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『eスポーツとしてのHalo』のこと。



 一人称視点でのネットワーク対戦型ビデオゲームに地形高低差の概念を取り入れたのは1996年の『Quake』だ。その初代『Quake』で、すでに導入されていた対戦形式のひとつがキャプチャー・ザ・フラッグ(Capture The Flag、略称: CTF)である。

Quake4

 もとは敵陣営の拠点に配置された旗を獲得すれば勝利するという軍事演習競技だが、そのルールを電脳空間に持ち込み成り立たせた『Quake』は、ビデオゲーム史上の結節点に位置する。

 それ以前と以後で、世界は変わった。

 とはいえ、『Quake』は、その後のシリーズの一部が家庭用ゲームコンソールXBOXに移植されているもののヒットしたとは言いがたく、伝説のゲームでありながら、パソコン専用という位置づけである。

 高低差ある仮想の競技場でのチーム戦。それを実現するには、マシンパワーが必要だ。ファミコンやスーパーファミコンやピピンアットマークでは動かない。そんな2001年、XBOXが発売される。

 同時に初代『Halo』も。

 日本セガ製のゲーム機ドリームキャストに技術協力していたマイクロソフトが、セガのゲーム機事業撤退と入れ替わって独自にゲーム機事業に参入する。パソコン界の巨人だ。もちろん、当初から当時最先端のパソコンゲーム『Quake』と同等の高低差あるゲームがネット上で動かせるだけのマシンパワーをXBOXには積んでいた。 だが、Windows版とMac版の『Halo』はネット対戦に対応していたものの、肝心のXBOX版では画面分割対戦にしか対応しないというファミコンの『マリオカート』並の対応だった。

 三年後に発売された『Halo2』ではXBOX版もネット対戦に対応したので、あれはハードよりもソフトの問題があったのだろう。やればできるがパソコン版に比べたらひどい出来なので、だったら先延ばししよう、という判断は、実にマイクロソフトらしい。結果として『Halo2』は待ち望まれて生まれたシリーズ史上最高のヒット作になる。

 こうして伝説は世界中の家庭のリビングへと主戦場を移すことになったのだが、その後の十年余りで、情勢に変化が見られるようになった。

 ビデオゲームのネット対戦をeスポーツと呼んでいた流れとは別の潮流が生まれ、むしろその流れこそが本流となっていったのである。

 昨年。
 西暦2015年の終わりに発売された『Star Warsバトルフロント』が最たる例だ。

StarWars

 映画『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』に合わせたタイミングでリリースされた、そのゲームが謳うのは「ついに行けるぞ、あの世界」。しかし、『Star Warsバトルフロント』というゲームには、いわゆるストーリーモードがない。箱庭での対戦モードしかないのだが、それがスターウォーズ世界史に出てきた、あまたの大戦という設定になっているのである。

 そんな『Star Warsバトルフロント』のマルチプレイルールにも、キャプチャー・ザ・フラッグは採用されている。が、奪いあうのは旗ではない。カーゴだ。言ってしまえばリュックサックで、その中身は戦略上の重要物質。つまり、手に入れれば戦況が有利になるそれを、敵部隊と奪いあうという設定になっている。

 そういう流れだ。旗ではなく宝石。旗ではなく盗品。旗ではなくドラゴンの卵。そういったものを奪いあう双方のチームに、背景が描かれる。宇宙人と地球人。正規軍と反乱軍。警察と犯罪者。ゾンビとまだゾンビ化していない人々。などなど……

 eスポーツではあるが、戦いの前提に物語が添えてある。某プロレス団体の表現を使うならば、エンターテインメントスポーツ、ということになろうか。

 『Star Warsバトルフロント』開発の偉いひとは、公式に「8歳の子どもが父親といっしょにソファーの上で遊ぶことができるが、ハードコアなファンが望んだ深さを持っていないかもしれない」とコメントしている。幅広いユーザーに届けるため、あえてその世界観とバランス調整を選んだのだとも。

 さて一方で、同じ2015年の暮れに発売された『Halo5:Guardians』は、あいもかわらずキャプチャー・ザ・フラッグはキャプチャー・ザ・フラッグで、旗を奪いあう。

 我々はなぜ、スポーツに熱狂するのか。

 総合格闘技も好きな私だが、そうでもない友人といっしょに観ていると、おや、と思うことがある。彼らの集中力が欠けるとき、決まって「どっちの選手もよく知らない」と言うのである。だがしかし、彼らはオリンピックを嬉々として観る。

