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『ワン・デイ』の話。




 そんなわけで負傷欠場中の吉秒です。

 Haloアリーナで戦いたいが戦えないカラダのため、おとなしく映画など観ている秋の夜長のリリシズム。そういえば先週の『水曜日のダウンタウン』でスーパーササダンゴマシン先生が「近年のプロレス、表現の幅広がってる説」をプレゼンしたおかげで、当ブログも恩恵あずかり、ありがたいことで。ちなみにですが、うちにヒットしている検索語句の組みあわせでもっとも多いのは、

「飯伏幸太 自意識過剰」

 あと、

「飯伏幸太 局部モザイク」

 なんかでもけっこう上位に来る。うれしいやら恥ずかしいやら、私は褒めまくった文章を書いているのに、悪口みたいな語句の組みあわせで検索されるというインターネットの不思議の深遠さも感じつつ。

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『ラリアートとキス』の話。

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 そんな飯伏幸太選手も、現在欠場中(プロレスを)。
 頸椎椎間板ヘルニアで左半身がしびれて年内復帰もあるかないか未だ不明というような。それに比べれば、私の右半身の首から下の出っ張りほぼすべてにできた重度の擦り傷が、いままさに治りかけてカサブタになり、一日中かゆくて気が狂いそうなことくらいなんだという気になる。

 プロレスは勇気をくれる。
 そんなプロレスの表現の幅が広がっているとスーパーササダンゴマシン先生は語っておられたのですが、いえいえ、そんなのは歴史あるエンタメのすべてにおいて言えること。摂取してもらわないと勇気だって与えられない。けれど娯楽があふれるこの新世紀。だから笹団子のマスクをかぶったひとがテレビに出て強くて可愛い飯伏幸太が本屋さんで裸エプロンで本棚からムーンサルトプレスを極める映像を推してくる。

 小説だって。

 『ワン・デイ』は、イギリスを中心に英語圏でベストセラーを記録した恋愛小説である。しかし登場人物は、学園のスターたるイケメン男子と、ぱっとしないメガネっ娘が卒業式の日にベッドをともにして……というような、あらすじだけでは、どうにも売れそうもない内容。

 けれど、この小説、本屋でプロレスすれば客集まるんじゃない? キャンプ場ならどうよ? 工事現場では? というような新世紀の発想のもと、かなりひねってきた。

「そのふたりの、出逢ってからの二十年を、毎年の一日だけで描く」

 つまり、毎年、七月十五日のふたりを二十回、書く。
 だから『ワン・デイ』

 おもしろそうだと私も思った。
 邦訳されたので読んだ。
 傑作だった。
 こういうひねった技は、ちゃんと試合のできるひとがやってこそである。そういう意味で、デイヴィッド・ニコルズは、超絶技巧の使い手だ。

 めっちゃ売れたので、映画化されることになった。
 そこで問題が出る。
 ラブストーリーというのは、映画でやる場合、長いと客が入らない。デートで三時間の恋愛ものを選ぶ気になるか。きゅんきゅんしたい女性客だって、三時間もトイレに行けないなら、ビデオ化を待って家で裸で毛布にくるまって観ようかしらという気になってしまう。

 だが、この原作は、長い。
 そして、技術的に難度の高い微妙なバランスで成り立っている。端的な例をあげれば、我が師と仰ぐ小説界のカリスマ、ディーン・クーンツが「絶対にやっちゃダメ」と一貫して言い続けている、同じ章のなかで人物の視点がコロコロ変わる、というのをニコルズは使いまくっている。小説ではそれも技術で成り立っているのだが、映像化のさいには、困る。同じシーンのなかで、二人の人物のそれぞれの心のつぶやきを描く? 心の声を音声にしてかぶせるという手法は、ないではないが、たいていの場合、失敗する。コントのように見えてしまうからだ。

 脚本をどうする……
 そこで、一種の反則技。
 日本でも、そういうのがあった。

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『映画マルドゥック・スクランブルの完結を祝う』のこと。

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 妻の前歯を折ったと逮捕されたが即釈放された、あれはなんだったのかという件には触れずにおきたい冲方丁男爵の小説界での金字塔『マルドゥック・スクランブル』シリーズを、映像化するにさいし、なにを切って残せばいいものやら難しすぎるので、原作者本人に脚本をまかせたら、上手くいったよ、という。

