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『Halo: The Fall of Reach アニメーションシリーズ』の話。




 『Halo5: Guardians』の付録の話が続きます。

 『Halo: The Fall of Reach』アニメーションシリーズ。
 それは、Haloサーガのアニメ化第二弾。

 ちなみに第一弾は、ジャパニメーション風味。

 『Halo Legends』。

Halo5:Guardians

 その名の通り、日本アニメ界のレジェンドたちに依頼してみたら、Halo愛を深めすぎて、設定の矛盾などもおかまいなしに話を膨らませてしまったから、ガチHalo勢においては賛否両論あったりする一作。

 それだけHaloユニバースの大地を広げたという意味では、功績大きい作品となったのですが。

 今回のアニメ化は、がらっと作風が違う。

 原作本があります。

 エリック・ナイランド作。
 『ヘイロー(1) ザ・フォール・オブ・リーチ』。

Halo5:Guardians

 1、というくらいなのだから続きもあって、現在六巻まで。当たり前ですが、我が家の本棚にも六冊並んでいます。一冊で聖書よりも分厚いのに、それが六冊も。場所取るったらない。

(六冊は邦訳された数。原書は現在、十一冊目が出て、この年末十二作目刊行。その他、短編集やコミック本、オーディオブックなどもあって、本気で収集しはじめると専用の本棚が必要)

Halo5:Guardians

 これもHaloユニバースの拡張。
 ビデオゲーム界のスターウォーズだとか007シリーズだとか、自称するのでファンは少し恥ずかしいのですが、自称するだけあって、小説をデジタルコンテンツとしてゲーム内で読ませるみたいな、そういうことはしない。
 風格です。
 ノベライズとは、紙である。
 それも分厚ければ分厚いほど良く、何冊も並べられるくらい巻数もあったほうが良い。

 以前に、Haloをプレイしているとデイヴィッド・ウェーバーの『反逆者の月』シリーズを連想してしまうと書いたことがあった。

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『Haloだけの王道』の話。

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 正確には『Halo4』を。
 スターウォーズ同様、Haloサーガは三部作をワンセットとして構成されていく予定で、つまり『Halo4』は新三部作の序章という位置づけだった。

 物語は深まっていく。
 それも急速に。
 スピンオフタイトルがいくつも制作され、アニメが作られ、小説が書かれ、そのどれもが公式に世界観を広げていくので、ナンバリングタイトルは数年おきにしか出ないのに、いつのまにやら前作とはまるで違う視点で物語を見ているユーザーも現れる。

 『反逆者の月』と『Halo』には「宇宙艦隊を率いる超人ヒーローと、その相棒の突然変異的に有能なAI」という主役の設定が共通している。そして、ひとつの物語が終わり、同じ登場人物で、前作とは地続きの、しかし違った物語を紡ぎ出そうとするとき、そうせざるを得なかったところも共通している。

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 だがもし、この<雛殺し>どもがそうでないとしたら、もしやつらが同胞たちを見ても恐れの気持ちを抱かないのなら、やつらは実は<雛殺し>ではない可能性もあるのだろうか?

Halo5:Guardians

デイヴィッド・ウェーバー
『反逆者の月2―帝国の遺産―』

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 人類の捕虜となったエイリアンは、恐れる。やつらが<雛殺し>だから、問答無用で殺し続けてきたのに、捕虜にされてみれば人類は彼との対話を試み、問答無用に殺そうとはしない。やつらがもし<雛殺し>でなければ、<雛殺し>を殺すために生まれたはずの自分は何者なのか。

 スペースオペラである以上、敵が必要。
 そしてオペラの続編を同じ題材で書くとなれば、そういうことになってくる。

 すなわち。
 倒すべき敵であるはずのエイリアンを描く。

 これは諸刃だ。やむを得ないが危険だ。愛らしい敵キャラに感情移入させてしまえば、主人公であるはずのヒーローたちに懐疑的になる観客も現れる。それはもう確実に現れるのである。

 『Halo4』でAIコルタナは自我を崩壊させ、『Halo5: Guardians』では消えたコルタナを捜す旅に主人公マスターチーフは出る。大事なものを失って、捜す。ドラマチックだ。しかし、必然的に、前三部作『Halo』の人気の礎であった、マスターチーフとコルタナの掛け合いが皆無になるということでもある。

