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『ルチャ・アンダーグラウンド』の話。




 大好きな映画監督のひとりである。
 ロバート・ロドリゲス。
 代表作は、なんといっても、

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 『デスペラード』。

 以前にも何度かここで告白しているが、私はアントニオ・バンデラスが好きだ。

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『狂おしき恋』のこと。

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 男として男をという意味では、圧倒的にアジア系の一重まぶたで無表情をキメる男たちをセクシーだと感じるのだけれど、あした朝起きたら美女になっていたとすれば、アントニオ・バンデラスのような知的ラテン系の男性にアゴを掴まれたい。もちろんこっちは髪を掴み返してやって、真剣に睨みあいながら、互いの唇を噛み切って血を流すキスをする。

 そんなことを夢想しながら、バンデラス常連なロバート・ロドリゲス作品を追っているうち、世界観そのものにうっとりしはじめている自分に気づく。薄汚れた街、薄汚れた男たちに女たち、薄くどころかどろどろに汚れた欲望同士の侵しあい。

 タコスを食べると覚醒する、だじぇいの雀士・片岡優希が「学食にタコスがある」という理由で清澄高校に進学したことがすべての物語の発端である『咲-Saki-』のアニメ化と絡めて、触れたことがあったが。

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『神戸には鉄人28号が立つ』の話。

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 タコスを食べると覚醒する、だじぇいの雀士・片岡優希が「学食にタコスがある」という理由で清澄高校に進学したことがすべての物語の発端である『咲-Saki-』が今年、まさかの実写化で私立恵比寿中学電車番長、廣田あいかはどんなふうに演じるかよりも、タコスはどうなんだタコスは! と熱狂しながら観たくらいに、私はタコスに思い入れがある。

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 と、いうか、タコスに代表されるラテン文化、土地でいえばメキシコに思い入れがある。

 ロバート・ロドリゲス作品のせいもあるが、もっとさかのぼれば、発端は、私がプロレス好きだから。

 プロレスと格闘技の専門チャンネルを観ている。私が肩入れしている日本の団体は、ちょくちょくメキシコ遠征をおこない、その模様が放送される。メキシコは、ルチャ・リブレ(自由な闘い)と呼称される独特なプロレス競技が、街の娯楽として根付いている国だ。娯楽としての地位が高いということは、横綱や闘牛士のように、メキシカン・プロレスの競技者ルチャドールも、人々の尊敬を集める存在となる。

 日本の昭和という時代に全日本プロレスを観ていた私は、テレビ中継でさえ三冠王者戦は正座して観るべきだというような想いがあったが、いま、そういう試合は滅多にない。私が世慣れてしまったせいもあるのかもしれない。けれど、たとえばタイガーマスクに熱狂する昭和の子供というものは、エルビス・プレスリーの生歌で気を失う女性ファンのようなテンションだった。ああいう子供も、近ごろではめっきり見ないから、日本のプロレスが娯楽として成熟したかわりに崇高さを薄れさせてしまったというのは、事実なのであろう。

 その点、世界の二大プロレス大国であるアメリカとメキシコでは、いまだに本気で叫んで泣いている子供たちがいる。いや、大人たちの視線もレスラーに対するリスペクトに溢れているし、だからこそレスラーたちも己の限界を越えていく。

 私の二倍は体重があるような日本プロレスラーが、訪れて数日の滞在で荷物を盗まれたり、水に当たるどころかタコスでも当たるし、などというのをドキュメンタリーで観ると住みたいとは思わないが、歴史ある崇高な魂の行事として、しかし生活の一部としてプロレスリングを血とし肉としている、その国の風景には、憧れてやまない。

 だから、ルチャの中継はタコスなど食べながら、テキーラを飲んで観る。そういう思い入れである。

 まずプロレスがあり、タコスがあって、あしたの朝、美女に生まれ変わったら所望するのはアントニオ・バンデラスで、彼の出演作を追っていたら、まさにプロレス的なラテンの魂を撮り続ける男、ロバート・ロドリゲスに出逢ってしまった。

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 『フロム・ダスク・ティル・ドーン』。

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 『グラインドハウス』。

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 『マチェーテ』。

 ラテンの殺戮マチェドールたぐいまれなる薄汚さで名をはせた俳優ダニー・トレホは、映画で稼いだ金で、タコス屋をはじめた。

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『Trejos Tacos』公式サイト

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 ラティーノがラティーノから稼いだ金でラテンの魂たる食品をさらにメジャーに押し上げていく。いつか世界はラティーノヒートに燃え尽くされてみんなでビバララッサになるのかもしれない。

