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『エンダーのゲーム』の話。


 前回、『Halo』の話をしていて、ああそうだ、あれに触れていなかったと思い出したので、それについて。

 『エンダーのゲーム』。

 いや、その続編の『死者の代弁者』を私は大好きなので、そちらをより深く読むために前作『エンダーのゲーム』にも触れてほしいと願うのですけれども。

 幼くしてさらわれた主人公がスーパー兵士へと成長して、異星人から宇宙を守る。よくある設定だ。いつかの『Halo』話で、私も『反逆者の月』と『Halo』サーガとの類似点について語ったことがあった。

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『Haloだけの王道』の話。

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 いつかハリウッド超大作を撮ってやるぜ的なノリの宇宙戦争モノとして、派手さを求める系譜で『Halo』を語るときには、改造された人間の子供というところを掘り下げるのが常だが、『Halo』のナンバリングシリーズの物語を私が重視するのは、別の点にもある。

 異星人との終わらぬ戦いのなかで、マスターチーフ(機械化された人間)が、コルタナ(人間的意識を得た機械=AI)とこそ、心を通じあわせるという。

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 ジェーンは抑揚をつけて言った。
「人間の心はひねくれてつむじ曲がりなもの。ピノキオはほんとうにおばかさんよ、人間なんかになりたがるなんて。木の人形のほうがよほど利口なのに」 

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 オースン・スコット・カード
 『死者の代弁者[新訳版]』

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 そう言いながらAIのジェーンは、人間であるエンダーを愛している。この造形はまさに『Halo』でのコルタナだ。系譜というならば、『エンダーのゲーム』が『Halo』サーガのみなもとにあるのは間違いないところだろう。

 そう考えると、1980年代に発表された『エンダーのゲーム』や『死者の代弁者』の後を追って、2001年に生まれたマイクロソフトXbox『Halo』が2010年代に大作映画化を立ち上げては未遂に終わるなか、映像化不可能とされていた『エンダーのゲーム』が、2013年に映画化されたのは、『Halo』陣営にとっては、リトマス試験紙の役割を果たしたかもしれない。

 少なくとも私は、映画化『エンダーのゲーム』を観ながら、ああこれで『Halo』はマスターチーフが大暴れするアクション映画方面の作品になってしまうだろうな、と予感した。

 映画『エンダーのゲーム』には、美女AIとのロマンスはない。それどころか、原作ファンが切に映画化を願っていた理由の大きなひとつであった、十歳のエンダーにとって心の恋人たる実の姉、十二歳のヴァレンタインが、湖に水着で現れてエンダーと触れあうという、作中でもっとも印象的な美しいシーンを、改変さえしてしまった。

 原作に忠実な映画化だった。原作者であるオースン・スコット・カードが、創造性の違いからどこにも権利を売らず、みずから何本も脚本化した果ての映画化である。カードが短編小説版の『エンダーのゲーム』を発表したのが1977年なので、実に四十年がかりでのこと。これで原作に忠実でなかったら、彼もやってられん。

 それゆえに、潔癖症的なところもあった。

 少女ヴァレンタインがヴァレンタインのままだった。小説ではよくても、映画では。あきらかに十歳の弟と性的な接触を交わす十二歳の姉が、水着では……問題は起きないにしても、印象的なシーンになりすぎるかもしれないということを、オースン・スコット・カードは懸念したのか。もっと単純に識者からの忠告として、映画ファンのなかには少女の水着姿を収集するためだけに映画を観ている連中もいるのだと、余計なことを吹き込まれたのか。

 ともかく、映画『エンダーのゲーム』で、湖のイカダの上で姉は弟を強く抱きしめるが、イカダは桟橋につながれているし、姉は分厚いコートを着ているので、ふたりで湖に飛び込んだりもしない。もちろん、その代わりになるヴァレンタインのシャワーシーンなどもないので、映画では少女のゆるいウェーブの金髪が、濡れて白い肌に張りつくといった描写は皆無だ。あくまで「湖のイカダの上で」というところにこだわり、改変はしてもカットはしないというところが、この映画化の特徴だった。

