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『エルマーパラドックス』の話。


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ブログで、『ぞうのエルマー』という絵本を取りあげた。
書くのに検索してみたら、一冊のつもりだったのに、無数のエルマーが現れた。

David McKee作
『Elmer the Patchwork Elephant』

Wikiにはなんと、三十八冊とある。大長編ではないか。しかも最新作の発行年は、2016年。現役続行中のシリーズだ。最新作の題名は、

『Elmer And The Flood』

邦訳はまだだが、

『ぞうのエルマーと洪水』

となるのだろうか。
水害の多いこの国では、発刊のタイミングが難しそう。
さかのぼって第二作。

『Elmer Again』

年表だと1991年発表だが。
邦訳は、

『ぞうのエルマー〈2〉
 エルマー!エルマー!』

の題名で、2002年発売。
……なるほど。
謎が解ける。
気になって実家まで行って、私の愛読していた第一作『ぞうのエルマー』の写真まで撮ってきた。
現在売られている邦訳は、

『ぞうのエルマー〈1〉』

私の読んでいたのは、

『ぞうのエルマー』

決して大きなところではない、神戸の出版社が出している。最初は続刊未定で十年後。売れたから続きも? 私が幼いころに、続きも出していてくれたら、母はあんなに同じ絵本を、読み聞かせずにすんだのにな。そうか。大好きなエルマーは、私とともに育って、そんなシリーズに……
二、三冊なら、買ってきて、読んでみようかと思ったが。
三十八冊……五万円くらいか。
まずは図書館に行こうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ほんでまあ図書館に行ったずら。

 そうしたら『ぞうのエルマー』シリーズの物量は、そんなどころではなかった。コンプリートするなら五万円ではぜんぜん効かない。

4892385654

 これが、上で私が話題にしている、

『ぞうのエルマー〈2〉
 エルマー!エルマー!』

 2002年、BL出版の発行ですが。
 私が図書館で借りてきたのは、

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『またまたぞうのエルマー』

 1977年、アリス館牧新社の発行。
 上で書いたように、エルマー第二作の原題は『Elmer Again』なので、またまた、というほうがニュアンスは近いような気はする。

 もちろん、絵は万国共通言語だから、絵本の絵の部分に変更が加えられることはない。

(映画『ミス・ポター』で描かれたように、紙質やインク質などが商業的な理由もあって絵本作者の絵を再現しきらないというケースは、ままあるにしても)。

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 しかし、原作者は知っているのだろうか。知らぬ言語に訳された自分の文章が、大きく変更を加えられていることを。

 さっきの写真の上に見えるのが、

『エルマーとゆき』
 ほるぷ出版

 左は、

『エルマーのゆきあそび』
 BL出版

 これまたタイトルからして微妙に違うが、途中のいちページを引用してみる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 しばらく あそんでから、エルマーが いいました。

「ずいぶん ゆきが ふってきたよ。かえろうか。」

 みんな いそいで やまを おります。

 けれども、わいわい がやがや わっはっは。

わらったり、さわいだり、ころげまわることは

やめません。おもしろ おかしく、みんな そろって

はやしを ぬけて、さかを くだって、かえります。


ほるぷ出版
『エルマーとゆき』
訳 斉藤洋

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 同じページ。
 絵は当たり前だが同じだけれど……

・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「わあ、すごく ふりだしたぞ」と エルマー。

「もう かえろうか」

ふりしきる ゆきのなか、

ぞうたちは はしゃぎながら もりを ぬけて、

いえに かえってゆきました。


BL出版
『エルマーのゆきあそび』
訳 きたむら さとし

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 原文を読んでいないので、断言はできないけれど、斉藤洋さんの訳のほうだけに、林を抜けて坂を下って、というような描写があるところを見るに、原文にこの文はないのではないか。絵が、そういう絵なのだ。林を抜けているし、坂を下っている。それを文章に起こした、のだとすれば、これは小説などの文章のみのメディア翻訳では決して現れることのない絵本独自の翻訳作法である。

 そういうことを言えば、きたむらさとしさんの訳も、冒頭が「わあ」という感嘆から入るのは、斉藤洋さんの訳を見るかぎり、おそらく原文にはあるのだろう、エルマーが言った、という文章を、はしょっているのではないか。

