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『St.日々常々』の話。




「遭遇したとしたって、意思の疎通ははかれない。百パーセント無理だと思う」
 おれとお前ですら解り合うことは無理だから、と先輩は言ったのだ。
 ──ああ。
 無理なんだ、と僕は思った。
 そして、時間の問題もあるんだな、と思い至ったのだ。

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 京極夏彦 『十万年』

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 ちょうどそれを収録した文庫本『幽談』が出版されたのと同じころ、私も同じようなことに関心が向いていた。

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『珪素弁当』のこと。

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 ブログ中で触れている、いるはずのない生物がいたのかもしれないというニュースには、その翌年に続報があった。

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『南極氷底湖の微生物、本物と確認 - ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト』

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 本物だったのである。
 ほぼなにもないに等しい世界で、無機物を食べて「生きて」いるやつがいるのだ。それも宇宙生命体などではなく、この同じ地球の上で。

 そんな感じの空気だった。そういう、SF好きが夢見ていたことが、やっぱり本当だったのだということがなにやかやと実証されはじめて、逆に思ってしまった時期だった。

「遭遇したとしたって、意思の疎通ははかれない。百パーセント無理」

 そう。スタートレックとか、スターウォーズとか、異星人同士が同じ設計の宇宙船のクルーになるなんていうのは、億万パーセントない。そもそも、地球でいうところのヒト型に進化するというのがありえない。

 そういうすれ違いが哀しい戦争を生んでしまった状況を描いたのはオースン・スコット・カードだった。

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『エンダーのゲーム』の話。

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 だが、それを読んでさらに思うのは、それもスタートレックなんじゃないかということだ。カードは信心深い小説書きなので、異星人というモチーフを得ながら、ともすると地上の人間同士に読み替えられるくらいの差違に意図的にとどめているきらいがある。スタートレックが偉大なのは、まさにそうだったからなのだ。好戦的な異星人と冷静で理知的な異星人が、もちろん衝突するのだが、最終的には恋人になって傷だらけで肩で息をしながらふたりでベッドルームから出てきたりする。

 別に、生殖器の形状がどうであろうとベッドインすることに難がないのは人類同士でも証明されているけれど、異星人だ。本物の異星人だった場合、彼や彼女は南極の地底湖の生物よろしく岩を喰って生きている可能性だって高く、そうなると、彼や彼女と呼べる形状に進化することのほうが奇跡というか不自然なことなので、異星人とは出遭ったって認識もできないんじゃないかと前述したわけだが。ヒトの目には、どう見ても茶碗みたいなものが実は異星人だとかいうことだとベッドインなんたらの前に、異星「人」という定義についてまず考えることになるというか、そんなことを考えるところまで、まず行くのか。ヒトは気づかずにその茶碗的なもので白米を喰って終わるのではないか。

 という浅い考えを私がくり広げていたところに、京極サマの主人公サマがおっしゃって、私も、さらにそりゃあ無理感を強くしたのであった。

 時間か。

 『ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学』というベストセラーな本がある。

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 そこには、時間は体重の四分の一乗に比例する、と書いてある。ゾウとネズミだと、計算上、十八倍ほど違う。

 違うってなにが。だから、時間だ。体感的に言えば、ゾウの目には、ネズミは自分たちの十八倍の速度で動き回る生物だということである。見えてはいるが、ベッドインするのは難しいと推察せざるをえない。身体機能がどうとかいう問題以前のこととして、十八倍速で動く相手を抱くとか抱かれるとか、どういうプレイを構築すれば成り立つのか。ネズミの側から見れば、十八倍「遅い」ゾウを相手に、いい感じでなにかをこすりつけたりするたのしみは見つけられるかもしれないけれど、よく企画ものアダルトビデオで見かける時間よ止まれモノを観ると驚くほどつまらなかったりするのと同様、ハードルの高い関係性だと思わざるをえない。

(ちなみに時間よ止まれモノがなぜ退屈かというと、時間が止まって彼女に好き放題できるとしても彼女の反応というものが皆無なので。それがラブドールであるならともかく、生きた人間が無反応なのは造形として美麗であっても退屈である。たいていの監督さんは、それを理解しているので最終的には時間を戻してしまう。悲鳴をあげさせる。設定上破綻して、いわゆるタイトルオチになることがわかっていながらシリーズが続くのは、タイトルだけで釣られるファンが永遠にいなくならないからなのだろう。世界中の時が止まって、自分だけ動けて、好き勝手できるとして、そんなもの、たぶん一日で飽きるというか、泣きだしてしまうに違いない)

 自分よりも十万倍体重の重いゾウを、ネズミがまず生物と認識できるかも微妙だ。おまけに十八倍遅いのだ。なんかでっかい壁がある、と、通り過ぎてしまうだけに終わる可能性は高い。

 うちに二歳児がいるが、体重だけでそれが決まるならば、彼と私でさえ、1.何倍かほど時間の流れは違うことになる。同じ三十分の仮面ライダーの番組をいっしょに観ていても、二歳児の体感的には私よりも若干三十分が長く、その戦いはスローモーションで見えているはずだ。というか父親である私も、ふわわん、という速度で見えているのだ。言われてみれば、こっちの目には、やつはものすごくちょこまか動くし、しゃべる言葉も早送りみたいで聞き取れないことがよくあって、ややもすれば宇宙人のようである。1.何倍かの速度で生きている生物なのだから……いや、逆に、その程度の差だからこそ、わかりあえているにすぎない。

