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『愛のそよ風』のこと。



 超有名布用除菌消臭スプレーである「ファブリーズ」が「布のそよ風」という商品名だったら、これほど売れたろうか。

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 「ファブリーズ」は、「fabric(ファブリック・布)」と「breeze(ブリーズ・そよ風)」を合成した造語だ。日本生まれなのに。英語の合成語がそのまま商品名になっている。

 一方、かの西部劇伊達男、クリント・イーストウッドが監督業に初専念した作品名は監督第三作『Breezy(ブリージー)』。少女の名だ。そよ風というニュアンスの名前で、自由奔放なヒロインが自称しているだけであって本名なのかどうかは定かではない。その彼女と主人公との恋愛話である。

 というわけで邦題は……

 『愛のそよ風』だ。

 『ブリージー』では売れない、との判断があったのだろうけれど、かといって『愛のそよ風』か。恋愛映画のタイトルに、愛という漢字を使ってしまうのは、だれかオイオイマジカとつっこまなかったのだろうか。

 この作品を撮った当時、イーストウッドは43歳だった。微妙な年齢である。木村拓哉が現在44歳だそうだ。だれもが知っているイケメンにシワが刻まれて別種の渋さが出てくる、というパターンもあるが、イーストウッドやキムタクは、際立つ個性がそのまま歳をとっていく感がある。イーストウッドがダーティハリーを主演したのは40過ぎで、西部劇のガンマンが警部になって都会でバキュンで大ヒットだった。そしてキムタクは言い出さないが、イーストウッドは自分で監督もやるぜと言い出したのであった。

 でもまあ、脚本はさすがにひとに書かせるのがエラい。自信満々の40代ノリにのっている状態でありながら、なにもかもが出来るとはおごらない。できたひとだ。当時の勢いで、オレが本も書くと言えば、きっと通っていただろう。そして映画監督クリント・イーストウッドは大成しなかったかもしれない(やってみたらなんでもできてしまうということも彼の場合ありそうな気もするが、気がするという部分を残すのが、大衆に夢を与えるプロのありかただ)。

 そういうわけで、そういう時期に、オレの次の監督作のために本を書いてくれたまえ、と言われた本屋は、イーストウッド主演の当て書きで、彼と少女が恋に落ちるという趣向の物語を編んだ。

 そりゃそうだ。ノリにのっているダーティハリーキャラハンだ。それが恋愛映画を撮りたいという。すでに彼は、主演と監督を兼任して成功を収めてもいる。ごくごく自然に考えて、次も本人が演じるものだと思って書く。

 だがしかし。そこが微妙なお年頃だったのだ。

 イーストウッドは、良い本だと褒めつつ、自身の出演を断念する(我慢できなかったのか、一瞬だけ出るには出ているが)。

 理由は、43歳の自分では、少女とおっさんの恋物語に見えないから。キムタクに同じ話が来ても、同じことを言いそうだ。オレとじゃふつうに恋愛モノになっちゃうでしょ。そしてふつうに恋愛ものになってしまうと、47歳の福山雅治と20歳の藤原さくらが恋をして一部にドン引きされた『ラブソング』のようなことになる。ちなみにアマゾンのレビューでもこのドラマは見事に賛否両論分かれているが、私は、賛美する側の意見におおむね同意である。良いドラマだった。

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 イーストウッド監督が、オレが主役ではダメだと決断したのは、ひとえに、福山雅治ではたとえ40代後半で20歳の小娘とイチャイチャしても、絵になってしまうというところなのだ。年齢じゃないんだよ、オレはさあ、ほら、こういう……クリント・イーストウッドなわけだし。

 かくして、おっさんが呼ばれた。
 ウィリアム・ホールデン、55歳。

 歳上ではあるが、たかだか十歳ほどの上である。だが、そう、問題は年齢ではないのだ。彼の場合、アイドルから演技派へ転向し、売れに売れたが、前述の、シワが刻まれてイケメンが別種の渋さを醸し出すというパターンを通り越してしまって、最近見るからに体重が増えたというたぐいの役者だった。

 『愛のそよ風』撮影時には知るよしもないことだが、その後、現実に24歳下の女優とスキャンダルめいた関係になり、酔って階段から落ちて逝く。アイドルが中年にさしかかり、いったんとんでもなく自堕落にゆるんだとしても、なんとか巻きもどしてクリスマスディナーショーを満員にする一派と、そのまま消えてしまう一派とがあるが、ホールデンは絵に描いたような後者だ。そして、『愛のそよ風』撮影時にはすでに、軽い破滅の足音が聞こえつつあるのが観ればわかる。

 もちろん、クリント・イーストウッドが「いや兄さん、あなたには破滅の香りが漂いだしている、この役にぴったりだ」などと言って口説いたわけはないだろうが……43歳の自分ではまるで話にならないけれど、55歳の彼ならば素晴らしい年の差恋愛モノになるだろうと踏んだのは、そよ風少女ブリージーとの対比として描くにふさわしい、無風、もしくは逆風も吹き始めている中年男という像に、彼が合致したからなのは、あきらかだ。

