最近の記事

スポンサードリンク

月別アーカイブ

『共感性疼痛教育』のこと。




 何年か前に、某プロレス団体の両国国技館大会を観て感銘を受け、熱く語ったことがありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『ラリアートとキス』の話。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 その大会が今年もあって、また熱く語れることがあればいいなあと思いつつ観ていたのですけれど。家でテレビ中継で。仕事から帰ってからで。日付も変わろうという時間から観始めるので、長い中継だと朝になってしまうようなこっちも体力勝負だぜ的な視聴なのですが。

 前回、自発的微笑を浮かべなくなった。つまり大人になってしまった息子のことについて触れましたが。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『自発的微笑を正解する』の話。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 むろん、そういう帰宅時間なので、いつもは彼はすでに眠っている。大人とはいえ、一歳なので。

 しかしまあ、同じ家のなかで発奮しているプロレス観戦者が酒飲んだりしているわけで。なにかの拍子で、すっ、とドアが開いたりする。一歳だけれど大人だから、起きても泣かずに立ち上がって歩いてきてドアも開けたりする。

 知った顔が帰って来ているという顔をしたあと、手を合わせる。私がなにかを食べているのを見て、いただきます、ということだが、実際に腹が空いているわけではなくて、ただの脊髄反射。食事を見ると手を合わせる。パブロフの犬。

 そのあと、私のそばに来て、しばらくいっしょにいたりする。

 ときどき、手を叩いている。
 観客の拍手に同調しているようで、一ミリも試合は観ていない。拍手に拍手を重ねるのも、共感しているわけではなく、近ごろ大人になって拍手ができるようになったから、拍手の音に反応しているだけ。脊髄反射。パブロフの犬。

 私は日課で筋トレをしているが、腕立て伏せとか、シャドーボクシングなどを見ると、彼はケラケラと笑う。日常にない動きがおもしろいのだろうか。しかしだとしたら、プロレスなんてそんな動きのオンパレードだ。目を奪われてもいいのに。

 映画の濡れ場には見入る。おっぱいはおっぱいだとわかっているようで、だとしたら画面のなかのおっぱいが揉まれるのに目が釘付けなのだから、テレビのなかの人間を人間だと認識しているということのはずだ。それならば、人間が人間を持ちあげたり締めあげたりしているのに、興味がわかないのはなぜだろう。

 くだんの両国国技館大会は、彼が横にいたので、そんなことが気になった。

 なぜだろう。
 思いながら、別の日。

 また別の団体の試合をテレビで観ている私のとなりに、ふらっと真夜中、起きてしまった大人が座った。

 大日本プロレスだった。

 私の大好きな映画『レスラー』で描かれる、ハードコアとか、デスマッチとか呼ばれるたぐいの試合で、のし上がってきた団体である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

映画『レスラー』の話。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 その夜も、リングに敷いたコンクリートブロックに向かって人間が落ち、剣山が頭に刺さり、ガラスの破片で大流血だった。

「お」

 と、彼が言った。
 画面に目が釘付けだった。

 コンクリートブロックで、人間と人間が殴りあっていた。

 たぶん、彼が生まれて、私が見る、はじめての「ちゃんと試合に引き込まれている」顔だ。デスマッチか。教育上よろしくない気もするが、痛みを知るということは大事なことだ。

 そう思って、首をかしげた。

 私は、バイク乗りなので。転んで投げ出されてコンクリートに激突して骨折したこともある。仕事柄、電動工具が友だちだから、ささくれた金属やガラスなどで肌を切って流血することだって多い。いつだったか、睾丸を切って血だらけになったこともあった。わずかな切り傷でも、陰部周辺というのは血がまったく止まらない。さすが急所と呼ばれるだけのことはあると感心したものである。

 ともあれ、ケガは多い。
 そのぶん、デスマッチ形式のプロレスを観ていて、声をあげてしまう回数は多い。現実に三メートルのアルミ脚立に登らない日はない日常なので、そこから飛び降りたり、それで殴りあったりするレスラーたちの痛みは、我がことのように共感できる。

 共感性疼痛が、現実の痛みであることは研究者があきらかにしている。

 他人の痛みに共感して感じる痛みは、私の痛みなのだ。なので、痛み止めを飲むと効く。現実にカミソリボードに背中を切りつけられたわけではなく、出血もしていないのだけれど、現実の痛みを感じる神経を麻痺させてやると、共感性疼痛もやわらぐのである。

 信仰心によって浮き上がる聖痕も、それで説明がつく。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『ヴァーチャルリアリティ元年の夢精』の話。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 共感。

 だがしかし、私の知るかぎり、彼は切り傷を負ったことがない。歩き出したばかりなので、コケた打ち身やタンコブはそこらじゅうにあるが、私の知るかぎり、コンクリートブロックで殴打されたことはない。

 共感性疼痛?

