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『斎藤智晴』のこと。

 『cellar』

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 『カルドセプト サーガ』のこと。でも書いたが、その雰囲気であり、その存在感、どこかとぼけた風合いも兼ね備えた、ただ上手いだけじゃない絵師として、彼であり、彼の絵であり、その携わったゲームでありに触れ、愛した者として、追悼の意よりもなによりも、悔しく思う。

 脚を斬っても「おれは絵描きだから」と言った、その言葉は本心だろう。そして、ついにいっさいの仕事ができなくなったとき、泣いたというのも、よくわかる。やめる気も、負ける気もないのに、終わってしまう。そんな恐怖はない。そして、そんな悔しいことはない。

 こういう事実に出逢うたび、どう受け止めたらいいのかと思う。ガンで死んだ私の祖父の顔は安らかだった。残される妻のために、台所を改装して、それが生涯を通してずっと彼の役目だった、包丁研ぎを完璧に仕上げて逝った。私が泣けたのは、一年近くたってから、祖母が「包丁って切れなくなるものなのね」となんにも知らない少女のように言ったときだった。ああ祖父はこの女性を守って、自分は逝ってしまうけれどできる限り痛ましい時間を彼女が味あわないで良いように時間を稼いで、きれいに逝ったんだ。そう思った。

 タバコを愛飲する人が良く言う。「吸わなくてもいつか死ぬ」。私も、あと一週間の命だと言われたら、眩暈のするようなキツい葉巻を、気が遠くなるまで楽しんでやろうかと思っている。

 思っているが、きっとそうはしないだろう。眩暈がしては、仕事にならないから。仕事、と言ってしまうと味気ないが、絵を描いてきた人が、それが人生だった人が、残り時間を悟ったとき、頼むから描かせてくれというのは当たり前のことだ。でも、描きながらも、考えずにはいられないだろう。

 タバコや、ドラッグのせいじゃない。寝不足や、ストレスや、不規則な食生活のせいでもない。ただ、細胞が変異してなる病。どう考えても、運が悪かったとしかとらえようのない、理不尽な生命の異常……神、という存在がアリだとすれば、そいつを引きずり降ろして問いつめて顔の原型がなくなるまで殴ってやりたい、というような。でも、殴る相手は、いはしない。

 なんなんだろう、と思う。
 今日、十匹ほどのカブトムシのロスを切った。
 クーラーの効いた店で、山に探しに行くのも億劫がるような子供たちに買われるために生み増やされ、あげく、買われることさえなく、もともと数字上は死んでも利益の出るように計算された数だけ死んでゆき、私に「ハイ十匹死んだ六千円」とチェックされる命たち。
 ひっくり返ったカブトムシが、素晴らしいイラストを残していたら、私はその死を悼むだろうか。
 きっと関係ない。
 本当は、斎藤智晴の死も私には関係ない。
 私は彼の作品を知っていただけだ。

 そのことを、彼も知っていて。
 もう描くことができないと、泣いたんだと思う。
 私も、泣くと思う。
 悔しいと思う。
 腹立たしい。なぜ。
 なぜ。

 生まれて死んでいく。
 ものすごく単純なこと。
 考えるようになったのは退化だろうか。
 作品が残り、それがまた作家を生む。
 それは遺伝子の連鎖に似てはいるけれど、全員がそうであれば、観客はいつかいなくなる。

 先進国で、少子化に歯止めがきかない。
 一方で、地球の人口は爆発して人類が滅びそうだ。
 それは、白い鳩は都会では淘汰される、というのと同じでは?
 ゲーム・イラストに命をかけて泣き叫びながら逝く彼がいる。
 彼方では、今日の食事がなくて泣くこともできず逝くだれかがいる。
 ここでなにかを創ろうとしている私たちは何者だろうか。

 でも、迷うヒマもなく、一生が終わる。
 今日も狂いつつ生きるしかない。
 描き続けるのだ。
 美しく、彼のように。
 美しいと、私は思った。

 少なくとも、私は私の生涯忘れない。
 逝ってしまった、その人の描いたものを。
 もう、彼はいないけれど。
 ありがとうも、ご苦労様も、なんか違う。
 逝っちゃったんだ、という感じ。
 ああもうどこかで彼は描いてはいないんだ。

 寂しい。

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