 心拍と連動して周囲の状況を自動録画するウェアラブル機器が開発され、世界中のだれもが個人的に自動録画した人生の一場面をネット上にアップできる世界が訪れたら、フィクションとしてのドラマはそれでも制作されるだろうか。本物の恋愛や修羅場や変態行為がアップされまくられるのに、脚本と役者を使ったニセモノが必要だろうか。

 きっと必要だ。真剣勝負する見知らぬ選手の活躍にも興奮するが、よく見知ったプロレスラーの老いて動けないのだという芸にも目頭を熱くする。ドキュメンタリーにもフィクションにも熱狂できるのが人間なのだ。

 そういう意味で、よく知らない選手だから集中できない彼らは、真剣勝負のリングにプロレスを期待してしまったために混乱をきたしている。古代から連綿と続くコロセウスでのそれと同様、命がけで鍛え勝負に挑む半裸の男女が血を流して殴りあうのを、あくびをして観るだなんて、どうかしてしまっているとしか思えない。視点と思想がブレたゆえに、大きな損をしている。

 これは、競技側の問題でもある。
 誤解させたから、失望される。
 あいまいだと、損をする。

 総合格闘技とプロレスをひとつの大会で観せようとした団体は、ことごとく失敗するという現実の歴史がある。もとはプロレスであったはずなのに八百長だという指摘に言葉を濁した大相撲は、ガチな立ち技格闘技団体に転向せざるをえなくなった。

 中途半端は己の首を絞める。

 一時期、人類と異星人という設定も対戦環境に持ち込んでいた『Halo』シリーズは『Halo5:Guardians』におけるネット対戦で、完璧な原点回帰を敢行した。

 そこに物語はない。

 同じスパルタンが、赤と青に染められて戦う。
 明確なメッセージが、プレイヤーへと投げかけられている。

 前に書いたことがあるが、私はビデオゲームのビリヤードがとても好きだ。もっとさかのぼれば、ドットの棒と棒でドットの球を打ちあうビデオテーブルテニスがすごく好きだ。

 ガチで単純な対戦、鍛えあった者同士のぶつかりあいに心震えるタチである。

 『Halo5:Guardians』の原点回帰は、私にハマった。

 間違いなく、シリーズでもっとも、のめり込んでプレイしている。

 紹介しよう。

 これが『Halo5:Guardians』。
 マルチプレイ。
 キャプチャー・ザ・フラッグ。

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 青と赤。
 今回の私は、青い。

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 いちばん手前が私だ。
 平成仮面ライダーのデザインでは響鬼が好きだという嗜好が、ファッションに現れていると自分でも思う。マスクには目の意匠が存在しないほうがいい。
 さあはじめよう
 敵陣地の旗を取り、自陣へと運ぶ。

 速度を信奉している私は、単身、敵陣営へと走り込んで、さっそく旗を奪う。

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 護衛を引き連れて慎重に運ぶ選手もいれば、混戦から距離を置くことで、だれにも見つからず帰還する選手もいる。私のプレイスタイルは、圧倒的に後者だ。

 旗を自陣へ持ち帰る私。

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 見ての通り、得点できたのは、自陣営に現れた赤い敵をチームメイトが勇敢にも片付けておいてくれたおかげだった。

 もうひとつ注目していただきたい。旗を掲げた私が戻る自陣の拠点には、こちらチームの旗がある。これもルールだ。自陣に自分たちの旗がないときに、相手チームの旗を持ち帰っても、得点にはならない。

 そこで、旗を持って帰ったはいいものの、自陣にフラッグがない場合、物陰に隠れ、味方のみんなが旗を取り返してくれるのを待つしかなくなる。

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 祈るような思いだ。なにせ自分の身体と同じくらい大きな旗を掲げている。隠れても、敵に見つかることは多い。それでも、間隙を突いてキャプチャー・ザ・フラッグを極めたとき、チームは一体となり、頬を涙がつたう。

 ときには飛び交う銃弾のなかで倒れることもある。

Screenshothalo5w5.jpg

 キャプチャー・ザ・フラッグだけではなく、もちろん、もっと単純に戦って雌雄を決するルールもある。世界中の猛者のなかには、至近距離で撃っても撃っても倒せる気のしない超人的な選手もいて、そんなときの私の手段は、プラズマグレネードだ。相手にくっついて爆発する手榴弾で、くっつけることさえできれば一撃必殺だが、現実世界同様の物理法則のなかにある仮想闘技場で、走り回る超人的選手へ小さな手榴弾を命中させるのは、針の穴に糸を通すような正確さが求められる。ものを言うのは、勇気だったりする。相手を気迫で押して間合いを詰め、真正面から近づいて、投げる。

 くっついた!!