 いや、そんな痛みを、こいつは知らない。大日本プロレスのデスマッチに「お」と声をあげたり、映画『レスラー』を観て、そういう生きかたを選んでしまう男の悲哀に「おお」と涙したりするほどには、大人になっているわけがない。

 だったら、なぜ、男色ディーノ先生の裸のケツの菊門に相手選手の鼻先がぶち込まれるのには興味がないのに、ネクロ・ブッチャーの額に数十本の焼き串が突き立てられて抜けなくなったのを見て、魅入るのだ。

 共感?

 試合そっちのけで、彼を見ていた。

 ん?

 ……痛そうじゃないな、きみ。
 鎮痛剤が必要な顔には見えない。
 笑んではいないにせよ、しかめっ面ではない。

 ただ、「お」と、口をまんまるにして。
 目も、まんまるにして。

 ああ……そうなのか。
 それ、デスマッチファイターの、表情か。

 痛みをこらえて「おおおおお」と声を出している。転がり回る選手たちの口も、まんまるだ。それを真似ている。共感ではなく。デスマッチファイターたちの表情と動作に、惹きつけられている。

 真似するものをさがしていて、真似すべき見たことのない表情を画面のなかに見つけたから、真似しようとしていた。

 有刺鉄線に投げつけられたら、むしろもっと背中を切って流血するように動き、口はまんまるに開けて「おおおおおお」と発声する。痛すぎると観客に伝わらないように。痛いけれど、これは仕事です好きでやっています、たのしんでくださいと伝わるように。

 ふと気づく。
 デスマッチファイターを褒めるのに、よくイッてしまっているといった意味の言葉が使われるが、みずからガラスボードに突っ込んで、ばらまいた画鋲の上にダイブして、額にステープル・ガンでメモを留めて。

「おお、これを見よ、おれを見よ」

 と誇る。
 これはまあ、ある種の適格な変態者ではなかろうか。パンツをかぶって「こほー」とポーズをとる、変態仮面に近いところがある。

B01HI8IYKO

「もう寝なさい」

 私は言った。
 私は観るが。
 こういうものは、顔をしかめることをおぼえた大人の観るものだ。血だらけのひとが誇らしく口をまんまるに開けて発声しているのを、ただ真似るというのは、どこか飛ばしてしまっていて、いびつだ。よろしくない。

 そういえば、オリンピックをほとんど観なかった。
 野球やサッカーといったものも観ない。
 ガチの競技という意味では、格闘技は観るものの、鼻が折れたり、足の骨が露出したりしながらそれでも殴りあう人間たちの姿は、デスマッチに近い。好きこのんでなにをやっているのかわからないひとたちの熱き戦いであり、それに目を爛々とさせて歓声をあげるコロセウスの狂人たちである。

 なにかこう、スポーツらしいスポーツを、真夜中にそっととなりに座る彼のためにテレビで流しておくべきなのかもしれないと考えつつ、血まみれ傷だらけの肉体に粗塩をぶちまけられている選手の姿を観て、顔をしかめつつ歓声をあげてグラスにビールを足す、私の顔を映す鏡をまず目の前に置いておくべきかもしれないとも思う。

 プロレスというものは、演技であり、ガチでもあるという、その部分。けれど演じているといっても血も傷も本物だという、その部分。年がら年中、バス移動でプライベートもなくて、それでもそこらの会社員よりも給料安いんだろうなという、そういった部分。整形で顔を崩したミッキー・ローク。それで酒を飲む私。

 まぎれもなく教科書だという確信があるが、まだ早いし、でもだったらいつだと思えば、物心ついては遅いような気もする。三つ子の魂百までと言うし。

 デスマッチファンのひとりとして、共感性疼痛を感じられないやつは、デスマッチを観てはいけないと思う。変な影響を受けて単純な暴力に魅せられるおそれがある。では共感性疼痛を感じられるようになるというのはどういうことか。それは現実の痛みなのである。

 つまり彼が本物の痛みを知ってから、ということだ。

 私が幼いころには、プロレスは地上波テレビの新日本と全日本しかなかった。けっこうスポーツライクなプロレスだった。二十一世紀になり、娯楽の選択肢もひろがり、茶の間でデスマッチ観戦できる環境では、なかなかに考えることが多い。

 それは与えるべきものなのだろうか。
 三メートルの脚立から、自発的に落ちるのを待つのがいいのか。
 ひたいにステープル・ガンを撃ち込んでやるわけにはいかないし。
 彼にはほどこさなかった割礼、というのは、そういった男に与える最初の痛みという意味もあるのかな農耕民族ではない彼らにとっては、などと歴史認識を改めたりもして。
 とりとめもない深夜である。

TRACKBACK http://yoshinogi.blog42.fc2.com/tb.php/650-68de1cba