(ラティーノ・マチェーテが魂を燃やす『Trejos Tacos』のトルティーヤは公式サイトの料理写真を見るかぎり、かなり黄色い。ハードなやつだ。小麦粉が荒いのか、コーンの割合が多いのか。それに比べて実写化『咲-Saki-』。だじぇいの雀士・片岡優希=私立恵比寿中学電車番長、廣田あいかが手にしていたタコスときたら。純白だし。具が見えないし。あれパンだろ? 丸く切った食パンじゃないのか? そんなソフトでフラワーな中身のないタコスが学食にあるからという理由でタコスマスター廣田あいかが……説得力がない。タコス的な説得力がないよ。残念だ。そこは黄色くしてほしかった。いやフラワートルティーヤでもいいから、せめてトマトの赤か、豆の茶色をこぼしてほしかった。くちびる汚してこそのタコスだろうがよ廣田あいか!! その小さい胸にラティーノヒートは燃えているのか?! 来年の映画化では期待したい)

 よく考えてみれば、虎だの骸骨だのの覆面をかぶった半裸の男女が跳んだり跳ねたり悶絶したりがメキシカン・プロレスだ。笑っていい。実際、笑うことも多い。けれどそこに見紛うことなき真剣さがあって、もういちどよく考えてみたら、彼らは命がけのことを訓練によって難なくこなせるようになったパフォーマーたちだ。ほろりと泣けてもくる。ああいう存在こそ人類のひとつの到達点だ、崇めて観よと子らを抱きしめたくもなる。

 抱きしめられて、熱狂と興奮の果てに映画の道に進んで、撮ったロバート・ロドリゲス作品群は、ラテン魂の正統進化と呼べる。彼の生まれ故郷であるサンアントニオが、かつてはメキシコに統治されていたがのちにアメリカとなった歴史も、かえってメキシコという地への彼自身の想いを増幅させたのだろう。

 彼のラティーノヒートは、ラテン魂を持つものたちどころか、アメリカ、それに世界中の観客たちに熱狂的に受け入れられた。

 果て。ロバート・ロドリゲスは、ケーブルテレビ局を発足させる。

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El Rey Network公式サイト

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 彼の映画作品群をドラマ化。
 多分にブラザーと呼びあうクエンティン・タランティーノの影響を感じる、カンフーをモチーフにしたシリーズ。

 そして逆に、タランティーノにはその要素を感じないので、ロバート・ロドリゲスの純然たる幼いころからの夢だったのだろう。

 ルチャ・アンダーグラウンド。

 プロレス番組である。
 今年、日本放送もはじまった。

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・ロバート・ロドリゲスが仕掛けるプロレス番組「ルチャ・アンダーグラウンド」日本放送が始まった。観た。物語の要たる謎のマスクマンが世界にふたりといないだろうタトゥを…リコシェやん。跳びはねるレスラーは、将来的にマスクをかぶるかも知れないのだから、彫る前に熟考してもらいたいものである。

twitter / Yoshinogi

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 日本の団体でも活躍したルチャ・リブレ系の選手が多数。一方、アメリカ最大のプロレス団体で活躍した著名選手も多数。代表格はチャボ・ゲレロ・ジュニア。

 エディの元タッグ・パートナーであり、死後第一発見者である。

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『エディ・ゲレロの死』のこと。

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 ロバート・ロドリゲスが描く、イキ過ぎたラテン魂の結晶。アメリカのケーブルテレビなのだから、ルチャの名を冠していても、アメリカン・プロレスでもある。エル・レイ・ネットワークの立ち位置が、まさにそれそのものだ。

 ……いや、待て。

 放送を観て、それさえ違うのだと気づく。
 メキシカン・プロレス?
 アメリカン・プロレス?
 否……

 入念な編集。リング外のやりとりもカメラが追う。すべてはドラマなのだと、ロバート・ロドリゲス・テレビ局の制作だと、声高に主張している。ルチャ・アンダーグラウンドは、アメリカのとある街の倉庫じみた場所に設置されたプロレスのリングで繰り広げられる人間模様……

 つまり、フィクションである、と。

 わかってはいる。プロレスは演劇だ。だがしかし、ルチャ・アンダーグラウンドは完全にスタジオ撮りだ。ということは。

 画面に映っている、観客も演者なのだ。

 そんなプロレス中継は、前代未聞。

 ルチャ・アンダーグラウンドの客席にダニー・トレホが座っている。トレホ? そうではない。あれはマチェーテだ。他のアメリカン・プロレスでも、客席に有名人が現れることはあるが、まわりの観客は興奮のるつぼと化しているものだ。しかし、ダニー・トレホの横に座っている観客は、カメラで抜かれても彼には無関心でリングに夢中である。アナウンサーもダニー・トレホに触れない。

 マチェーテなのだから。マチェーテを演じるダニー・トレホがいるのではなく、マチェーテが、たまたまルチャ・アンダーグラウンドに来ていて、観戦しているだけなのだ。

 世界観的には、マディソン・スクエア・ガーデンのアメリカン・プロレス興行に、スパイダーマンがスパイダーマンとして観客席に座っているようなものである。映画のなかの大スター、スパイダーマンがそこにいるということ自体をどう捉えていいのかわからなくなってしまうので、そういう演出はされないものだ。あくまでプロレスはエンターテインメントスポーツであり、リアルなのだというスタンスでフィクションを織り込んでいく手法だった。