 書き足す作法と、より短い言葉で表す作法。そしてこれを、作者に「これでニュアンスが伝わっているでしょうか?」と確認することはできない。その点を踏まえると、絵が同じであっても、出版社、翻訳者によって、絵本というものは、そうとうに香り具合が違うものになるジャンルなのかもしれない。

 なにが好みかは、読む側にゆだねられているのか。だとすれば、同じ作品を、何種類もの訳で読むことができた『ぞうのエルマー』シリーズとは、偉大なるものである。

 と書いて、ここから愚痴になる。
 絵本とは関係ないことを思い出してしまった。

 先日、私はXboxOne専用ゲーム『Sleeping Dogs: Definitive Edition』を遊びはじめました。

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 香港を舞台に、潜入捜査官が善と悪との綱渡り、殴れ撃て! 的な箱庭ゲームで、もとは一世代前のXbox360で発売されていたもの。世界観が好みすぎて気になってはいたものの、タイミングが合わずプレイしないまま、次世代機でリメイク版が発売され、ドニー・イェン主演で映画版『スリーピングドッグス 香港秘密警察』の撮影が開始されたとのニュースも聞き、ああもうこれはやらなくちゃとなっていたところで、少し時間ができた。

 よし、とリアルに検討しはじめて、驚愕の事実。

 XboxOne版『Definitive Edition』は、日本発売されておらず、日本語の収録もない。吹き替えがないのではなく、字幕もない。いやいやいや、日本が誇るドラクエとFFでおなじみ、スクウェア・エニックスの製品なんですが?

 ていうか。旧世代版で日本語が入っていたのを、絵がきれいになった次世代機版になったからといって、わざわざ日本語を「抜いた」わけですよね? なにそれ。

 ちょっと調べてみると、意外な事実を掘り広げてしまった。

 検索して、むしろ引っかかってきたのは、日本産のゲームを日本語でプレイしたくて購入したのに、日本語が「わざわざ抜いてあった」というクレームを入れている英語圏のひとたちの声、声、声。近しいところでいえば、先々月英語版が配信された某ゲームに、日本人声優の音声が入っていなかったらそれは無価値である不買運動開始だ! というニュースとか。

 ちなみにその件に関して発売元は「音声契約の問題だ。収録した音声をグローバルに使用できるかは、それぞれの声優次第なので」という回答。もっともな話である。どっちが? 日本のアニメベースのゲームが自国で買えるぞと喜び勇んだ声オタが、麗しの日本語ボイスがわざわざ削除してあったらそりゃ詐欺だと言いたくもなるし、グローバルに使ってもかまわないという声優からしたら、一部のパッケージ変えてまた発売するならもういちどギャラを振り込め、という強気の声優の存在によって、ひと契約で世界中で使ってくれていいわよ世界で有名になりたい! という野望が打ち砕かれるわけだし。でも収録音声が無限に使える契約にしてしまったら、ボーカロイド技術などもある昨今、そのゲームはシリーズ化されたのに、声優には第一作のギャラしか入らないようなことにもなりかねず、それもどうかと思うし。

 声優の権利主張が絡んで、発売元は、日本では売り切ったゲームを英語圏でお安く提供して二番茶を味わいたいわけだから、日本語ボイスをカットするという、それもわからなくはない立場ではある。

 で、つまり、日本語字幕もそういうことなのだろう。もともと翻訳した人々との契約や、日本語フォントの使用料といったようなところが、そのまま売ると旧世代機でたっぷり売ったあとで絵がきれいになったからとまた買うほどの人口はないこの国で、だったら「わざわざ消す」作業にかかる費用のほうがまだ安い、という。

 アメリカンプロレスを見ているといつも思う、あれだ。

 クッソ田舎での興行だとアナウンサーが言っているのに、そこに入っている観客は日本で言うところのドーム級。一方、日本でクッソ田舎で興行と言えば、主要団体のものであっても○○町体育館で、パイプ椅子がリングの周りに三列とか。ヘタしたら観客数よりもリングに上がる選手の数のほうが多くて。

 島国だからなあ。仕方のないところではある。

 かといって、きれいな絵でプレイできるゲーム機本体を所有しているのに、わざわざ旧世代機版でプレイする気がどうしても起きなかった。

 ええ、XboxOne版をプレイ中です。

 美しき香港の夜なのにサングラスをかけてバイクを走らせて雰囲気に酔う私。これからあいつらを殴り倒しに行くんだ!

