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『幼児期健忘による私の消失』の話。



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 一歳半になる息子の初めての靴は、ニューバランスのショップのおねえさんに見つくろってもらったものなのだけれど。走り回れるくらいに足腰かたまってきたとはいえ走れば必ずコケるし、そっちへ行ったら落ちて死ぬという理解さえもがない小動物を心おきなく走らせるため、検索エンジンに「公園」と叩き入れて、午後で行って帰りできそうなところへ向かう、それはいいのだが、上の写真は縮小しているので判別できませんが、オリジナルの解像度で見ると彼は靴を左右逆に履いている。帰って撮った写真を見て気づいた。走らせに連れて行ってやるぜー、と出かけて、靴を逆に履かせて気づきもしないのだから、大ざっぱな父がいては、ニューバランスのおねえさんも選びがいのない話である。



 私は電車通勤なので、定期券を持っている。そして自宅は駅前である。息子はこのところ電車の虜になっている。そりゃもう休みの日は、電車乗っちゃあ、となりの駅で降りて、の繰り返しで大興奮なわけだが、もう一回だと私の袖に手が届かないのでズボンの膝のあたりを握って引っぱってブーイングだけは上手くなる彼を見下ろしながら、思う。

「これも忘れるんだよな」

 幼児期健忘は、むかしから不思議がられてきて、早くから研究の進んだために、いまでは確定的事象として語られている。

 ヒトは三歳までの記憶を育てば忘れ去る。

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・宇多田ヒカルが「一、二歳はそのひとができあがる時期なのにだれもおぼえていないってすごい」って。それ私も考えていたんだが。知恵の実を食べた瞬間、楽園で猿だった黒歴史を自ら記憶抹消するのでは。「チンコ見せてみ」「なんでやねん」と感じたところから私は親父とヒト対ヒトになった記憶がある。

twitter / Yoshinogi

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 おとうさんにチンコを見せるなんてなんだかイヤだ、という感覚からして、そのときの私は三歳などではないだろう。がんばって、三歳以前の記憶がなにかないかと踏ん張ってみると、いつも頭に浮かぶのは、琵琶湖のほとりに住んでいたとき、隣の家の同じ歳の男の子と、フェンス越しにキスをしている、という光景だ。しかしこれは多分にあやしい。なぜなら、フェンス越しにキスしている男の子ふたりの画として私が記憶しているからである。となりに同じような転勤族の男の子がいるということで、美術部で知りあった私の両親は、やたらその時期にそういう写真を撮っている。ジョンとヨーコの影響も大きいのだろう、若かりし母と私がヌードで撮られているようなのもアルバムには満載だから、第二次性徴を迎えんとするころの私が、そんなアルバムをひとの目にさらすなと強烈に意識していたのは間違いなく、幼いとはいえ自分のキス写真で相手が男だという写真をあまりに複雑な想いで見つめたために、作られた記憶として定着してしまったのではないかと疑っている。

 物理記録を目にすることで後付けされた記憶というのは、やっかいだ。ねじくれた話をすれば、私の父は写真をアートとして撮っていた部分があるから、それを作品として見たとき、写っているものがなんであるかということよりも先に一枚の写真作品としての印象によって記憶が作られてしまう可能性もある。私に三歳以前の記憶が本当にあれば、母の裸の胸は触って吸いついた巨大な肌色のアップでおぼえていなければウソだ。しかし私にとって、ディレクターズチェアに全裸で座って全裸の私を抱く微笑んだ母のヘアヌードこそが、若かりし日の母である。完全に父の写真のせいだ。

 海馬が未発達であるために三歳以前の記憶は残らない、というのが間違いないところだろうとされている。しかしその一方、歌姫の言う「一、二歳はそのひとができあがる時期」というのも正しいとされている。そういう説は、いつも哀しい証明のされかたをするのだが、三歳までに受けた虐待がトラウマになっているひとが存在するのである。すべてを忘れるはずなのに、心の傷が残るというのはどういうことなのだ。

 五歳の子に、三歳のときの出来事を訊ねると、まだおぼえている。七歳でも、まだおぼえているひとがいる。この調査の結果は、現代の定説とされている海馬未発達だったから説と、なんだか矛盾する。記憶をつかさどる器官である海馬が未発達であるがゆえに、三歳までの記憶が「溜まらない」のであれば、四歳だろうと五歳だろうと、おぼえているはずがない。

 つまり「溜まる」。
 しかし「忘れる」。

 だから幼児期健忘と呼ばれているのだろうか。不思議な感じがする。五歳のときに、三歳で連れて行ってもらったお城のある公園で走りまわったことを「想い出した」ことはまた記憶されるはずだし、そのときにはもう海馬は育っているのだから。誕生日のたびに「三歳のあの日に動物園で羊に噛まれた」話を繰りかえせば、大人になっても、その出来事は忘れずにいられそうな気がする。

