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『三つ子のタマシイ』の話。



 三つ子のタマシイ百まで、というのは、三歳までにおぼえたことは、逝くまでそのひとの中核であり続けるという、身近に二歳児がいる、いまの私には少し怖いことわざだけれども。

 昨今の研究では、現実に幼児の脳内で起こっているのは、逆のことであるらしい。

 おぼえた、ではなく、忘れた、というほうが近い。

 とある能力の欠如したかたに、ある種の超人的能力が備わるという現実の現象があるが、日常会話はたどたどしい超絶のピアニストさんの演奏などを聴くと、いや本当に人間ていうのは機械なんだなあと思う。脳はハードディスクのようなもので、CドライブとDドライブのようにパーティションを切って、あっちの容量を減らすとこっちが増える、みたいなことが起きるのである。

 三歳までに、脳内回路の多くが滅亡する。区画整理だ。おぼえるというのはつまり、使う領域を確定して、使わない領域を捨てるということだ。永遠に。捨てた領域は戻らない。百歳までもなにも、なくなった回路はなくなったままに決まっている。

 脳の、その部分の使いかたを永遠に「忘れる」ことによって、たとえば言葉を話す領域や、超絶にではなくてもピアノの音を聴きわける領域などが確保される。

 子供が出てくるアクション映画ではおなじみな、閉鎖環境で育てられ銃のあつかいは天才的だが感情はないマシンのような暗殺者、みたいなことも、ありうる。そのことを逆に考えると、あまりにも雑多な事柄を過剰にインプットされ続けた子は、回路の取捨選択ができなかった結果、なんにでも反応してしまう落ちつきのない注意欠陥多動者に育つ危険性もある。

 私ごとだが、この一ヶ月、趣味の読書をしていない。ゲームも『Halo 5: Guardians』の一日一試合だけだ。

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 ちょっとした試験のために知識を詰めこんでいて、通勤電車のなかでは文庫本ではなく、すり切れたテキストをまた開く毎日なのだった。しかしまあ、記憶というのは上手くいかない。自分で自分の脳内をクリックして、捨てる情報を選んでゴミ箱に入れて、その空いたところにテキストの内容をコピーアンドペーストできればどんなにいいかとうんざりしつつ、今朝もまた向かいの席に座っている女性の持っていた紙袋のブランド名をおぼえていて、読んでいたテキストの文言をおぼえていない。クソだ。オレの脳はクソ袋だ。

 などと言ってはみるが、だったら、ぱっとページを開いて、なにもかもを暗記できる能力が身についたらどうしよう。風景写真を見た瞬間に細部まで記憶して、記憶で小さな看板の文字まで正確に描いてしまうひとがいる。そういうことができるひとならば、数十ページくらいの台本ならばぺらぺらっと記憶できるのだろうから、どんな舞台の代役だってできるはずで、演劇業界で巨万の富を築けるのではなかろうかと思ってしまいそうだけれども。そういう能力を持つひとは、たいていの場合、脳の領域をその能力に過剰に割り振ってしまっているために、役者には向かない性質になる。だからこそ多くの役者は記憶力に秀でているわけではなく、演じるという能力に秀でていて、結果として私と同じように、試験勉強的な努力で台本をおぼえ、千秋楽を迎えれば忘れてしまうのだ。そうしないと、次の台本がおぼえられないから。

 でもだったら、試験勉強だって試験が終われば忘れてしまうはずで、いま私がやっているのはなんなんだと欝になってしまいそうだが、こういうものは、いちどでも頭に詰めこんだひとに努力賞的なもので褒美を与えるという、一種のレースだと考えて試合までは同じコースを巡り巡ってライン取りをおぼえるのだと自分を納得させている。

 一方、二歳の息子は、とんでもない記憶能力で、アニメの主人公たちの名を、次々に頭に詰めこんでいる。先日『カーズ』のメーターに夢中だと書いたが。

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『カーズ:オルタナティヴ~メーターの崩壊~』の話。

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 あれから数ヶ月も経たないのに、彼はその映画の端役キャラまで子細に記憶して、私に教えてくれるようになった。「メーター? 知ってるっちゅうねん」という会話はいまや「へえ、そいつフィルモアっつうの? 正解かどうかしらんわ」という具合だ。

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 電車、新幹線のたぐいも、もはや完璧に二歳児のほうが私よりも詳しい。私は、そういうものにハマったことがないのだ。そしていまも、いっしょにビデオを見せられて、あの電車の名前がなんだとか言われても、まったく頭に入っていかない。

