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『猥談ラプンツェル』の話。




 しかし彼は性衝動に執着して
 すべての症状を性的に解釈する

tako

 映画『危険なメソッド』

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 年の瀬でございます。
 だからといって、なにがどうということもないので、なにを話そうかなあと思うのですが……
 ああ、、、、そういえば.
 前回、タコとイカのBL小説を書いてみた。

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『本当は切ないヨシノギ童話/タコ焼きとイカ焼き』の話。

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 あれ、シンプルな構成に過ぎて、語り足りないところがある。
 その話の続きを徒然てみて今年を終えましょう。

 タコというものは、浮世絵でも女体と絡むことが多く、ぬるぬるしているし吸いついて離れないし、本邦は島国ですし。身近なだけに、ごく自然とエロ素材としてあつかわれてきた。それって実は、なかなかに高度な文化だと思う。だって、本物のタコをエロ道具に使うなんて話は聞いたことがないから。生臭いし。それなのに浮世絵では人間とまぐわう。完全無欠のファンタジー。現代のエロマンガやゲームにおける触手モノも、魔物という設定だから外国産だと早合点しがちだが、いま英語で「HENTAI」と検索すれば日本のヲタ文化における直球ではないエロのことで、触手モノも、ばっちりそこにカテゴライズされている。つまり、現代の二次元美少女とまぐわうモンスター触手も、浮世絵のタコの足の延長なのだ。

 ということを考えながら、タコとイカのBLを書いていたというところが大事。なにがどう大事かといえば、歴史上、ファンタジー触手の王者タコ先生の御御足が、うねうね動く男根の異形な代替え品として人類を貫いたことは数多かれども……

 タコ受け。

 これ、貴重なはず。
 少なくとも私は読んだことがないし、そういう絵を見たこともない。ヨシノギ童話が初かもしれない。

 ……いえ。大事は大事。
 でも、もっと言っておかねばならないことがある。

 前回のあの話、完全オリジナルではないですよ、ということを、きちんと書いておかなくてはなという私の良心が叫びたがっているのです。盗作ではなくてですね。昔話なのですよ、という。灰かぶり姫はシンデレラ。グリム童話。物語の基本形の拝借。そして改変。

 ヨシノギ童話『タコ焼きとイカ焼き』の原型では、タコが小鳥で、イカは豚の腸詰め。ソーセージですね。そのふたりがいっしょに暮らしている。もうなんだかその時点でよくわからないのだけれど、サルカニ合戦だって馬糞や臼が擬人化されているくらいだから、昔話とはそういうことが許されるものなのです。

 小鳥の仕事は、スープを沸かすために燃やす小枝を集めてくること。ソーセージの仕事は、沸いたお湯のなかをくぐって、ダシを出すこと。毎日、自分を煮てスープを作っている。過酷。読んでいる私はそう思うが、小鳥はある日、気づいてしまう。

「おれ、一日中飛び回って枝集めてるのに、あいつは、一日、家でごろごろしていて、おれが沸かしたお湯で泳ぐだけやん」

 仕事、とりかえろや。
 と、言ってしまう。
 バカな小鳥。
 もちろん、その結果、小鳥は煮えて死んでしまう。

 他人の仕事はラクに見える。羨んではいけない。己の仕事に誇りを持て。などなど、いろいろに読めますが、実のところ、昔話というものは、その場その場で改変されていく生もので、グリム童話時点で小鳥と豚の腸詰めだったものが「本当は恐ろしいグリム童話」なんていう本もあるくらいで、オリジナルではどういう二人組で、どういう愚かな交換がなされ、どんな悲惨なことになるのか、想像したくもありません。

 グリム童話とは、グリムブラザーズが書いた童話ではなく、収集した昔話の総称。だがいっぽうで、グリム兄弟が、グリム童話の改変を重ねるたびに、性にまつわる要素を薄めていったのは有名な話。

 民俗学者としてあるまじきことであると研究者は言うが、逆にそれがあったからグリム童話は後世へと伝えられたという側面があり、我が師と仰ぐエンタメ小説屋のディーン・クーンツ先生が言うように、自分の作品を自分が生きているうちになんども書き直すのは、できる限り時代の空気に沿わせるという意味で有益なことだ、と。

 グリム兄弟は、空気を読んだ。
 収集したときに、あの酔っ払ったしわくちゃのじいさんは、ほとんど猥談として語っていたが、絶対にあのじいさんの脚色が強いに決まっていて、もしくはあのじいさんのじいさんとか、そのまた近所のじいさんとか。もとはきっと、ずっとやさしくてエロ要素のない話だったのに違いない。