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 突然だが、ここから下に進むと『愛のそよ風』のラストシーンを引用していて、内容バレになるので、観ていないけれどそういうのは知りたくない、という向きはここで読むのをやめて欲しい。

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Frank: Hello, my love.
愛しい人よ

Breezy: Hello, my life.
寂しかった

Frank: I don’t know. If we’re lucky, we might last a year.
運がよければ1年もつだろう

Breezy: A year? Just. . .just think of it Frank! A whole year!
1年? こう考えるのよ フランク 1年もある


 映画『愛のそよ風』

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 忠実に字幕を書き写した訳だが、邦題と同様の、いらない意訳がされていると私は感じる。
 私ならば、こうする。

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Frank: Hello, my love.
こんにちは。ぼくの愛。

Breezy: Hello, my life.
こんにちは。あたしの人生さん。

Frank: I don’t know. If we’re lucky, we might last a year.
わからないが、運が良ければ、一年は、もつかもしれない。

Breezy: A year? Just. . .just think of it Frank! A whole year!
一年は? フランクったら。こう言って。まるごと一年も!


 映画『愛のそよ風』

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 フランクの口にする「my love」は、どうでもいいけれど、ブリージーが応えて言う「my life」を、わざわざ「寂しかった」などという日本語に置き換えるのは、いかがなものか。55歳の、太りはじめ凋落しつつある孤独な中年男性に、20歳の宿なし少女が、あたしも愛しているわフランク、ではなく、私の人生さんと呼ぶ。人生が終わったも同然なのはフランクのほうで、それなのに捨てられたのはブリージーで、彼女にとって、この恋が再びはじまるということは、帰る家ができるということであり、55歳のおっさんとだけセックスする毎日がもどってくるということである。

 自由主義者にとって……それもフリーセックスを標榜していた、一種の宗教でもあった当時のアメリカンヒッピーな20歳にとって、それは生きかたそのものを変えるということだ。そしてブリージーは、フランクへの愛のために、それを難なく成し遂げてみせたのだったが、おっさんの側が、こんな関係が続けられるわけがないと泣き言を言い出して、いちど捨てられたのだ。

 この映画。47歳の福山雅治『ラブソング』が賛否両論であるように、やはり、一部のひとたちにとってまったく受け入れられないもののようだ。そして、またなのだが、私は、賛美する側に立っている。

 キムタク的43歳イーストウッドが、この映画を主演していたら、まったくの別物になっていたことは間違いない。そして私は感じるのだが、そもそもイーストウッドに当て書きした本屋は、そのオルタナティブな『愛のそよ風』こそを書こうとしたのではないだろうか。つまり『ラブソング』のような。

 おっさんと出逢って目を醒ました少女が自分の人生を見つけ、おっさんも若い子を掴まえてもういちど人生に張りあいをとりもどし、相互的幸福、というような。

 そして、監督クリント・イーストウッドは、それを撮りたくなかったのではないか。

 だとすれば、監督の狙いは大成功だ。
 この映画を賛美する私でさえ、たぶんフランクとブリージーは実際的に、もって一年くらいの関係になるだろうと感じるし、いや、もっと根源的なことを疑ってしまうのである。

 これは単に肉欲ではないのか。

 執着、と言い換えてもいい。気に入った相手とのセックスは一宿一飯のついでなブリージーだが、気に入らない相手とは金を積まれても寝ない。それがいつしかフランクの家に居つき、彼の帰りを待っていたりする。野良猫が、主人を見つけて飼い猫になったという図式だし、飼った側も、むろん自分好みだったから近くに置いた。

 猫を膝に抱き、背を撫でるしあわせ。
 猫は猫で、喉を鳴らしている。

 ヒト対ヒトだと、勃っただ濡れただあるが、あるというだけで……

 と、考えてみて、こんどは自問する。

 猫を連れてきたから猫を撫でるようになって、それが日常になって、執着する。それを愛と表現するのは間違いか?

 間違っていない。
 それは愛だ。
 拾ってきた猫を放せなくなる物語は、十二分に恋愛映画だ。

 執着と肉欲は?
 同じだ。というのは語弊があるが、肉欲に由来する執着というものは当然のように生まれうる。とすれば、収まりがいいとか、肌ざわりがいいとか、具合がいいので生まれてしまう執着=愛という表現も可だ。

 私は最後の「A whole year」を「まるごと一年も」と訳した。日本でもケーキ屋言語では、まるごとまんまるいケーキをホールと呼ぶ。対して、ひと切れのケーキはピースである。

 映画化もされた、ジョージ朝倉『ピースオブケイク』という作品がある。  

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 「Piece of cake」を、その作中では「たやすいことさ」と訳してある。ケーキひと切れなんて、たやすいことさ。ホールなケーキは、たやすくないさ。ホールな一年も、たぶんおなかいっぱい。