 だがだれも、三歳以前の記憶はない。

 誕生日のたびに羊に噛まれた話を聞いただれかが、大人になったとき、動物園で自分の手を噛んだ羊がいたことをおぼえていても、それは記憶としてカウントはされないのだ。それも、手の込んだ後付けの作られた記憶にすぎないと、研究者たちは判断する。

 実際、私は冒頭の写真を育った息子に見せるとき、よく見れば左右の靴が反対であることを言わずにいられない。一歳の彼は、間抜けな父に反対に履かされた靴には気づきもせずに走りまわっていたが、三歳を超えたうえで写真によって記憶を補強した彼は「お城の公園で靴を反対に履かされて走りまわった」と認識するようになり、そのことを他人に話すときには「すごく走りにくかったのをおぼえているんだ」などと言いかねない。

 そうなるともう演出だ。創作だ。ウソだとは言わないが、事実ではないし、記憶と呼べるものではない。

 そう、これが幼児期健忘の正体なのではないかと思う。

 三歳以前の海馬は未発達で、記憶することはできるのだが、著しく情報が少ない。ノートに書き留められたスカスカのメモのようなもの。それをちゃんと海馬が育った三歳以降の自分が想い出すことで補強してしまう。せずにはいられない。余白があるので、創作で埋める。自身の感覚によって自身の記憶を書き足すのだから、本人にとっては事実と呼べなくもないが、客観的に見れば、その過程で三歳未満の拙い記憶は、かき消されてしまうのだろう。

 想い出すという行為が、儚い砂の城には重すぎるダメージなのだ。あまりに拙いのでもっと城らしくしようとしてしまう、その結果、もともとの拙い城の姿はどこにもなくなる。

 そう考えれば、傷は残るというのも説明がつく。本人が思い出したくない出来事の記憶は、皮肉なことに心の奥底で触れられないままだから、脆くても壊れず残ってしまうのかもしれない。

 夏に、仮面ライダーショーへ行った。

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・仮面ライダーに逢いに生後十四ヶ月の息子をつれていく。ショーには悦んでいた。が。撮影会。おねえさんが私のキャラを見てか「強い男になるんだよ!!」という大声のアナウンスを入れてくれたのを合図に一転、阿鼻叫喚地獄。あわてるライダーと苦笑う私と絶叫し逃げようとする息子の写真が撮れました。

・いや、息子をダシに私自身が生まれて初めての生仮面ライダーとの写真が欲しかっただけなので、目的は達したのですが。せっかく黒ずくめにサングラスな悪のライダー風で行ったのに、息子をなだめて、あわあわしたのが無念。背スジ伸ばして冷笑を浮かべたかった。宝物にすべく現在鋭意画像加工中。

twitter / Yoshinogi

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 良い写真になった。
 いまのところ中身も男の子のように思える息子が、やがて私のもくろみ通りに仮面ライダー好きになったとしたら、それを見て、きっと言うだろう。

「とうさんだけ仮面ライダーと写真撮ってズルい!」
「ここに、おまえ、おるやん」
「こんなん、おぼえてない!」
「でもおまえやし、いま想い出したんちゃうん」
「おぼえてない!」

 いや、いま書いていて怖くなったが、そのとき彼は仮面ライダーなんて大嫌いになっていて、写真を見て、そう言うかもしれない。

「……ぜんぜんおぼえていないけど、ぼくが仮面ライダーをいまも怖いんて、このせいなんかな……」

 そうして泣きじゃくる彼を抱いて仮面ライダーとの写真に満足そうな私のことを見上げ、なにしてくれたんや、と睨むのかもしれない。

 記憶は残らないが傷は残る。
 その時期にヒトになる。
 
 そういう子猿を連れて歩いている。

「これも忘れるんだよな」

 そうなのだろう。
 忘れてしまう。
 写真など撮っても、残るのは違うもの。

 だけれども。

 いま猿からヒトになりつつある。城なんだかなんなんだかよくわからない出来の砂の城を、心のうちに築いている。

 たぶん……いや、進んだ研究のおかげで例外なくだれもが幼児期を健忘するのだとあきらかになっているのだから、間違いなく。彼は今日の私との時間を忘れ去る。ということはつまり、窓まで届かないので持ちあげてやって、車窓から流れる景色を見つめてなにが見えているのかよく理解できずに困惑顔な、いまの彼を正しく記憶していられるのは、私だけだということで。

 ふたりで出かけても、私にしか記憶は残らない。

 たとえば、いま私が消えたら。
 彼は私の実在を保持できない。
 いま、ここにいて彼を抱いているのに。
 私は消失する。

 私は砂の城だ。ふんわりとした、あとになってつついたら途端に壊れるような儚い存在なのである。私自身はそうは思えないが、彼にとってはそうなのだし、私は彼の世界を信じることができるので、私が砂の城であることも信じられてしまうのだった。

 私は砂の城だ。
 私なのかもよくわからないほどに、拙い。

 子猿との散歩は、不可思議な気分になる。

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