 二十世紀のあいだ、ずっとそうだった。

 しかし、ルチャ・アンダーグラウンドでは。フィクションであることについて一貫している。それはつまり、今夜のテレビ中継のさなか、ルチャ・アンダーグラウンドの試合会場が突如出現したゴジラやキングコングに踏みつぶされたとしても、世界観が破綻しないということを指す。

 だから観ている私は、マチェーテがいつマチェーテを振り回してリングに乱入するのだろうかと思っていたが、彼は最後まで、客のままだった。なんでも起こりうるがゆえに、なにも起こさないでも視聴者が勝手にテキーラをあおってテレビの前で盛り上がっていく。

 逆説的手法を使って、客席に謎の女が座っていたりもする。おかしなことだ。ただプロレスを観ているマスクもかぶっていないモデル体型の女性がいるだけなのに、彼女のことを謎の女性だと、なぜ認識できるのか。アナウンサーと解説者が言うからだ。

「あれ? 彼女は先週もあそこにいましたよ?」

 そんなもの、常連客というだけのことだろう。だが、わざわざカメラが抜いて、謎めいた美女がいるぞいるぞと煽る。そしてまたしても、まわりの観客は彼女に興味を示さない。つまり観客は、エル・レイ・ネットワークのルチャ・アンダーグラウンド中継を観ていないのである。地下プロレスなので。観客たちは、夜な夜なその倉庫じみた会場に足を運ぶ。せいぜい入って数百人。それが世界のすべてだという設定なのである。

 では、アナウンサーがいるのはなんなのだ。日本語字幕が入って極東でオンエアされているルチャ・アンダーグラウンドという番組は、いったいなんなのか。

 観ている私は、どこの立ち位置にいるのか。

 したり顔で「リコシェはドラゴンゲートのころからときどきキレる選手だったよなあ」などと言ったところで、実のところ、そこに共通点などないのである。世界のどこかで活躍したプロレスラーを呼んできて、キャラクターを与える。そこまでは旧態依然としたプロレス団体の遣り口だが、ルチャ・アンダーグラウンドでは、それが会場の観客にウケるかどうかが、問題にならない。リコシェがキレているのは演技であり、それに喝采する観客も演技をしている。それをわかったうえでテレビを観ている私がいる。

 熱狂している私は、ロバート・ロドリゲス作品を観ているのか、プロレスラーたちが紡ぐプロレスを観ているのか。

「Orale , ViVa La RaZa !!」

 テキーラのグラスを重ねるうち、そう叫んでいる。エディ・ゲレロが使うと「ズルしていただき!」と邦訳されていたが、直訳すれば「ラティーノ最高!」つまりはラテンの魂があるからオールオッケーの意だ。

 おもしろいから、別に映画でもプロレスでも、なんだろうといい。マチェーテが暴れないでも、それを期待させ、謎の美女が何者かについて来週一週間また考える。

 なんやかやが、プロレスにもどってきた結晶がルチャ・アンダーグラウンドであり、これがまた熱狂的にラティーノ以外にも受け入れられてしまった。

 で、今年のことである。

 ルチャ・アンダーグラウンドが、ライブショーをおこなった。

 大きな祭りの一部ではあったが「本物の」観客を入れたハウス興行を打ったのだと言える。「本物の」プロレス団体になったということでもある。それでいて、テレビの圧倒的フィクションなスタイルは崩さない。

 もう、なにがなんだか……

 ルチャ・リブレを「自由を勝ち取るための闘い」というニュアンスで訳すのは誤りだ。「自由な闘い」が正確。それは「なんでもありな闘い」がラティーノの「プロレス」だという意味である。

 マスクを被ったまま棺桶に入ったルチャドールがいた。マスクマンはマスクを脱がないものだから、死んでも脱がなかった。

 自由とは、そういうことだ。

 なんでもありな世界観のなかで、観客を熱狂させ続けるには魂が必須。ラティーノ・ヒート・ララッサなくしてビバはない。

 ルチャ・アンダーグラウンドは、この地上におけるプロレスの定義をさらに拡げてしまった。ジャイアント馬場が言った「プロレスのリングでおこなわれることはすべてプロレスである」や「リングのなかのレスラーは怪物でなければならない」などの言葉が、いまになって新たな重みを持ってくる。

 プロレスのリングとはどこまでなのだ。
 完全なフィクションが許されるのならば、現実から、かけ離れた怪物だって造れてしまうではないか。

 無限に拡がっていくがゆえ、流転のなかで、ない答えを模索するのが答えなのか!!

 禅だ。

 そうしてみると、薄汚れたメキシコの風景も、わびさびの究極に思えてくる。今夜もタコスとテキーラで、薄汚れ具合を誇張された地下プロレスを観ながら私は、これはなんだ、まあいいか、と唸り続ける。

 笑ってしまうほど、なんでもあり。
 限りなく深い、ということである。

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FIGHTING TV サムライ : <Lucha Underground -season1->

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