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『父と子と聖霊の一体感』のこと。




bellpepper

ハロウィンです。
といえばカボチャです。
オレンジ色のな。
ほら、この国でも通用する。
それくらいの普及具合。
ハロウィンのカボチャは黄色。
ジャックオーランタン。
なかにロウソク点すやつな。
アレ作るときって、
なかの実はくり抜くわけで。
食べるんですか?
ノンノンノン。
パンプキンパイは作っても、
それは別のカボチャを使う。
グリーンのカボチャでな。
オレンジの中実は捨てます。
もったいない?
ノンノンノン。
もともと食べられません。
渋いの。
観賞用の品種なのです。
黄金の小麦のイメージ。
豊穣の黄色だいだい色。
まず色ありきで生まれた、
祭り装飾用カボチャ。
であるのですが。
向こうだとガチの行事で観賞用カボチャ農家も成り立つが、この国のハロウィンごときでは、専門の業者は難しい。
で、私は種を売っている。
そういう仕事もしているのだが。近年、この国もガチ勢が増え、店に来て、のたまう。

「育てる気はないの」

育ったのを売れと言う。
まあ、あるんですけれども。
食用カボチャよりも、お高い。
とはいえ、売れるので売る。
売場が大規模になる。
やむなく装飾する。
販促ジャックオーランターン。
作るのです。くり抜いて。
中実は捨てます。
食べられないとわかっていても、なんかゴミ箱に入れるのはイヤです。
食べられるものでやればいい。
瞳をつければなんでもさあ、ほら、ハロウィンぽい。
カラーピーマンとかでいい。
バーベキューにしよう。美味しくいただけます。
もったいない、が、美徳の国。
祭りもアレンジしましょう。
装飾用の眼球を売ればいい。
ずらっと棚に並べてな。

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 真理子は宗教を信じていたのではない。人間を超越した存在を体感していたのだ。この二つは似ているようで性質がまったく異なる。

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 三浦しをん 『夜にあふれるもの』

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 このところその話をしているので、それで例えると、二歳児がオモチャの仮面ライダーベルトを装着して変身ポーズをとるとき、そこに信仰などというものはない。彼は変身する。本当に変身するのだ。

 いっぽう、同じ番組にワクテカしつつ、大人の私が仮面ライダーを見つめるのは、崇めると表現したほうがいい。私は変身できない。二歳児よりも、仮面ライダーというものを具体的に理解できているし、なんならSFチックな二次小説だって書けてしまうくらいに「信じている」。だが、どうやったって、変身ポーズをとったとき、自分自身が、その神と一体になったような恍惚を得ることはできない。

 想像してごらん。

 ハロウィンに、お盆に。死んだ家族が、私たちのもとへもどってくると本気で信じていたころの人々が、ジャックオーランタンにロウソクを点したり、なすびで馬を作ったり、灯篭を川に流したりするときの気持ちを。

 迷わぬように。
 無事にまた死者の国へ帰れますように。

 夜通し泣くひともあれば、再会のまぼろしに微笑んで乾杯するひともいるはずだ。

 まぼろし、と。

 自然に、私は書いてしまう。想像することはできる。お盆に、おじいちゃん、とつぶやくことは私もなくはない。けれど、体感はできない。どうしたって、私が生むまぼろしに、私自身が触れている気になっているのだと思う頭があって、恍惚とはなれない。

 真理子は、神の存在を体感してエクスタシーによって気を失う。

 エルビス・プレスリーのコンサートでは、バタバタひとが倒れたそうだ。エルビスの生き神具合がものすごいのか、当時の観客の信じる心がすさまじいのか、はたまた、実のところ私の知らないだけで、いまだって街角では「人間を超越した存在を体感して」その恍惚に気を失うひとだっているのだろうか。

 宗教色がまったくなくなってしまったハロウィンに、オバケカボチャを自宅に飾りたがる彼女は、死に触れる雰囲気を好ましく感じているのだろうか。

 そういえば、小さな死、と呼ばれる性的な快感によっても意識が飛ぶにまで至るというのはよく聞く話だし、私もポルノを書くので、作中では、彼の頭がしあわせな結合の果てに真っ白になってエピローグへ、なんていうおやくそくはよく使う。でも、実体験では皆無だ。