 研究者としてはダメだが、昔話を、みなに愛されるかたちに整えようというくわだてを、悪と呼ぶべきではないだろう。昔話というのが、ほぼすべて脚色の集大成なのだから、その時代の先端で収集した研究者がまた改変をほどこすのだって、昔話の一部だと捉えることはできる。

 私は私ですべてを性的に解釈する方面の人種なので、小鳥とソーセージも、あえてソーセージって間違いなくもとはエロ描写満載だったはず、と信じるがゆえに、自分の書く改変版のタコとイカの話では、ちゃんとベッドインさせた。良い語り部ではないか。己の信念に従い、己の語り口で大胆に変えてしまってこそ昔話。歴史上、どれだけの泥酔したじいさんが、孫娘に卑猥な話をしたいがためにひどい改変を施したのか。しかしそれこそが、昔話。

 そんなグリム兄弟のエロティカルクリンネスの極みとされるのが、かの有名な『ラプンツェル』である。

 ディズニーの魔法によって、時代の空気に沿うよう改変を加えられたアニメーション映画版の登場により、ついには猥談のわの字もいの字も談の字もなくなってしまったバージョンを世界中のみなが認知し、もはや「本当はエロいグリム童話」などというテレビ企画でもあろうものなら、世界中の小さなプリンセスソフィアの親御さんたちが「ラプンツェルはそんな話じゃない!! 娘の大事な物語を汚すな!!」と担当プロデューサーの広いおでこを38口径の弾丸で撃ち抜く事態になりかねないほどに改変は極まってしまった。

tako

 本当はどうであったかなど、昔話には関係ないのである。
 それを気にしているのは研究者だけだ。
 あと、もとのラプンツェルたんがどんなにエロ可愛い少女だったのかを想像せずにはいられない、私のようなのとか。

 ラプンツェル。
 それは雑草の名前。

 和訳ではタイトルが『のぢしゃ』となっていて、ノヂシャ(野萵苣)というのがラプンツェルの和名だからだけれど、お話のなかで生まれた女の子に「のぢしゃ」という名前をつけましたというのはあまりにもなあと思ったのか、そこはラプンツェルと書いてある。だったらタイトルもそのままでいいじゃないか。だいたい、のぢしゃ、と書かれてぱっとその植物の映像が頭に浮かぶ日本人なんていないと思う。

 ホームセンター的には、コーンサラダと呼ばれる。

tako

 トウモロコシ畑に生えている雑草だ。別名ではラムレタス。子羊がむしゃむしゃ食べる雑草だ。要は雑草だ。

 しかしこれ、季節の野草として、小洒落たレストランなどで好んで使われる。育つと花が咲いてしまうので、若くて柔らかい葉のうちに摘んで急いで食べないとしおれてしまうというあたりが、もとは雑草だけれど、季節を感じさせるアイテムとして重宝されるようになったのだろう。

 で、『ラプンツェル』。のぢしゃ。コーンサラダ。食べると妊娠しやすいカラダになるという民間伝承がある(有効成分として、サプリメントでもおなじみ鉄分と葉酸がたっぷりなので、現実的な効果もあると見てよい)。

 ネットで調べると日本語のWikiでも『ラプンツェル』の物語は、

「妊娠した妻がノヂシャを食べたいと夫にせがみ」

 となっているのだが、ノヂシャが不妊に効くという民間伝承がもとにあるのだとしたら、その設定はおかしい。というか、私の手元にある角川書店版『完訳グリム童話』なる本では、

「長いこと子供に恵まれなかった妻が魔女の庭のノヂシャを欲しがる」

 という設定になっている。なんなのだろう。図書館で手元にない、ちくま版や岩波版を確認しようと常々思ってはいるのだが、ほかの調べ物に忙しくて忘れ続けている。だがもしもネット上でのコピペに次ぐコピペで、日本における『ラプンツェル』だけが世界と違うあらすじに改変されているのだとしたら、それも現代における昔話の改変パターンとして研究者さんは研究すべきだと進言しておきたい。

 私は私の手元にある本しか信じないので、Wikiの記述など信じず語ると。

「あのラプンツェルを食べないと死ぬるっ!!」

 と、わめく不妊に悩む妻に手を焼き、夫は、そこが悪い魔女の屋敷の庭だと知りつつも忍び入り、青々としたラプンツェルをひとつかみ盗んで帰り、妻に食べさせると、ますます妻は、わめく。