 そう、二歳児よ、その記憶力でディズニーの端役たちではなく、歴史上の偉人とか、化学式などおぼえたら、将来、なんらかのモテアイテムとして使える日が来るかもしれないぞと思っても、二歳児は偉人にも化学式にも興味がないので、それは無理なのである。脳をクリックすることは、超成長期な彼にも不可能なのだ。チンチン、オッパイは、やたら連呼しているが、そこに性的なものが関係しているようには見えないので、きっと大人が隠しているのに自分たちは出しても許される謎アイテムとして興味がわいているようで、だったら化学式も謎めかしてパンツのなかからチラ見せさせれば興味を持っておぼえるのかもしれないと考えたりもするが、考えるだけで実行に移してはいない。こっちはこっちで忙しいのである。

 話はもどるが、そのようにして二歳児は『カーズ』の端役の名前をおぼえることによって脳内パーティションを切り、領域確定によって、なにかを捨てている。つなげたまま育てれば、なにかの超人的能力になったのかもしれないシナプスの接続を捨て、生きるためには無用に思えるフィルモアの名をおぼえるための接続を存続させ強化する。

 たまたま、さっきの『カーズ:オルタナティヴ~メーターの崩壊~』の話。のなかで触れていたが、地球に隕石が追突しなかった結果、恐竜が絶滅せずに進化して地上の覇者になったという映画『アーロと少年』の世界設定に、私がなじめない部分があると書いた。あれも、そういう話だった。

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 ゾウのような脚の首長竜が、人類のかわりに人類のような知性を獲得したとしても、ほぼ確実に、人類がもしかしたら作ったかのような、三角屋根の木製の小屋などには住まないはずだ。その違和感である。

 よく言うことだが、大気も重力も地球とはまるで違うどこかの惑星に、人類以外の知的生命体がいたとして、『スター・トレック』のようには、なるわけがない。宇宙船の椅子に座ってコンソールのスイッチをタップするような、手脚のあるヒト型生物であるという確率は皆無だ。違う惑星で進化した宇宙人は、地球人とは根本から違う形状をしていて、思考方法さえも違っていて、いっしょに未知なる宇宙を旅しましょうとか、友情や愛情が芽生えたり、ときには殴りあいのケンカもしたり、というような共同生活が送れる存在でさえないはずなのだ。

 恐竜とは、鳥の祖先である。彼らは小型化し、空を自由に飛びまわって生きるという進化を選択した。逆に、大型の首長竜が天敵にも隕石にも遭遇せず小型化の進化を選択せずに文明を築くとすれば、『アーロと少年』の世界のようにニワトリを育てたりはしないだろう。自分たちが小さくならないまま、家畜を飼育する文明化を果たすならば、当然、家畜の大型化を進めるはずである。大きいが、自分たちの脅威にはならない肉の飼育。知性の欠如した哺乳類が望ましい。彼らは、木で家を建てることよりも、劣勢遺伝子の交配によって、限りなく脳の小さな大型動物を竜口的に作り出すという品種改良作業に邁進するのではないか。

 とか。興味のないテキストを頭に詰めこむ毎日だと、どうでもいいことを徒然と考えてしまって、それを徒然とこう書いているという徒然だったのに。

 ふと、科学雑誌サイエンスに掲載された、こういう研究成果を読んで、話が複雑になってしまったのである。

 論文タイトルは「Control of species-dependent cortico-motoneuronal connections underlying manual dexterity(手の器用さに関わる皮質運動神経結合の種特異的コントロール)」。論文の責任著者は、吉田富。

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Control of species-dependent cortico-motoneuronal connections underlying manual dexterity | Science

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 隕石が落ちて恐竜が絶滅したせいで、ヒトは木で家を建てて、火を征し、道具を発明して狩りをおこなうようになったのだけれど、その流れを「道具を作って使う手先の器用さを人類が獲得した」と読むのは間違いであると、論文は説いている。

 まず、霊長類が、手先を器用にする神経回路を持っているのは事実だ。研究チームは、その回路を特定した。

 ……ここまでは、わかる。その先である。

 研究チームは、生後間もないマウスには、この神経回路が存在することを突き止めた。

 ……マウスだ。ネズミだ。いっきょにわからなくなる。人間の手先を器用にしている回路が、ネズミにもある? でも、ネズミは道具を作らないよね? 実際、成長したマウスは、一本一本の指を別々に動かすことができない。

 つまり、こういうことだ。

 ネズミも、生まれた直後には、手先が器用になる神経回路を持っている。だが、神経回路の形成にたずさわるタンパク質セマフォリンが受容体プレキシンAに作用することにより、出生後最初の二週間以内に、その回路は消滅する。

