最近の記事

スポンサードリンク

月別アーカイブ

『蜂の巣にキス』の話。

 ジョナサン・キャロル自身はコンスタントに作品を発表しているのだが、邦訳ペースが異様に遅い、という点でディーン・クーンツに似ている。どこの古本屋に行ってもキャロルとクーンツは必ず見つかるが、それは逆に、名の売れているわりに手をのばしてみると「うーん」と思って読み終えたあと売っ払ってしまう人が多いということも指すのだろう。たしかにクセはある。ものすごく独特の風味がする。奇妙な味の酒と言ってもいい。愛飲者は「もしかするとこの世で一番美味いかもしれない」と口をそろえるが「でも嫌いな人はいくら飲んでも慣れないかも」とも口をそろえ、だからこそ優越感も感じる。この味が楽しめない人の宇宙ってなんて不幸。

 私に言わせればクーンツ同様、ジョナサン・キャロルも、味わったことがないなら人生を半分損しているという作家だ。この世界ってさ、ぺろんとめくれるんだ。めくっても同じ世界がそこにはあるが、めくったという事実があなたの世界を見る視線のほうを変える(あ、いま北村薫の『水に眠る』を想い出した。「めくる」って言葉でだろうな。あれも視線を変える作品だ)。

 長編としては、『天使の牙から』が1994年(邦訳1995年。これもクーンツとかぶるが、日本市場はブームが来れば一年も待たず翻訳されたりするものの、ちょっと目を離すと放置に入る。継続することで読者層が育つということはどこの出版社だってわかっていると思うのだが、その体力がないというのは翻訳物のジャンル小説好きとしては哀しい)。

 実に十年を越えての新刊。
 この事実だけで、私がどれだけ意気込んでこの一冊を読んだかわかろうというものである──できればもっと自然にさっくりと摂取するのが理想なんだけれどな、ジャンル小説というものは。
 ちなみに今回語る『蜂の巣にキス』の翻訳作業が終わったことを知った、と私が書いているのが『あなたの混沌』のこと。──2004年5月の梅雨時だったから、それからさらに二年も待たされたということである。この長い長いタイムラグ。浅羽莢子公式サイトでも語られていましたが、訳者本人が言うところの「この歳になってジャニーズの追っかけをはじめたので」翻訳が遅れているなどという発言に至っては、キャロル読者に多い女性たちが「それならば仕方ない」と許しても、私は殺意をおぼえました(笑)。でも、読めることに感謝。いじらなくていいところはいじらない、読みやすい訳でした浅羽莢子愛してる。ていうかその公式サイトでも語られているが、いまになって『パニックの手』が再刊され、しかも増刷の売れ行きということらしいので、もしかするとそういう波がまた来ているのかもしれない(邦訳が完了してから二年も塩漬けにしていたことをかんがみても、東京創元社は意図的にキャロル攻勢をかけてきている戦略で間違いない)。

THE PANIC HAND

 クーンツもこの数年は権利問題も片づいてちゃんと出るようになってきたし(重ね重ねスノー三部作の一作目だけ出してやめたアカデミー出版に対しては(笑)なしで殺意を持ち続けています)。日本ではベストセラーリストには入らないにしても、好きな人にとっては世界の半分を味わえないほどの哀しみなのだから、ジャンル小説もないがしろにしないでもらいたいものです。出ればこうやって販促するしさ。ほんと熱く語るフリークたちによって動く波というものを軽視するべきではないよ(なんかXbox360のこと語っているみたいだな……TOKIOのCM、いいね。完全なイメージ戦略に割り切って正解)。

 というわけでさっそく読み始める。
 ストーリーの印象としては、二つの別の作品を連想した。
 『ベティ・ブルー』と『死影』。

bettyblue

 『ベティ・ブルー』を想い出したのは、ヴェロニカ・レイクが、主人公サムの書いた小説のヒロインそっくりに変装してレストランで待っているシーン。その後激昂し、彼女が黒髪のカツラを脱ぎ捨て、ピンで頭に沿うようにまとめていた金髪を時間をかけてほどいていく。

 そもそも怒っているのはこっちで、振り回されているのもこっちなのだが逆ギレされ、あげく彼女がイラついて変装を解くのを、手を貸すわけにもいかず、怒鳴りつけるわけにもいかず、ただ待っている主人公の「なんなんだよこれ」という感じ。『ベティ・ブルー』。原作も傑作だが、想い出したのは映画のほうだった。主人公が小説家というところからの連想ももちろんあるんだろうけれど、ヴェロニカの行きすぎた情熱が、しかしだからこそ目をそらせない──目の前にいるのに、自分に向かって愛を語っているのに、あきらかに違う世界を見つめている焦点のボヤけた彼女に、もううんざりなのだが魅入られている──ベアトリス・ダルの演じるベティも、そんな顔で主人公を見ていた。お前いったいなんなんだよ愛してる愛してるって言いながらやってるお前のそれはオレを破壊しつつあるんだが──手をのばして彼女の腕を掴めば、一緒に崖の下に落ちてしまうことが確信できていながら、背を向けることもまたできない。ヒステリックに狂っていく愛し方は女性ならではのもので、そこに共感する女性もいるだろうし、そこに惚れる男性もいるだろうが、きっと全員の意見が一致するだろうことに、彼女が望む世界を実現しようと思えば、生身の男では応えることができない。彼女は彼女のなかで完結するしかない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

