最近の記事

スポンサードリンク

月別アーカイブ

『私が私なわけ』のこと。



「いやね、感じるの? すごいわねえ、技術よねえ、手術台の上でこんな立派なおんなのこができちゃうんだから」
「ちがう!」
 おれはテーブルを叩いて叫ぶ。
「目がさめたらこうなっていたんだ」


大路メッキー 『パパイアン・ソープ』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 前回、そう深い意味もなく、あした朝起きたら美女になっていたとすれば、アントニオ・バンデラスのような知的ラテン系の男性にアゴを掴まれたい。もちろんこっちは髪を掴み返してやって、真剣に睨みあいながら、互いの唇を噛み切って血を流すキスをする。みたいなことを書いた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『ルチャ・アンダーグラウンド』の話。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 書いてみて、そういえば、と思う。

 大路メッキー『パパイアン・ソープ』は、私に小説を書かせることになった作品のひとつだ。二十世紀の終わりごろには、そういう作品はいっぱいあった。つまり、男が女になるといったフィクションが。

 男が女にどころか、白人が黒人に化けて黒人のキュートな女の子を口説くというような映画まであった。そういうラブコメが許されていた。ダスティン・ホフマンは売れない役者だったが、女装して個性派女優だとオーディションを受けてみたら合格して売れっ子になり、しかし共演者の女の子に恋をして……困った。そういう話を、あははと笑って観ていられた。

 そういう時代に、女装ではなく、女の子になってしまうというファンタジーとして描かれた『パパイアン・ソープ』は、小説でしか表現できないものを表現していて、私を打ちのめしたのだった。

 いっぽう世界では。

 『パパイアン・ソープ』と、まったく同じ時期に、真逆の「小説でしか描けない」アプローチを試みて、大成功を収めた作品が現れる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「ぼくは、数日かけて頭の中を整理したんだ。こういうことでしょ、あなたはぼくの……その……個人的な部分からすっかり皮をはがして、裏返しにしたって言いましたよね? ということは、皮はそのままあるっていうことですよね? タマだってもちろん保管してあるんでしょ? えぐり出した皮の中身だって……ね? つまりあなたはまちがいに気づいた時点で、すべてをそのまま急速冷凍かなんかして、保管してあるわけでしょ……ほら、あとでくっつける時のために。だからぼくが訊いているのは、いつぼくを元の身体に戻してくれるのかっていうことです。つまり……いつくっつけてくれるのかって訊いているんですよ」


デイヴィッド・トーマス 『彼が彼女になったわけ』 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 もうすこしで二十一世紀だという世紀末。ペニスの中身をくり抜いて、敏感な包皮を裏返して身体に埋め込み、現実に女性になる人々は、もう現れていた。『彼が彼女になったわけ』は、かわいそうに、親知らずを抜こうと入院したら、とある理由で混乱していた病院の手違いによって、女性化手術を受けてしまった男性の話だ。フィクションである。小説だ。だが現実に、彼の言うように、皮が残っているのだから中身を詰めて男に戻してくれという手術は、お勧めされないものらしい。ペニスの皮で膣を造れば至極敏感な性器にできあがるが、逆の場合は、二十一世紀が六分の一ほど進んだいまでも、機械的なインプラントを埋め込んで人造ペニスを勃起させている。血が集まったら膨らんで勃起するという海綿体機構は、まだまだヒトの手で真似できる造形ではないのである。神はいる。

 そんなわけで、間違いで女になってしまったけれど、もとが男であるがゆえに、男としての快感は得られない機械式ペニスとシリコン睾丸を主人公は選択できず、女として生きていくことになる。

 六ヶ月経って、彼女になった彼は、女の子とベッドに入る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 すてきな胸をしてるなんて言われたって、どうすりゃいいんだ? 二十五年間も男として生きてきたんだ。喉をならせばいいのか、ただうれしそうに笑えばいいのか、わたしにはわからなかった。でも、すてきだった。六ヵ月間ずっと自分の身体を被害を被った哀れなものというふうに思ってきた。すべてはこの身体のせいだと思いこみ、自殺まで試みた。でも今、この身体は求められている。彼女はこの身体を見たがって、触りたがっている。わたしにはそれを許すことも、拒否することもできるのだ。