 結果、すべてが早送りの印象になった。四十年かけても、娯楽SF映画が二時間を越えることはない。小説は、エンダー・ウィッギン・サーガとまで呼ばれる大河小説の始まりの一冊である。よく使われる陳腐な表現だけれど、映画化は原作のダイジェスト版のようだった。おかげで、とてもストーリーはわかりやすい。

 私は、新訳版をまた買って読むような原作ファンだから、まったく予備知識がなく、あの映画を観たひとがどう受け止めるのか、想像するのは難しい。鬼籍に入られた某映画解説者さんが、かつてテレビで放送した映画の解説で悪口を言ってしまって、しかし後日、その作品をベタ褒めして、あれでおれは人生が変わったというタクシードライバーに出遭い、それ以降、だれかにとってその映画は至上のものかもしれないから、決して悪く言う解説はしなくなったという話をしていた。

 だがしかし、テレビロードショーと違い、映画館では翌日も同じ作品が上映されるのであり、非情にも観客動員数はあきらかになる。

 伝説の名作SF小説『エンダーのゲーム』は、映画化をしくじった。

 いや、むしろ潔癖症気味に完璧だったからか。苦悩する無名の十歳の少年で、世界中の映画館が埋まると考えるほうがどうかしている。できればハリソン・フォードを脇役ではなく主役に使いたいところだったが、七十歳の役者に十歳の少年を演じさせるのはさすがに無理がある。無理を通そうと思えば、原作を改編するしかない。だが、それを作者は選ばなかった。

 美しい映画化だ。
 数字的には、大成功とはいかなかったにしても。
 名作の、作品と作者に最後まで敬意が払われて、ヴァレンタインに水着も着せなかった。原作に真に忠実ならば、エンダーのスタート年齢は六歳なので、さすがに実写化できそうもないという事情もあって全体に原作よりも大人っぽかったけれども。その心意気には拍手を送りたい。

 と、褒めているのかけなしているのかよくわからない映画評をざっくり済ませたところで、だからその映画からなにを強く感じたかというところを書いておく。

 バガーやフォーミック、という名で呼ばれる、異星人。映画だけを観たひとは、なんでこれ、もっとヒトっぽい造形に(いっそ美少女に)しないんだろうと思ってしまうかもしれないが、実のところ『エンダーのゲーム』の続編、『死者の代弁者』では、ピギー族という、かなり人間に近い身体造形の異星人が登場する。オースン・スコット・カードは『エンダーのゲーム』を書いたことで得た認識を深めた結果、造形がヒトに近いほうが、より異質さが際立つのではないかと考え、見事に昇華させているのである。

 彼は、できることならば映画の異星人フォーミックを、昆虫にさえ見えない造形で描きたかったはずだ。しかし、大作映画ということで、難解になりすぎることを嫌った。原作『エンダーのゲーム』におけるバガーは、雄がナメクジのようだという表現や、女王が壮麗だといった抽象的表現にとどまり、具体的造形について言及していない。映画で、虫人間的な造形でフォーミックが描かれたのは、かなりのサービス精神からのことだった。

 異質さ。それこそがテーマだ。映画を観て、私は逆に、あんな異星人だったら、相互理解可能ではないかと感じた。

 『Halo』しかりである。『エンダーのゲーム』に影響を受け、無数に派生したそれ系統の作品のほとんどで、『エンダーのゲーム』映画化と同様に、敵異星人は理解可能な存在に置き換えられている。『Halo』では敵異星人との友情まで描かれる始末だ。

 その点、やはり祖は重みが違う。

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「ひょっとして、彼らはわれわれが知的生命体だとは知らなかったのかも。もしかして──」

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 オースン・スコット・カード
 『エンダーのゲーム[新訳版]』