 原作が売れに売れたという作品の場合、怖いのは映像化されたものを観て、原作のファンが失望し、宣伝どころかアンチに回るという図式。それを防ぐためには、原作者がそのシーンは削ったんだよ、と言えるのは大きい。

 だったら原作ありの作品はみんなそうしたらいいのにというところだけれど、もちろんそうはならない、しろうととくろうとのフェラチオは違う。餅は餅屋という話。小説書けるひとが、脚本書けるかどうかは、別問題。

 なのですが。
 『ワン・デイ』の場合。
 むしろそこが、カチッと、はまった。

 『マルドゥック・スクランブル』はアニメーション映画なので。原作者が原作に忠実に脚本化したものを、そのまま映像化できる。だが『ワン・デイ』の映像化は、実写だ。そしてその小説は、ひと組の男女の生涯を描いている。

 選ぶ、という以前に、無理な相談。

 原作『ワン・デイ』で、主人公の美男子デクスターは老いる。若き日の美貌は見る影もなくなり、禿げて太って七歳の娘に坂道で追いつけずに笑われるようになる。日本の大河ドラマならば、そこは平気で「髪白くして、しわくちゃの特殊メイクすれば」ありだろうとするところだが、これも二時間弱の恋愛映画を望む観客層には、映画館を出たあと「あのメイクはないよね」というかっこうのネガティブキャンペーンのネタを与えることになる。

 では、原作を改編する必要がある。
 そこで原作者の経歴を見てみると。

 ディヴィッド・ニコルズ。
 元舞台俳優だが俳優をやめて映画の裏方にたずさわり、そこからテレビドラマの脚本を書きはじめ、小説も書いてみたら売れた。

 テレビがわかっていて、元俳優である。
 そんなもの自分で書きなさいよ。

 かくして、映画『ワン・デイ 23年のラブストーリー』は、すばらしい恋愛映画に仕上がった。

oneday

 日本でもヒットしたし、Amazonの評価を見ても、好感触である。でも、だけれども、だからこそ。

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 それでも、やはり私の立ち位置として、原作ファンが作品の映像化にさいし、言っておかなければいけないひとことは、言っておきたい。

 アニメはダイジェスト版だ。
 駆け足だ。舌足らずだ。
 出来はいいが、時間の都合上カットされているシーンが出るのは、原作を知るものとしては耐えがたい心境もある。私的には、さらわれてきたジョンが、闇夜に飛び降りるパラシュート降下でビビり、仲間と殴りあいになって、怒りで恐怖を忘れるという感覚を知る、あのくだりは映像化してほしかった。

 つまりあれだ。
 原作読まないと、語れないことがあるってことさ。
 読めばいいのに。


 吉秒匠  『Halo: The Fall of Reach アニメーションシリーズ』の話。

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 そのゲームを欠場して、映画を観ながら『ワン・デイ』のことを思い出した。よくできた映画だけれど、原作者本人がくろうとすぎるために巧ますぎて、長くて切なくてたまらんあの原作小説の叙情が、確信犯的に改変されていることを。

 というわけで、映画『ワン・デイ 23年のラブストーリー』のWikiはあっても原作のはない、そういう国で「いやこれってそもそも小説がものすごかったから映画化された作品なんだよ映画観てよかったなら原作を読みなよ!」と、しゃにむに叫ぶ、そんな今日。

 だいたいねえ、物語のスタートが1988年だよ。その時分に、美貌の学園スターが落ちぶれて無軌道な二十代をすごすというのに、映画ではタバコの一本も出てこない。もちろん原作では、ベッドのなかでもくわえタバコだし、アルコールもドラッグもセックスもあふれかえっている。映画では清純派のヒロイン、エマのほうも、携帯電話を持つか持たないかでデクスターと賭けをした結果が映画ではばっさり削られているが、原作では、上司と不倫をするようになって携帯電話を手にして賭けに負けるのだ。

 重要な小物も、いくつか改変されている。最大の違いは、エマの乗る自転車が原作ではヘルメットをかぶって前傾姿勢で乗るガチのスポーツサイクルなのに、映画ではママチャリになっていること。不倫におぼれた原作では長い時間の事実もばっさり切ったところを見ても、ニコルズが「ダメ男デクスター×清純派エマ」の図式で原作を削って結晶化させようとしたことがわかる。
 しかし、エマの魅力は、毒舌にある。