デイヴィッド・トーマス 『彼が彼女になったわけ』 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 そしてまあ、彼女にぶっ込んでやりたくなってしまうがペニスがないんだったとパニックになり、なだめられて女同士ではこうするのよとレクチャーされるという微笑ましいエピソードが綴られる。

 性同一性障害で、心は男なのに女の身体で生まれてきた、そういうひとが不完全な機械式のペニスでもいいから欲しいと考えるのは、その要素が大きいのではないだろうか。つきあっている彼女がいて、彼女のために男性になりたい。機械式ペニスに自分自身の快感はなくても、生身と生身で、ぶっ込んでひとつになれるという実感はあるわけだから。

 BL小説ではよく描かれがちな、男同士が、ただやさしく互いに触れあうというような描写を、男性向け官能小説では、あまり見かけない。男性向けの百合モノでも、濃厚なキスなどは必須の描写だ。触れあった指先に全神経が集まってぼくはぼくの生まれてきた意味を知る、などという心理描写に嬌声をあげてしまう男性は数少ないのだろう。

 と、書いてみて。またここで男性という大きなひとくくりでモノを語っている自分に気づく。そういえばなんだったかのアンケートで、女性のなかに一定数の本来は男性向けに描かれたロリ陵辱モノを好む層がいるのだという結果が出ていた。彼女たちに言わせると、そこには幻想の「少女」なる存在がいなくて、ただ肉としてあつかわれているから安心するのだという。

 あーまあ、自身がまわりからの可憐な少女であれ神聖であれといった重圧を感じてきた結果、そういうものを全否定する男性向けジャンルにハマるというのは、わからないでもない。かくいう私がノンケの男性だがBL読者だし書きもする。嬌声はあげないが、せつないなあ、などとつぶやいて泣いたりすることはある。ヤマト男児はモノノフたれ、などという価値観に重圧を感じたおぼえはないが、なんらかの屈折がなければこうはならないだろうなあ、という気はしている。

 だがしかし。

 だがしかし。

 だがしかしというのが文法的にあっているのかよくわからないままに書き綴っているが、ロリ陵辱モノである。あれは、肉か? アレは肉ですか? いいえアレは少女です。

 いや、そうだろう。屈折した大人女性たちの一部が、そこに少女がいないから惹きつけられるという男性向けジャンル。でも、かといって、コンニャクだと、どうだ。生レバーとかハツだったら、どうだ。山羊では、どうだ。それではそもそも男性向けであれ女性向けであれ、ポルノとして成立しない。

 仮想にせよ人間の少女を肉としてあつかうから陵辱モノなのだ。

 そこに少女はいる。むしろ、男性の作りあげた極北の幻想の少女がそこにいなければ、モノとして成り立たないはずである。それは自身の幻想を汚すという屈折に官能を見出すジャンルで、だとすれば、そういったジャンルを好むとアンケートに答えた女性が、みずから「少女性」などというところに言及したのは、幻想がないからではなく、幻想の定義自体を揺るがす逆説がそこに働いていると薄々気づいていることの証明ではなかろうか。

 こう結論づけると不潔な思想だと眉根を寄せるかたもいらっしゃるだろうが、少女の少女性を破壊してないものとするジャンル内でこそ、少女の少女性は、どこよりもだれよりも求められていて、いちばん輝いている。

 おお、そう考えると、私のBL好きは、こうだ。

 男の繊細さとかわいらしさを賛美するジャンル内でこそ、男が男であることが重要視されるどころか、唯一無二の価値となる。

 だってそうだろう。そこが『パパイアン・ソープ』で、ファンタジー的に女性になってしまったら、BLではなくなってしまう。BLがボーイズのラブであるかぎり、男が男であることは絶対条件だ。性転換は許されない。