わたしは何かを信じてないとだめなのよ、サム。人であれ、集団であれ。そうすることで機能してる。


ジョナサン・キャロル 『蜂の巣にキス』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 というわけでヴェロニカは両刀遣いで、ポルノ映画に出演して、当代一有名な自殺教団の信者だったわけで、ということはいまヴェロニカがサムを求めるのも彼女が「だめ」だからで、彼女が彼女として機能するためになにかを信じる必要があって、それがサムだということで。ヴェロニカの言葉をかりるなら、あらゆる芸術家は一生涯の恋人として自分の作品に恋するが、大多数の創作的才能のない人々は自分の作品のかわりにだれか「他人に」恋するしかない。だからわたしはあなたを欲するの、あなたはあなたの作品に恋していればいい、こっちはこっちで好きにあなたに恋するから。問題ある?

 もちろん問題は大ありです(笑)。
 だが、その状況で、自分の首に彼女の両腕がまわされて、払いのけられる男はそうそういない。まして──小説家にとっては。ベティも、ヴェロニカも、あなたと「あなたの書く作品がないと」生きていけないと叫んで狂っていく、最強の愛読者なのだ。自分の作品の愛読者を無条件で愛するのは小説家にとって本能だし、それが存在意義。
 ジョナサン・キャロルの物語は、いつも「すべて」か「無」かの狭間で揺れる。
 キャロルの描くヒロインは、いつもとんでもなく魅力的で美しい。
 そしてその要素は例外なく、宇宙のバランスを崩す。

the straw men

 『死影』を想い出したのは、かつて「蜂の巣」と呼ばれた少女の墓にサムが訪れたとき、その墓石の裏に「こんにちは! サム」と真新しいペイントがされていた──そのシーン。過去が過去でなくなり、その瞬間まで意味さえなかったものが、唐突に自分の人生の「いま」の最重要事項になる感じ。

 両親が死んだと思ったらビデオが出てきて、自分に双子の兄弟のいることがわかった──そこから自分の暮らす世界は自分の思っていたものとはまるで違うんだということに気づき、気づきたくなかった暗闇に落ち込んでいく主人公を描く『死影』──マイケル・マーシャル・スミスの新刊ということで気持ちのいい激烈なSF作品を期待していたら帯にも「スティーヴン・キング絶賛」と書いてあるとおり、ダークにもほどがある話だった。人骨があちこちに山積みされている高級住宅街なんてシュールでどうしようもないダーク設定を読んだのは、近年まれに見ることだったので、それで連想したところもあるんだろう。
 「ダーク・ファンタジー」という呼称を登録商標として出願したとき、許可されるのはジョナサン・キャロルだけだ。
 その作家の登場以来──『月の骨』を読んでから──ダーク・ファンタジーという呼称で呼べそうな作品に出逢うたびに、キャロルのことを想い出さざるをえなくなった。そして近年は、そのたびに「キャロルの新刊はどうなっているんだ」とやきもきする毎日だった。

 『死影』の原題は『The Straw Men』だが、『ストローマン』ではなく『死影』という意訳のほうを選んだ訳者・嶋田洋一の選択には、キング読者は放っておいてもマイケル・マーシャルの新作はチェックするだろうから、それ以外の読者を取り込もうという意図が働いている。死と影という言葉で釣れるのは、一部のサスペンス好きと、ダーク・ファンタジーといえばキャロルだけれどキャロルの作品はもうぜんぶ何度も何度も読みかえしているのでいまでは死とか影とか言われるともうそれだけでキャロルの匂いがして手がのびちゃうわ、という一部の中毒者だ。ちなみに私はそのすべてに当てはまる。

 他人が怖いのは、なにを考えているかわからないからだ。
 人はだれしも自分だけの宇宙に暮らしていて、だからこそひとつの宇宙と別の宇宙が触れあう恋愛や友情というものは許容という言葉を輝かせるのだけれど、許容しようにもまったく掴み所がなく、まったく理解できないのではどうしようもない──私がどうやってもウミウシに恋できないように──せめて興味深げに私を見つめ返すトカゲなどであればとっかかりもあるのだが。対ウミウシではない同じ種族のはずの対人戦でも、ああこの人はどうしようもなく私の宇宙とはかけ離れた宇宙に棲んでいる、と感じることはある。
 遠巻きにそういう宇宙を眺めるのは愉しいが、近づくと巻き込まれるし、触れるとこっちが壊される。
 だから他人は怖いのだ。

 『死影』と『蜂の巣にキス』で、同じことを思った。
 どちらも、自分が、自分の過去が、別の宇宙になってしまう物語なのである。
 それは他人の宇宙よりも、もっと怖い。
 自分の宇宙が、自分の知っているものとは違うのだとしたら、その宇宙の中心でこれまで生きてきて、いまも生きている、私はいったいなんなんだ?