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「あなただけじゃないわ。男の人は概してそう。みんな、自分の役を演じようとするのよ。ほんとにそうなの! ただ話をして聞いているだけの人がいたら、なにをあげてもいいと思うくらい!」


デヴィッド・ニコルズ 『ワン・デイ』

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 ヌーディストビーチで裸で泳いだデクスターの服が盗まれたとき、あのパンツはアルマーニだったと映画ではネタにされるが、原作ではヘルムート・ラングだ。そこに象徴されるように、ニコルズがヒロインの性格同様、映画では観客十人の十人全員が理解し共感できる方向性で脚本を書いたこともわかる。原作の重い部分を濃縮するのではなく、元俳優でテレビドラマライターらしく、原作つまみ食いの、軽い恋愛ものを目指した。

 原作がベストセラーになった英語圏では、それはサービスだろう。話の本筋に関係のない部分はことごとく切る。映画は映画としてすばらしい。原作ファンは、あのシーンの映像化があったと喜んで帰る。

 そういう雰囲気こそが、ニコルズにとっては重要だったはずだ。原作の大部分をばっさばっさと切りながら、しかし、これでシンプルな恋愛映画として客に受け入れられれば、映画から小説にさかのぼるファンだって出るはずだと。

 日本で、小説は読まず、映画だけ観たひとは、あの内容でなぜ原作は分厚い上下巻の二冊組みなんてものになるのだろうと思うかもしれない。だが、いまいちど思い出そう。そもそもその映画は、原作がベストセラーになったから作られたのである。

 デクスターの子育ての奮闘ぶりも、実にたのしくてボリュームあり、しかもデクスターの極めつけにダメな部分が満載なのに、がっつり削られた。

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 おむつ交換用のマットの上に体を置かれるやいなや、ジャスミンは目を覚まし、ふたたび泣きだす。きしるようなあの恐ろしい泣き方で。口で息をしながら、できるだけ手早く効率よくおむつを替える。新聞や雑誌で見かけた、子供を授かることに関する楽天的な論評の多くは、赤ん坊のうんちがいかに無害であるか、うんちもおしっこも汚いものではなく、慣れれば愉快とはいえなくても不快でなくなるとしていた。彼の姉などは”トーストに載せて食べられる”とまで言っていた。なるほど、無害でいいにおいがする、この”うんち”も。


デヴィッド・ニコルズ 『ワン・デイ』

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 まあ。確かに。
 この手の心の独白が延々と続くから原作は長大なのであって、これを二時間切る恋愛映画に入れる必要などないというのは賢明な判断だった。だが一方で、これこそが小説『ワン・デイ』のソウルだ。本来の作品のテイストからすれば、削っていいところではない。割り切って映画は映画の世界観で書いた、原作者ニコルズだって、そのあたりは小説でたのしんでもらえるはずだから、と信じて泣く泣く切ったはず。

 つまり、片方では、もったいない。
 映画がたのしめるならば、原作はもっとたのしめる。いや、もっとというのは語弊がある。同じ物語でありながら、別物なのだ。どちらも摂取して、補完しあい、はじめて完璧な『ワン・デイ』。

 生身の役者を使用する映像化では省かれた、小説終盤の一節。

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 三十八にもなって歌や本や映画が人生を変えるなんて期待するのは滑稽だ。あらゆる物事は今やバランスよく落ち着いて、安楽と満足と親密の通奏低音をBGMに人生が送られている。あんなふうに神経が休まる間もなく舞い上がったり落ちこんだりすることはもう二度とないだろう。


デヴィッド・ニコルズ 『ワン・デイ』

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 エマは、ジュブナイル作家として大成する。
 つまり小説を書く。
 子供向けの小説を書くヒロインを書くデヴィッド・ニコルズが書く映画化の脚本では削られた、三十八歳で老いさえ滲ませた、駆け抜けてきたふたりの長い長い独白の章こそ、映画を観たあとに読んでほしい。

 愛や、情熱や、憂鬱について、延々と語られる。それこそが映像化不可能な部分だ。小説という形式だからできる、個人的な胸の内の吐露。映画ではできない、彼女は、彼は、小説の登場人物だから顔は見えないけれど、鏡に映してみれば、もしかすると私なのかもという錯覚。いや、事実。

 反則的なまでに上手な小説のすごさが、堪能できます。
 ライトな恋愛映画の軽い原作ではない。
 川副智子さんの実に丁寧な翻訳も心地いい。
 未読ならば、ぜひ。

oneday



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