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 美しさは重要です。
 英語と広東語、日本語は、なし。
 いちおうストーリーは追えますが、私自身が広東語なまりの英語を話しているので、アクションしながら字幕の単語を拾ってなため、ニュアンスを正確に把握しながらでは、まったくありません。

 文字チャットを、即時自動翻訳で、という時代。英語の看板にスマホを向ければ、日本語に見える、というアプリもある。そのうちフォント使用料も内包した翻訳メガネなどが普及して、この問題は解決するのでしょうが。

 そうなっても、翻訳者という仕事はたぶんなくならない。絵本を、グーグル翻訳したって、絶対に、

「けれども、わいわい がやがや わっはっは。」

 と気を利かせる未来には、なるわけがないので。
 ヒトを介するという贅沢。
 だからそこにはギャラが発生するという当然。

 だから、私が日本語字幕なしでずっとやりたかったゲームをプレイしている必然。

 そうだ、私がこれでいいと思えば、なにも問題ないのではないか。
 プレイを続けます。
 潜入捜査官になりきるんだ。
 私は広東語なまりの英語を使って広東語のギャングと話す香港生まれであって、日本語など話すわけがないじゃないか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 さて、絵本の話からゲームに移って、なんとかまとまったかな、と読み返してみて、パラドックスに気づいた。

『またまたぞうのエルマー』が1977年、アリス館牧新社の発行だと、私は書いていて、その前には、『Elmer Again』が年表だと1991年発表だとか……

 おおいっっ!!

 邦訳が、原作の十四年も前に発売なわけない!! 文献をあさる。いや、いやいや、どっちも正しい。どういうことこれ……

 まじまじと見比べる。

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Elmer1

 あれ?
 エルマーの目のあたりが……
 絵が違う?

 そう、私が読んでいた『ぞうのエルマー』は、アリス館牧新社発行の1977年版であり、冒頭で書いた小さな神戸の出版社が出している現行の『ぞうのエルマー』とは内容も違うのであった。具体的にいうと、話が長い。

 つまり、パラドックスはなく、ちゃんと年表を熟読すれば。

1. Elmer (1989; originally published in 1968)

 という記述。
 1989年に第一作出版だけれど、最初のバージョンは1968年。同じものが再出版されたわけではなく、物語も刈り込まれているし、絵も洗練されている。

 デビッド マッキー、二十年の洗練。
 ていうか、打ち止めになった自作を懲りずに磨きあげて再度売り込むとか、現代の賞レースでは「自己愛強すぎてヒくわ客観視できるようになってから完全新作書いてこい」と一次選考で蹴られるタイプの物書きだ。

 それが、八十二歳で三十冊超のシリーズ現役続行中。

 ぞうのエルマーという自分の生んだキャラクターを愛し抜き、今日も極東の島国で私の膝の上の子が「エルマー!」と、それを指さして笑っている。

 たまに、貫くことで偉業を成すこういうひともいるから「お前のそのキャラはお前自身だから捨てられねえんだろお前が読み捨てられない重すぎるキャラを読者がたのしんで読み捨ててくれるのかノーベル文学賞でも狙ってんのか」と、頭ごなしに一次選考落選させるのもどうかと思えたり。そういうひとは、それでも懲りずに何十年でも書き続けるものですよねとひらき直れたり。

 マッキーは、二十年経って、エルマーを焼き直して、それが世界で認知されたが、別にコケていたって生涯エルマーを描き続けたのだ。そんな物書きたちが地上に幾千とまたたいているのかと、うれしいというか、潤むというのが近い。

(いやまったく、『ぞうのエルマー〈2〉 エルマー!エルマー!』と、『またまたぞうのエルマー』の段階で、まったく表紙の絵が違うのに、書いているさなかにはまるで疑問に思わなかった。なにが「もちろん、絵は万国共通言語だから、絵本の絵の部分に変更が加えられることはない。」か。集中力の欠如である。そして、いかに推敲という作業が大切かということである)





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