 小説家たちは、突飛でドラマチックな物語でそういう感覚を描く。
 けれど、読んでいるうちに気づくのである。
 まあ、多かれ少なかれ、普通に暮らしていたって人生ってそういうもの。

 おかしなヤツに振り回され、振り返ると良い想い出なんてひとつもなく、たったいまもなにやってんだあたしはと思いながら毎日を生きていて、好きとか嫌いとかどうでもいいし、そのくせだれかの発した一言一言や、発しなかった一言一言に過敏に反応してしまう──この我が宇宙の神たるあたしが、あたしの宇宙をまったく制御できている気がしないし、たぶんこれからもできない確信がある。
 あたしは自分自身に振り回されて疲れ果てている。

 ある日突然、自分の泊まっているホテルを爆破される。
 ある日突然、スピーチの原稿にわけのわからないことを書いたポストイットが貼ってある。
 でも、別にそんなことなくても。
 ある日突然、自分がどこに立っているのかわからなくなる。
 そういうことは、当たり前にある。

 だからこそ彼はダーク・ファンタジーと呼ばれる。
 なにか、近い。
 夢の世界の出来事ではない。
 そういうことが起こっているのに。
 すぐそばにある。
 むしろ私の内にある。
 それが怖い。

 ジョナサン・キャロルを読むと、小説は技術だということがよくわかる。『蜂の巣にキス』の主人公は三度目の離婚をしたところで、かつての妻たちのことは冗談のタネとしてしか想い出さないが、十六歳の娘とは友達のようにつきあっている。『蜂の巣にキス』最大のヒロインは、この娘キャサンドラだ。死んだ少女でも、エキセントリックな美人でもなく、はじめて恋人ができたと父親に紹介する年頃の、普通の少女。セックスにはコンドームを使う。黒いマニキュアをしているが、稲妻の入れ墨はしない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「あたしが時々、どんなこと考えてるか知ってる? すごく悲しかったり落ち込んだりした時、どこかにあたしの彼がいて、晩かれ早かれ合えるんだって考えるの。
「それから、今この瞬間は何しているのかなって思う。こんなふうに考えることあるのかなって。あたしのこと、どんな子だろう、どこにいるんだろうって思って。けどきっと、『プレイボーイ』読んで、おっぱいの夢でも見ているんだよね」
 ちょっと考えてみたが、同意せざるをえなかった。


ジョナサン・キャロル 『蜂の巣にキス』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 とか。まったくなんでもない文章だけれど、読んでしまうし、少女がどんな表情をしているかさえわかる。同意せざるをえなかったパパは、このとき娘になにを語ればいいんだか考えるし、読者がそれを考えてしまえば、キャロルがサムに次になにを言わせるのか、読むしかない。たとえ目的地の駅に着いていたとしても、本を閉じることなんてできない──ちなみにキャロルの描く機知に富んだ最高の父親はこのあと、『スター・トレック』の転送装置のたとえ話をして、娘に肩をすくめられる。

 読みながら、ジョナサン・キャロルの文章を盗もうかと画策するが、もしもそんなことをすれば、私の小説はところどころに一粒100ドルのチェリーがまじった、一斤100円のレーズンパンのようになってしまうだろう。どっちも台無しだ。キャロルの言葉はキャロルの作品の中でしか生きられない。数ページ読むたびにメモを取りたいフレーズが現れるが、そんなことをしたって自分の料理にそんなチェリーを使うことは絶対にないとわかっている。だとしたら、完全に味わい尽くし、楽しむしかない。

 『蜂の巣にキス』のなかで、主人公は自分のことをウディ・アレンも真っ蒼なノイローゼの種がごまんとある男だと呼んでいる。そういえば、キャロルの作品はウディ・アレンのそれに似ているところがあると思う。憂鬱そうな男が出てきて、攻撃的な女や男に出逢い、ため息まじりに首を振っていたりするシーンや、あたりまえの恋だの愛だの娘のボーイフレンドへの嫉妬だの、そういった何気ない感情をぼたぼたこぼしながら右往左往しているところが一番おもしろい。
 物語の筋よりも、各場面のワンシーンが記憶に残るのである。
 本気で味わい尽くそうと思えば、噛めば噛むほど深みのある味になって終わりがない。
 だからこそ、古本屋にも並んでいるのだろう。
 きっと、そのキャロル作品を手放すことのできただれかは、私の読んだキャロルとは別のキャロルを読んだのだ。

 だからこそ、誇らしい。
 『蜂の巣にキス』を傑作だと言い切って人に勧める、私が。
 キャロル的ダーク・ファンタジーと、これを呼べるかどうか。
 翻訳者も言うとおり、今作はちょっと毛色が違う。
 けれど、作者の名前がなくても、読めばすぐにわかる。
 ああジョナサン・キャロルだ。
 逢いたかった。

 数年ぶりに逢えました。
 満足です。おすすめ。

kissing the beehive

TRACKBACK http://yoshinogi.blog42.fc2.com/tb.php/70-a70e2885