「めっちゃうまい!! もっと食わないと死ぬるっ!!」

 いやな予感がしつつも、妻にわめかれるくらいならどうにでもなれと、二度目の魔女の庭への侵入を試みた夫は、あっさり魔女に見つかる。

「不妊の妻? ほお。だったらラプンツェルをあげるよ。でもそれで子供が生まれたら、あたしがもらうよ。だってあたしのラプンツェルで、できた子なんだからね」

 夫は、魔女に殺されないで済むのと、妻がわめいているのはラプンツェル食いたいってだけなのだから、それも解決するのと、もはや妻に子供ができないことは確信していたし、というわけで、愚かにも条件を飲む。

 果たして、あっさり妻は妊娠し、生まれて「ラプンツェル」と名付けたその日に、娘は魔女に連れて行かれる。

 その後、塔に幽閉されて、通りがかった王子様と恋に落ち、ディズニーに映画化されるわけだが。

 もちのろん、ディズニー改変では、恋バナ重視である。というか前半は、ないに等しい。童話を寓話として解釈するならば、この物語の肝は「不妊治療薬を未来に生まれる子供を対価として手に入れようとする」愚かな人間の性根である。

 悪い魔女の屋敷の隣に住んでいて、わめきちらす妻だったとしても、そこで夫は「子供なんてボクはいらないキミだけがいればいいのさ隣の魔女もキモいけれど気にせずたのしく夫婦生活をおくろうじゃないか」と言うべきだった。それを、わめく妻を黙らすのに最悪の相手から盗みを働くなんていうのは愚の骨頂である、というあたりこそが説教の大筋。実際にこの昔話が発生した時点では、子宝を望むあまりに民間療法にのめり込み夫婦関係が壊れていく彼らへと、年長者が語った戒めの物語だったのかもしれない。

 そこが、ディズニー映画では、ラプンツェルが魔女に幽閉されてからがメインになっているため、教訓といえば「待っていれば王子様がやってきてなんとかなる」くらいのものだ。それが時代の風。ディズニーの改変魔法は容赦ない。

 そんな『ラプンツェル』。グリム兄弟が収集した最初の段階では、強力な不妊症改善薬によって生まれた不妊症改善薬草の名を持つ少女が、魔女の所有物となって高い塔に幽閉されたにもかかわらず、自慢の強靱な金髪で夜な夜な塔へと男を登らせ、性行為のとりこになっていた。やがて、不妊症改善薬草の名を持つ少女が妊娠し、魔女激怒。少女の髪を切って荒れ野に捨てる。そういう話。

 教訓はなにかといえば、閉じ込められたらおとなしくしていろということだ。たぶん。これも物語発生当時の時代背景を考えれば、わがままをわめく妻などすべての災厄の根源であり、等価交換でもらわれてきたのに働くどころか妊娠してしまう奴隷などもってのほかであろうから。

 そういう話だったのを、グリム兄弟は「王子様との恋が魔女にバレて」という設定に変えていった。グリム童話での『ラプンツェル』最終版は、収集されたものではなく「グリムが語る」という注釈添えである。本人たちも、原形とどめぬまでに改変してしまった自覚はあるのだ。グリムが書き加えた王子様がいなければ、ディズニー版『塔の上のラプンツェル』は誕生しなかったはず。それ以前に、道行く男どもを自身の髪の梯子で塔へと登らせヤリまくって子供ができて悪い魔女にさえ呆れて捨てられる雑草娘のままでは、角川書店に完訳されることさえなかったはず。そういう意味で、民俗学研究者としてはどうだかだが、グリム兄弟はグッジョブだった。

 教訓はなにか。

 思うようにやれ、ということ。
 著作権と肖像権に引っかからないかぎり、世界のすべてを自分色に改変してしまえばいい。かわいいタコの受けが切ない死を遂げる物語だって書きたければ書け。私は書く。そして来年も来る。染めるべきものは、まだまだ多く、時間は足りない。

 では、新しい年で……
 数年前に、元日に凍った路面でスリップしてバイクを転がしたことがあるし、先月は雨のなかで転がって肋骨折っているし、すぐ後ろでトラックが急ブレーキだし、私よりも若い体育教師だった近い親戚は風呂場で急逝したし、当たり前に正月を越えて来年も私が私として存在しているかどうかは楽観しない。だから、お逢いしましょうと言い切ることは控えて、お逢いできたらいいな、との記述にとどめます。当たり前に明日が来るわけではない。気をつけて、生き延びて、目を醒まして立ち上がらなくちゃならないんだ。
 しかし、過ぎたことは言い切れる。
 昔話は、口にすると心穏やかになる。
 むかしむかし、一年が暮れてちゃんと終わりました。
 今年も、おつきあいくださり、ありがとうございました。

 

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