なのか、それとも「彼女」が「彼」を「彼」と観測したがために「彼」が「彼女」を「彼女」と観測してしまうのか。

 卵とニワトリは、どちらかが先にこの世界に生まれたのだろうが、それは、どちらが先でもかまわないということでもある。

 神になったスティーヴン・ホーキング博士は、世界が不完全であるから、あなたもわたしもここにいるのだ、と言った。

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 そもそもが不完全なのである。細かいことを考えても仕方がないので、気持ちいいことをして気持ちよくなって、しあわせでいればいいと思う。

 『博士と彼女のセオリー』を観るかぎり、宇宙規模でものを見るということになると人間関係は破綻しがちだし、博士自身はあきらかに女好きなようだから、ジェンダー理解などについて絡めて語られると渋い顔をされるかもしれませんが。その生涯から、考えすぎないしあわせもあるよなと達観するのも、また教え。

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 宇宙がどこで始まり、どこで終わろうとも、一個のヒトの生涯は、瞬いている刹那のみである。人生は短すぎるから、なにもしないで、しあわせホルモンに耽溺すれば=しあわせだ。当たり前だ。わかっているからこそ、でもそうは割り切れないからこそ、過去もいまも(未来はどうだかわからないが)、バッドエンドに破綻してしまうほどのしあわせホルモン依存症患者を描く物語に、ヒトは陶酔のため息を吐く。生殖して増えて逝くだけだった生物が、増えずに、しあわせだけを享受する知的生命体に進化したのに、いまだに性別に縛られて、あははうふふと逝くまでなでなでしあうだけの人生は物足りないと思ってしまう。そして、わたしたちってなんて愚かしい生き物なんでしょうというような物語を紡いで、泣きあう。女子会で褒めあい、愚痴りあう。刹那主義に陥った不完全な相互アナニーだ。獲得した知性の無駄づかいでしかない。

 いますぐ、触れたらしあわせだと自分が思うモノになんでもいいから抱きついて、なでなでし続けながら微笑んで眠るのが知性の有意義な使いかであると断言したい。さあ。さあっっ!!

 …………できない、よな。

 



 

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