 ……ネズミは、選択して不器用になる。おいおい。真顔でなにを言っているんだか。

 ここからは論文にはない吉秒見解である(研究チームは、あくまでこの実験を通して、運動能力に問題のある人類の一員を助けようとされている)。

 ヒトは、手先が器用になる回路を消滅させないから、器用に指先が使えるまま成長し、訓練によって箸先でビーンズがつまめるようにまでなる。一方、ネズミは、チョップスティックで豆粒をつまむ必要性に意義を見つけられなかった。というか、人間に比べてネズミの脳は小さいので、パーティションを切るのも死活問題なのだ。

 極端な話、ピアノを弾けるネズミがいたとしよう。ヒトもネズミも生まれた直後は同じく器用なのだとしたら、さっきした話が、ヒトにかぎったことではなくなる。たぶんそのネズミは「ピアノを弾く指先の器用さ」を得る対価として「ピアノの鍵を叩けば音が出せる」ということを理解したり記憶したりする領域が、脳に残ってはいない。それはつまり、ピアノはけっきょく弾けないということである。

 ハンモックを編んで、快適な寝床を作ることのできる器用さを有しても、エサを見つけられなかったり、敵から逃げられなかったりしては意味がない。

 そこでネズミは選んだ。
 小指と親指が別々に動かせるなんてのはナンボのもんじゃ、と。

 逆説上、こういうことになる。

 ヒトは、すばしっこく走ってエサを狩り逃走する俊敏さを選んで捨て、手先が器用なうえにモノも考えられるだけの大きさに脳を発達させた。

 それって、選んで、悩む賢さを獲得したということだ。

 頭のいいネズミといえば『アルジャーノンに花束を』。 
 
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 あれも、アルジャーノンとともに人為的に知能を上昇させた人間チャーリイが、そのことによって生きにくくなってしまうという話である。だれが読んでも、そりゃそうさ脳なんていじらなければ幸せだったのにチャーリイ、という受け止めかただからこそ名作と呼ばれている。そして、自由意志で自身で選んで賢くなった人間とは違い、人間に勝手に脳をいじられたネズミのアルジャーノンの不幸には、花束を贈るくらいでは足りない自責の念を感じさせられる。人間なんて、すべからくクソ袋なのに、なぜクソを溜めて出すだけの生活に満ち足りて悦べないのか、賢くなるっていうのは進化なのか本当に、なんでこっちの道を選んだのか、と天を仰ぎたくなる。それを決めたのは天にいるだれかではなく御先祖さまで、悩む頭を獲得したがために、癒やしの天上ファンタジスタなどというものも創造してしまった。

 小さくなって、空を飛ぶ鳥になって、平和に暮らすことにした恐竜はいさぎよい。指先を器用にして家を建てることよりも、それを捨て、人間の家のなかで人間に見つからず、幸せに暮らすことにしたネズミの決断もリスペクトにあたいする。進化というものは多数決なはずだが、議場があるわけではなく、淘汰によって成される。

 器用なネズミは死んだのだ。
 たぶん、賢くなったチャーリイが孤独になったのと同じ理由で。
 飛ばなかった恐竜は滅んだ。
 賢いアーロのように家を建てニワトリを育てるよりも、飛べるようになって木の枝に卵を産むほうが簡単だし、現に、きっとあした人類が勝手に自滅しても、数羽の小鳥は生き延びて、次の春には、また子鳥たちのためにエサをさがす。

 言い換えると、こういうことのように私には思える。

 種の総意としてなにかを捨てられなくなった人類の進化は終わっている。

 というわけで結論。
 いま、私が頭に詰めこもうとしている知識は仕事に必要だからで、それはすなわち私を含めた私の家族が飢えないためであり、古代の人類における狩りと同様の行為である。喰うために狩る。それだけだ。

 はい、徒然、終わり。
 暗記作業に戻る。拡張しない脳野を、力尽くでメキメキ広げてやる。進化はもうしない。ならば、あるもので都合をつけて生き延びるしかない。自由意志で自身で選んで賢くなって孤独になっても、ここが人類の進化の最先端であり、振り返っても、もどれる道はないのだから。

 器用な指を上手に動かせるようになる。
 肥大した脳に可能なかぎり詰めこむ。

 ピアノが上手くなりたいからピアノの練習をするのか? いや、その先でしか得られないものがあるからだ。

 ヒトに生まれたサガ。
 ヒトであることを証明する行為。
 ヒトとして生きるということである。

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