 そこで、さきほどのそういうことに『Halo』サーガも、なっていった。もとは派生作品だったノベライズの設定が、本筋に導入される。マスターチーフはコルタナを失った。しかし彼には実は、家族とも呼べる仲間がいた。ともに生まれ、ともに死んだ。多くの仲間が。

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 彼は失った四十二人が恋しかった。だが、彼と残りの三十二人にはさらなる訓練が待っている。彼らは手術から回復し、もう一度初めから自分たちの能力を証明しなくてはならないのだ。


エリック・ナイランド
『ヘイロー(1) ザ・フォール・オブ・リーチ』

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 強化手術で死ななかったものの戦うことができなくなった十二人は、永久に海軍情報部のほかの部署に配置換えされた。スパルタン・プログラムから「除かれた」と、のちのマスターチーフは思う。

 だが、肉体を損傷して永久に戦えずデスクワークの人生になることよりも、彼らの背負う哀しみに、彼ら自身が気づきもしていないことが、読者の心をかき乱す。

 彼らは、さらわれてきた。敵エイリアンとの戦争は激化して、ヒトクローンの兵士を悠長に育てている時間がないため、急速成長させた出来損ないクローンと、本物の人間を交換する。もちろん、さらってくるのに保護者の同意を得たりはしない。

 振り返ると、さっきまで笑ってはしゃいでいた娘が、永遠に虚空を見つめる肉の塊に変わっている。生きていて、娘本人であることはDNA鑑定をしても証明されるのだが、なにが起こったのかは、なにも証明できない。

 そうして集められた子供たちが洗脳され、超人になるための強化手術を受け「自分たちの能力を証明」する。大多数は、その過程で死ぬ。

 事実上、戦争の道具として「生まれた」彼らは、本当の親のことなど思い出さない。考えるのは敵のこと。

 ただ、失った仲間たちのことは恋しい。
 彼らにとっての家族は、死ぬものたちのことだ。
 人類のためにと口では言うが、彼らのだれもが、彼ら自身の死を無意味なものにしないための唯一の方策──生き延びて敵と戦い殲滅すること──を、まっとうするために戦っている。

 物語を深めるというのは、こういうことだ。

 敵を描く。知性があり、人類とは違うが情愛を持つ、彼らをゲーム内で数万匹殺してきたのだと、観客に知らせる。

 なんてこった。

 だがしかし。
 安心してください。
 主人公のマスターチーフは人類の一員ですが親の愛を知らず、さらわれてきて超人兵士に改造されたのです。

 『Halo5: Guardians』では、相棒コルタナが不在のため、マスターチーフは三人の仲間スパルタンと行動をともにする。観客は戸惑う。だってここまでずっとマスターチーフとコルタナに感情移入させられてきたのだ。チーフがコルタナを捜索する理由はわかる。

 愛しているから。
 ヒトと、AIであっても。

 しかし『Halo5: Guardians』において、突然に現れた、ほかの三人はなんなのか。彼らがみずからの命の危険もかえりみず、故障して行方不明になったコルタナを必死で捜す理由はどこにあるっていうんだい?

 それは、小説を読んでいる者には、愚問だ。

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 ジョンはリンダの遺体を大急ぎで冷凍チェンバーに運び、即座に凍結した。彼女は医学的に死んでいる。それは間違いないが、艦隊の病院に運ぶことができれば、彼らはリンダを蘇生できるかもしれない。確率は低いが、リンダはスパルタンだ。まったく可能性がないとは言えなかった。


エリック・ナイランド
『ヘイロー(1) ザ・フォール・オブ・リーチ』

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 『Halo5: Guardians』で、マスターチーフと行動をともにするスパルタンのひとりは、リンダだ。その名を見ただけで、小説の読者は、彼と彼女がいっしょに行動することに疑問などない。彼らはチームであり、なにか目的があれば、そこに向かってともに歩む。死んででも。

 今回、『Halo5: Guardians』ゲーム本編のなかで、「あの信号を最後に使ったのはいつだ」というセリフが出てくる。コルタナが、マスターチーフへ呼びかけるために、口笛の音色を使うのだ。その信号は、幼いスパルタンたちが大人に内緒で取り決めた、仲間内だけの信号。その音色を知るものは、家族だという証明。