(それっぽいことを書いているようだが、実際には同じ種族であれば、大きいほうが早く逝くということが統計学的には知られている。世界的に見て女性のほうが長寿なことや、大型犬よりも小型犬のほうが長生きするという事実は、体重とそれが比例するという説とは真っ向から対立するものなので、ここでは触れない。ということを誤解を与えないように触れておく。あまたの説を、自分の都合に合うように編むのを小説という)

 時間、というものも含めて考えれば、この世界で、私に見えていないものはない、ということでもある。わかりにくいか。つまり、この世界、というものの王が私であるということになる。

 双子でも、体重は違うし、鼓動がぴったり同じなわけはない。ということは、この世界を、この速度で見ているのは私だけだ。そう考えると、光の速度との兼ね合いもあるわけだから、音や色だって、あなたの見ているものとは、そこはかとなくというレベルではあるにしても違うはずだ。

 そこはかとなくではあっても、そこはかとなくの違いで落ちるものが恋だったりするのと同様、そこはかとなくなにもかもが違うとなれば、あなたの「あなたの世界」と、私の「私の世界」は、なにもかもが違うと言わざるをえない。私のこの世界に、私のように入り込める他人は、同じ人類であろうとも、恋に落ちようが血がつながっていようが、だれだろうと無理なのだ。

 その並びで考えるのは、だったらばなぜこの世界の王たる私が、私の世界でイラついて舌打ちをしたりすることが起きるのかというナゾである。

 日常とは、日の常と書いて字のごとく、日の常だ。当たり前に。実に本当にまったくもって粛々と日々常々。日常は、なにも変わらない。突然に裏返ったりしないし、酸っぱくなったりもしない。

 ということは、さっきの私が、どうにも鬱々としていたり、悶々としていたり、苦かったり甘酸っぱかったり、店に帰るのをやめて家に帰って寝たかったりしたのは、日常の側にはなんら負うところのない、私の側にのみぽっと湧いて出たものであるということになる。

 仕事の帰りに、今日はもうやってられねえハメを外してしまうかというような夜においても、起因となるのは昼間の職場でのなにやかやであるかのように本人は思うが、実のところなにがあったところで、それも常にすぎないので、やはり本人が勝手にやっていられない精神状態を作りあげているだけだ。

 近しいひとになにかあった、だとか、常ならぬような事故天災のたぐいに遭遇した、という場合においても、突きつめると、私が揺らぐのは私がいるからであって、日常の側で起こったそのことものに、私が遭遇しなければ私が揺らぐはずもないのだから、すべからく私が揺らぐのは私のせいだ。

 だって、この世界をこの世界のように観測しているのは私だけなのだから。

 それは、だから。

 私が、右に揺らぐから世界が右に揺らぐ、ということ。

 けっきょくのところ、異星人も隣人も変わらない。自分以外は、自分には本質的に理解しようのない氷の底で岩を喰う生物と大差ない。そういう他人によって構成される世界との二重構造で、私は私の世界の王であるから、王であるからといって現状の変更を無理に推すと、重なった他人の世界も揺らがせてしまって自分に返ってくる。

 だから、それは。

 まあ、違うけれども、すり寄れるところへ寄って、たのしめそうな十八倍ほどにはかけ離れていない反応の読めなくもないところをより好んでベッドインして、どこか自己満足的な行為を愛と呼び、見えるものを信じることは忘れて、見えるものがすべてだ歪んでいても曲がっていても、と達観して認識できそうなところを認識して美麗だと微笑むことができれば今日は大成果だったとまた微笑む。で、寝る。

 そういう心もちが大事ではなかろうかと、ああこりゃ、悩んだり落ち込んだりするだけ時間の無駄だわ、だってわかんねえもん。他人の世界だもの。あのクレーマーに世界はどう見えているのだろうだなんて頭を使うことも心を乱すから運転に集中しよう、ああ六倍速くらいの相手とならいまならたのしんでプレイできそうだたのしめそうなプレイを想像しよう、と思いながら頬を伝う涙はなんなんだろうとも気づきつつ、その後もあれこれあっていま家に帰ってきてこれを書いている。

 午前三時。シラフ。飲まずに寝ようと思います。言葉というものを持っていてよかったと、つくづく思う。

 ふと、壁を見るとクリスマスリースが飾ってあって。私がかけたのだけれど、スイッチを入れたらキラキラ光る、それをいちども光らせていないと気づく。かけたきり、輝かせもせずにいるが、リースにはガシャポンのビルドドライバーがぶら下がっているので、息子はたのしんでいるようだ。

 光の屈折によってモノを見る。空気の振動によって音を聞く。そういう生物同士であるから、そこにだれかいると気づくこともできるので、そうでなかったら生物であることにも気づかないだろうし、そういう身体能力の違いを超えた差違があって、だれかが光のなかに「棲んで」いたりした場合、もしくは茶碗生物だったりした場合、果ては見上げても見えないほど体重差のある宇宙サイズの生物だった場合、すぐそばにいたとしても、いることさえもがわからない。

 ひどいクレーマー生物などなら、いっそ認識できないくらいに違っていて欲しいと思うことだってなくもないけれども。しかし、時間の止まった世界でひとりきりでは、早晩、泣くことにも飽きそうだし。

 あなたが見えてよかった。意思の疎通ができて、反応が感じられて、なにより。意味わかりますか? 宇宙人ですか? ああ、地球の人類のかたですか、奇遇ですね私もです。

 メリークリスマス。

 私の世界は私のものであるにすぎず、あなたのだってそうなのでどういう具合なのかまったく知りうることはできませんが、ここ押してみたら共鳴しあうところもあるようですよ。ほら押した。押し返してみてください。ははっ。そこにいるんですね。

 落ち着きました。
 眠れそうです。

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