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 少し前に、こんなことをつぶやいた。

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 ・NASAがまた地球に似た惑星を発見( http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/022300069/ )。「今度のは近い」と胸を張る距離39光年先。望遠鏡で見つけて次はもっと高性能なので観察するという。光の速さで39年かかる先を「見て」生き物をさがす。その技術のほうが謎なので詳しく教えてほしい。 

twitter / Yoshinogi

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 予算の関係もあるのだろうが、近年のNASAは毎年のように「重大発表がある」と言っては期待値を高め、生物が棲めそうな星をまた見つけた、と発表するのをくり返していて、本当はすでにまとめて発表できるなんらかの成果があるのに小出しにしているのではないかと、勘ぐってしまうほどだ。

 彼らが言うに、もはや地球生命体以外の生命体が宇宙に存在することは明白で、いつ確証が持てるかの段階に来ているとか。

 その向こうで、偉大なるスティーヴン・ホーキング博士は、宇宙の知的生命体が、我々の遭遇したくないものに発達している可能性を考慮すべきだと説いている。地上でもっとも宇宙に夢を抱いているはずの彼は、しかし異星人からのコンタクトがあってもガン無視をまずは決め込むべきだと言い続けているのである。

 凶悪な異星人。
 しかしまだ、コンタクトしてくるならば、理解の余地がある。映画『エンダーのゲーム』で、バガーが昆虫それもアリに似ていたのは、そのあたりを意図してのことだったのかもしれない。

 異質さが極まると認識さえ不可能になるのではないか。認識不可能な相手が、認識可能な肉体を持って目の前に現れるよりも、まだしも肉体を持たないAIのほうが人に近いという事態もありうるのではないか。

 エンダー・ウィッギン・サーガに触れると、思う。

 アリは、仲間の見つけた餌に集まってくる。ところでアリには脳がない。しかし、集まってくるということは、なんらかの会話が成り立っていなければおかしい。

 いまのところ、アリは尻から匂いを出して、それによって仲間にいろいろなことを伝えているのではないかとされている。フェロモンでの意思疎通だ。それを意思と呼んでいいものかは人間の物差しでは悩ましいところだけれど、アリはそれで社会を形成して、地上に生き延びている。

 匂いで会話ができるなら、目も耳も必要ない。

 人間の物差し、という表現をさっき使ったが、それは地球外のことになれば、もっと役立たずなものになるはずで、たとえば光の速度で何十年も先にある、生命がいてもおかしくはない惑星が、地球に似ているなどということは、だれも言っていない。水や大気があるようだというだけだ。多くの、というよりも、ほとんどすべての場合において、それらの星は地球よりもひどく大きいか小さいかであり、光が注ぐか、重力はあるのかなどの環境だって違う。

 違う、という物言いが、やはり役立たずの物差しでまだ測ろうとする浅はかさだ。

 そこに棲むのは、珪素生物かもしれない

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『珪素弁当』のこと。

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 もしくは、この記事で。

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『マーズワン計画と、虫』のこと。

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 私は、虫が本気を出したら人類なんてあっというまに絶滅すると書いている。でも、地球上の虫は、人類と同じ地球上の虫だから、本気の出しようがないだけなのだ。宇宙には当たり前に珪素生物がいる。もとから地球よりも千倍デカい星で、すくすくと進化したアリならば、人間のように宇宙船だって作って乗るかもしれない。

 で、そのアリ風異星人も、尻からフェロモンを出して会話する。彼らが人類を発見する。彼らの星の千分の一ほどしかない惑星に棲む、ケツからフェロモンを出してはいない生命体だ。宇宙船に顕微鏡でものせていない限り、彼らのサイズでは、地上のアリには気がつけないだろう。かろうじて人類には気づいたが、彼らに目はない。耳もない。

 地球に、だれかいますかの匂いを噴出してみる。

 無反応である。もちろんそうだ。人類もそのくっさいのには気づいて、空を見上げたら千倍デカい宇宙船がいて、あわてて文字盤を投げつけたり音波や電波で敵意はないと伝えようとするものの、相手には目も耳もないので、コンタクト以前のこと。

 彼らは無反応な地球のエネルギーを、丸ごと圧縮して宇宙旅行の燃料にして、去って行くだけだろう。

 ヒトが、木を薪にして蒸気機関を動かしたように。枝に、虫がいようといまいと気にも留めないように、気も留めずに。

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