 それも信仰心の問題なのだろうか。言われてみれば、まったくセックス関連のことに神聖さを感じたことはなく、とことんに生々しい認識ではある。

 仮面ライダーに頭のなかでさえ「本当に」変身できなくなってしまったのと同時期に、保護者の姿が見えなくなって世界の終わりのように大泣きするということもなくなった気がする。

 車で出かけた先の公園で、父とケンカしたのをおぼえている。小学生にはなっていなかった歳のころだ。

「そんなにたのしいなら、もう今日は釣りやめてここにいるか」

 そう、父は言ったのだ。
 当時の彼は、私を釣り好きにさせたかった。自分の趣味なので。連れて行かれれば、たのしんだ記憶もあるにはあるのだが、釣りに行く前に寄った公園で、それどころではないはしゃぎようになる程度の関心だった。

 口走ったものの、父は数十分後に、それを忘れた。

「そろそろ、川に行くぞ」

 そう言い出したのである。
 私は断固拒否した。今日はもうこの公園で帰るまですごすと決めた、父さんもそう言ったと、意思表明したうえで、父を無視して遊び続けた。

 父はキレた。
 母は、確かにあなた釣りやめようかと言ったわよと援護してくれたが、そんなのはもう忘れているし、父にとって、その発言は晴れた空を見てなにげなく晴れているなあ、と言った程度のものだった。

 だったら遊んでろ、と捨て台詞を吐かれ、父は車に向かった。

 私は、それでも無視して遊び続けた。両親の姿が見えなくなっても。きっと、向こうはどこかから見続けてはいたのだろうが、そんなのもどうでもよくて、遊び続けた。

 数分して、父がもどってきて、叫んだ。

「どうやって帰る気なんだ!」

 私は、こう言った。

「帰れるもん」

 叩かれた。
 力尽くで車に連れて行かれ、川に釣りに行った。

 その日の、釣りの様子はまったくおぼえていない。クソつまらなく、クソ気まずかったはずだが、それはすっかり忘れているのに、あのときに公園で考えていたことを、いまでも思い出せる。

 電車、もしくはだれかの車で帰ろう。

 そう考えていた。
 お金は持っていなかった。
 しかし想像のなかでは、私はなんとか駅を見つけて電車に乗って、自宅の最寄り駅まで帰る。もしくは、見知らぬだれかの車で家の近くの見知った風景まで戻っていた。

 なにかを信じていたのだった。

 両親を無視して、置き去りにされても、あのとき、公園で遊ぶことに私は集中できていた。怖くなかった。たのしかった。

 父が戻ってきて私を叩いて連れ帰らなかったら、もしかするとあの日、公園のなにかの遊具でひとりぐるぐる回ったりして奇声をあげながら、気を失うような絶頂の果てに到達できていたかもしれないと、思ったりする。

 ハロウィンという奇祭も、かつてはそうだったのではないか。オバケカボチャの放つ光のなか、生け贄の豚や牛が死者に捧げられる。断末魔をあげるその腹を割いて内臓をホルモン焼き、舌も睾丸も引きちぎってシチューを煮る、流れる血で顔にペイントをして、太鼓が叩かれ、木の枝が打ち鳴らされ、怪しげな酒やハーブだって配られたことだろう。焚き火のそばでセックスしている生きた男女がいて、帰ってきた死者とダンスしている未亡人が奇怪な声で笑っていたりする。

 そりゃまあ、イキやすい条件ではあろう。

 あの公園で、父と母が去って行ったとき、生け贄の首が落とされ、その血で自分の顔にペイントした。体感していた。置き去りにされたひと桁年齢の子供が、家に帰れないくらいなんでもないくらいの人を超越したなにかに達し、父と子と聖霊の三位一体をたましいで感知して、放っておいてくれたら見事に昇天していたに違いない。

 なにかを体感する、というのは「ああ私がとてつもない位置にいる」という恍惚である。エルビスやキリストの能力によってイかされるのではない。それに触れる位置に達してしまった自分の立ち位置もなく中空に浮かんだ様子にイくのだ。さっきまでいたからこそ、その保護者が自分を置いていったことに、おおおぉっ、となる。

 あれ……これって、いわゆる放置プレイか。

 どうもうまく信仰の話は紡げない。信仰心というものがない。尊敬するひとはいるが、心酔というのとは違うし、だれを、なにを愛するにしても、燃えあがるというようなものではなく、愛でるという表現が近い。

 気を失うくらいのなにかを感じたり達したりすることは、私の人生にはないのかと思うと、まあ寂しくはある。

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