 近ごろ、男性向け「男の娘」モノの需要が高いらしい。エロゲ方面で顕著だが、完璧に少女の外見で、ただペニスを持っているといった描写だ。それも、男性器としては機能しない程度のささやかなペニスが取り付けてある。浅く考えれば、なぜそれは少女ではなく「男の娘」でなければならないのか謎に思えるが、深読みすれば、たったひとことで言いあらわせる。

 天使。

 両方を持っているということは、両方がないのと同じだ。なにもないつるんとした股間を持つ羽根の生えた無性の天使では、器官がないのでポルノとして描きようがないが、ロリとショタのハイブリッドであれば、なんでもできる。できるけれど、やっぱり天使だ。つまり天使をあんあん言わせられるし、陵辱だってできる。ものすごい発明である。

 いったいなにを年の瀬に徒然ているのか。なにをかと問われれば、だからつまり、あした朝起きたら自分が美女になっていたらと想像して、あれでも、美女ってなんとなく思ってしまったけれど、もしもそれが『パパイアン・ソープ』的ファンタジーアプローチであれば私は私の男性性をなくすわけだし、『彼が彼女になったわけ』的外科手術の行使であれば、それはすなわち大変な間違いである。悲劇だ。裁判だ。私はすべての女性を無条件で崇拝するが、朝起きて自分が女になっていたら、アントニオ・バンデラスとやりあうどころか、部屋の隅でシーツを被ってがたがた震える始末だろう。家中の鏡を割ってしまうかもしれない。不死者ドラキュラになったも同然。鏡に映らない、自己の喪失。

 なにが大事なのかということを、少し考えたのであった。

 結論。

 でも今、この身体は求められている。

 それだ。

 天使であれ、少女であれ、ボーイズであれ、つまりそれが求められているという表現こそに、なぐさめられるのだ。

 なくしてはじめてわかるありがたさ、という真理を、本当に自分の男や女をなくすことはできないから、擬似的にフィクションに求めて、なぐさめられている。

 肉は必要で、けれど肉に入っている私も必要。

 つまり求めるのは愛である!

 えらく単純なところに収束する。
 ねじ曲がった心で、年末だからなに? 年が変わるからって、終わるからって、特別なことなんてなにもないし、平常運転だよ、あたしは。なんてことをうそぶいてしまいそうなところを、思い改めたという話。

 愛されたい。肯定されたい。このままでいたい。

 なので、一年をこう書いて締めよう。

 この一年もまた、ありがとうございました。来年もまた、よろしくおねがいいたします。あなたにとって、新しい年が最良でありますように、祈っています(神なんて信じていないのに、とか言わず)。

 愛してる。

 だから愛してください。

 だからとかも言うな。

 締まらんな。えーつまりつまり、変わらず、愛し愛されて生きていけたらいいな、ということです。あした起きても私でいて、私はそれを肯定したい。そのためにあなたに言う、あなたあっての世界だと。あなたを愛していると。観測者なくして私なし。あなたがワタクシのワタクシ性を肯定させるワタクシ陵辱モノの読者で、逆もまた真。世界を揺るがさないために、来年も業を燃焼させるフィクションに救われながら自分をたもって、均衡を維持しましょう。平安のうちでこそ冒険はできるのだから。

 締まった。
 よいおとしを。

4042705014

 雑学ですけれど、よいおとしを、という挨拶は、年末あれこれありますけれどもすべてうまく片付いて新しい良いお年が迎えられるといいですね、という長い文の省略形なので、本来は、年の瀬の切羽詰まる前に使う言葉。私のように大晦日も平常運転な職場だと、その切羽詰まった仕事が終わってから旧年最後の挨拶として使われたりするのは、もう「少し早いけれど新年おめでとうございます」でいいのではないかと毎年思い、そんなのどうでもいいだろう、気持ち良く挨拶できないものかなこん畜生と自分のことを毒づく。それが年の終わりの思いになってしまうから、やっぱりおめでとうがいいなあ、と自分で、よいおとしを、使ってみてうだうだ考えたから、言いなおします。

 少し早いけれど。
 新しい年に、いっしょにたどりつきました。

 ありがとう。
 おめでとう。



TRACKBACK http://yoshinogi.blog42.fc2.com/tb.php/667-cecb851f