 たやすいことさ。
 愛なんて。
 と、ジョージは語る。

 さて一方、私がなぜこう、イーストウッドの初監督専念作について徒然ているのかといえば。

 幼いころに出逢った20歳ほど歳上なひとへの恋心を大人になっても抱いたまま、相互作用しあって高めあい肉欲も含めた愛が実る。

 という本を書き、先週、まさに20年ほどのおつきあいになる某出版社さまから、ボーイズラブ的恋愛に足らず、という評をいただいたことに起因する。この手の評価は、なんどめかのことだ。という書きかたをするということはつまり、ボーイズラブ的恋愛が描けていると認められることも、あるにはあるのである。

 そしてこれが実に困ったところなのだが、書いている私に、その差がまったく認識できていない。今回など、いま読み返してみても、まだ、うーんこれは違うのか……という感であり、まさに夜も眠れず考えていたら、あれ、これって、と気づいた。

 『ラブソング』しかり『愛のそよ風』しかり。まったく受けつけないひとが少なからずいる年の差恋愛モノを、ことごとくこれまた、うーんみんなこれのなにが受けつけないんだろういい話じゃないか私は萌えるんだが、と観てしまう私が、そういう恋愛モノを書いて、コレ違うやりなおし、と頬を張られるという。

 じゃあ自分のではわからんから『愛のそよ風』のなにがブーイングを受けるのか、少しつっこんで考えてみようと書いているのが、いままさにこの地点で起きている出来事なのだった。

 ここまで書いてきて、なんとなくわかったような気がしたような気がしなくもないような感じのことがあるにはあるので端的にまとめてみたい。

「この図式は、おっさんの側が、自分に執着してくれる若い子に依存しているように見えてしまう」

 フランクは、ブリージーと釣りあわない自分を恥じて、ブリージーを捨てる。だがそれでもふたりの愛は消えなかった。一年くらいはもつかもな。なに言ってるのフランク。と言いつつもどってきたのは少女なのだけれど、背を撫でられている猫がどちらかといえば、おっさんなのだ。

 もうむしろ、これが男の生理だと、幼女を手籠めにするような肉欲オンリーな展開であればポルノとして成り立つ。しかし、おっさんに執着する若い肉に、いやおれなんかが、と悩みながらもけっきょく成就してしまうそれを、恋愛と呼ぶところに、なんだか気持ち悪さがあるのではないか。

 いやほら、だから。私のなかでは肉欲も愛も同じものなので、理解はできないのだけれど。幼いころにあこがれてくれていた若い肉がそこそこ育ってぼくのアナルを貫いているそこに愛が生まれるというのは私のなかではアリなのだが、そこが気持ち悪いのではないかと。

 いまいちど『愛のそよ風』を観て、なるほど、ここに恋愛をからめて賛否両論になってしまったクリント・イーストウッドが、そこから恋愛要素を抜いて撮ったのが『グラン・トリノ』で、だからあの作品はウケがいいのかなあ、などとも思った。

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 『カールじいさんの空飛ぶ家』とかもそう。子供に目を醒まされた老人が、彼を深く愛するようになる、という物語は絶賛される。かといってイーストウッドがタオに、カールじいさんがラッセルに、肉欲をおぼえてしまったら大ブーイングだし、そこは、幼い側が求めてきたという描写さえもだれも望まない。

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(カールじいさんの二次創作ではさすがになさそうだが、グラン・トリノBLは、ありそうな気もするが。今回は、そういう話ではないので深く考えないけれども)

 ということなのか。
 という考証をうっすらしたところで、だ。
 しかし私が書いているのは官能小説なのだ。
 おっさんの側が勃っても濡れてもキモいと言われては、展開させようがない。

 それつまり、プロットの段階で20歳差がマズかった、その時点で詰んでいた、ということか。せめて先輩程度にとどめておけということか。

 なんだかくっきりはっきりわかったわけではないが、『愛のそよ風』よりも『グラン・トリノ』がイーストウッドの年の差愛を描いた作品としては出来がいい、というのは私にもわかる……わかりながら賛否両論な『愛のそよ風』についての私の愛を語りたいという欲求が抑えきれないあたりが、私のダメさなのである。観る側の気持ちになれ、なぜあえてそれを描く、というところに尽きるのに。ああなぜこんなにわかっているのに……

 クリント・イーストウッドの初期監督作は、ほぼすべてにおいて直球ではないクセ玉だという理由から賛否両論であり、『愛のそよ風』についても、撮ってみたらこうなったのではなく、あえてこう撮ったのはあきらかで。つまりイーストウッドは本質的に、カルト的でマニア向けでニッチな層をウホウホ言わせたい願望がある作家なのに、世に求められるイーストウッド監督を、イーストウッドは作りあげた。オレはさあ、ほら、こういう……クリント・イーストウッドなわけだし。本能のままにカオスな作品を撮ったりせず、こういう王道なのを撮っちゃうわけさ。

 という自分に酔えるひとなのだろう。クリント・イーストウッドを演じているクリント・イーストウッドが真実クリント・イーストウッドで、唯一無二。だれも見ていない場所でも、彼は日々洗練されていく理想のクリント・イーストウッドであり続けて、そのまま逝って後悔なしなのだ。迷いのなさの次元が違う。ものすごいひとである。

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