Screenshothalo5w7.jpg

 この試合では、私は赤い。色分けだけがなされ、ほかのなにも変わらない。物語は、ない。スポーツなのだから、感動はプレイのなかに充分にある。ちなみにこれらのスクリーンショットは、プレイ中に撮ったものではない(試合中は私目線なので、私は映り込まない)。試合後にシアターモードで振り返り観戦しながら撮影したものだ。XboxOneでは『Halo5: Guardians』をネット上に実況生中継することも個人的にできる。プレイして手に汗握るどころか感涙できるスポーツは、観てもよし。たのしみかたは自由だ。

Screenshothalo5w8.jpg

 今回の試合結果。
 全滅回数5対4で、我がレッドチームの敗北。
 ちょうど私のスキルレベルは21になった。まだまだペーペーだ。右端の徴発リワード1というのは、成績と経験によってもらえるアイテムパックを獲得しましたよ、ということ。スパルタンの外見を変更したり、エンブレムを変更したりする種類が増える。外見を変えたところで、性能には一切の変化がない。純粋な衣装の収集である。

 ちなみに、左下に見える私の現在使用中のエンブレムは、丸にユニコーン。手榴弾をやたら使う選手が獲得するエンブレムだ。つまり、これを着けているとプレイスタイルが透けて見えるため、試合前から嫌われることもあれば、頼もしく思われることもある。電脳空間でも見た目は中身の延長線上にあり、性能が変わらなくても、試合結果に影響することがあるのは当然だ。

 きわめて硬派である。
 むしろ時代の趨勢に逆行して、過剰な演出を排除し、性能差を作らず、プレイヤーの技術と経験と判断力だけが試合結果に反映される舞台が整えられた。
 誤解する余地はない。

 これが私の好きなHaloです。
 その世界観と物語を強く推しがちになってしまうが、実際のところ、キャンペーンモードの何百倍もの時間をHaloシリーズのマルチプレイに費やしてきた。世界中の名もなき選手と日々試合し続けるeスポーツとしてのHaloは、紹介すると単純きわまりないのでピンとこないかもしれないけれど。それこそが、スポーツとして完成されつつある、あかしでもある。

 ビリヤードは球を落としあうだけ。テニスは球を打ちあうだけ。格闘技は相手を動けなくしたら勝ち。

 ヘイローは、こう。
 深みは、自分のなかに積み重なる。
 昨年暮れに発売された『Halo5:Guardians』のマルチプレイは、世界累計で1000万時間を超えるプレイを記録している。椅子に座ったまま、日に10分ワンプレイだけでも可能なスポーツ。それでいて、対戦相手は世界であり、言葉の壁はない。今作は単純なシステムに回帰し、試合の速度も上がった結果、試合中は本当に静かだ。前作まででは多かった罵る連中を、まるで見かけなくなったので、選手層が洗練されてきたのかもしれない。

 試合後に、深く息を吐くひとが多い。
 思わず、微笑んでしまう。
 ああ、おれもだよ。
 全力出した。いい試合だった。
 心臓が、どくんどくんと叫んでる。

 自宅で、すぐはじめすぐ終えられるから、プレイ回数は増え、おのずと選手だれもが上達する。マッチメイクはレベル分けされるので、上達具合によって競いあえる相手との真剣勝負を繰り返す。なんであれ、繰り返して十年も過ぎれば、なにかが見えてくる。見えたなにかを、Haloアリーナで出遭ったそれぞれが、言葉にできないまま、噛みしめている。

 自分だけの宝モノだ。

 eスポーツの時代に生きていなければ、味わえなかった。
 満ち足りていると断言できる、刹那が、ここにある。

Halo5:Guardians

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※関連記事


『Halo 5: Guardiansの発売日』の話。



『Halo5: Guardiansの物語』の話



『Halo3ベータテストと仮想うつつ』の話。


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