 この信号の話は、私の記憶にあるかぎり、ゲーム『Halo』シリーズのなかには、いちども出てこない。つまり、ノベライズに触れていないユーザーには、意味不明なセリフになってしまう。

 それをあえて入れた。

 同様に、マスターチーフが兵士としてのナンバーである「117」として軍籍を置いているのに、軍から与えられたはずの相棒AIコルタナが、シリーズ当初からマスターチーフを「ジョン」と名前で呼んでいることにも触れられる。そのエピソードも、小説のなかにしかない。

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 コルタナは盗んだファイルを消去した。どちらでも、関係ない。マスターチーフがこれまでの年月、どんなひどい目に遭わされてきたにせよ……それはもう過去の出来事。いまはあたしがいる。これからは力のおよぶ限り──任務を危うくする恐れがない限り──あたしが彼を守る。 


エリック・ナイランド
『ヘイロー(1) ザ・フォール・オブ・リーチ』

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 ジョンはコルタナに選ばれた。そしてジョンにとって、仲間とは一心同体のものであり、仲間たちにとってのジョンもそうだ。

 彼ら、スパルタン兵は、被害者である。
 さらわれ、改造され、ただ戦うためのスーパーヒーロー。
 いや、兵器だ。

 兵器は、考えない。倒せと命じられた敵に、情愛を解する心のようなものがあったとしても。プレイヤーが腹を立てるならば、それはスパルタン兵に対してではなく、彼らを改造し、兵器として使う、権力者たちに対してであるべきだ。彼らをさらってきた、ハルゼイ博士に対してであるべきだ。

 この方法論により、今後のHaloサーガは矛盾なく進行することになった。ゲーム内で、ゲームでは語ってこなかった伏線が回収されるのも、その意志の表れであろう。ハルゼイ博士の描写は、いけ好かない片腕の老女そのもので、嫌えとアピールしすぎの感があるくらいになっている。

 そうして問題は、いかに小説の内容をゲームしかプレイしないユーザーへ届けるのか、というところへ収束される。

 おそらく、かなり真剣に『Halo5: Guardians』の冒頭の章で、子供時代のスパルタンたちの地獄の日々を「プレイ」させる選択肢について議論されたと推測する。しかし却下された。妥当だと思う。寄宿舎生活をする幼いマスターチーフに突然なれと言われても、多くのプレイヤーは違和感のほうが勝ってしまう。

 そこで、こうなった。

 エリック・ナイランド作の小説『ヘイロー(1) ザ・フォール・オブ・リーチ』を忠実にアニメーション化して、『Halo5: Guardians』に同梱する。

 小説は読まなくても、アニメが付録でついてきますとなれば、ゲーマーのほとんどが食指を伸ばす。それでも見ようとしない面倒くさがりのケツを蹴るために、ゲーム内で、あからさまにゲームだけやっていては「なにそれ」と疑問符の浮かぶ会話を繰り広げる。

 で、検索してみれば、私のようなブロガーが、したり顔で「それって小説のなかだけに出てくる設定だよ。同梱されていたアニメを観れば、おおよそは理解できるはずなんだけど」などと書く。

 拡張されるHaloユニバース。

 それでも、やはり私の立ち位置として、原作ファンが作品の映像化にさいし、言っておかなければいけないひとことは、言っておきたい。

 アニメはダイジェスト版だ。
 駆け足だ。舌足らずだ。
 出来はいいが、時間の都合上カットされているシーンが出るのは、原作を知るものとしては耐えがたい心境もある。私的には、さらわれてきたジョンが、闇夜に飛び降りるパラシュート降下でビビり、仲間と殴りあいになって、怒りで恐怖を忘れるという感覚を知る、あのくだりは映像化してほしかった。

 つまりあれだ。
 原作読まないと、語れないことがあるってことさ。
 読めばいいのに。

 小説ではその後、敵エイリアンの一人称で描かれる章なども出てくる。戦争を題材にしながら、敵味方双方の心を描き、それでも観客に感情移入させるというのはスペースオペラの神髄でもあるし、なにより、マスターチーフという改造人間の悲哀を際立たせることになる。

 心がないはずのスパルタン117が、自我を持った機械や、心を持った敵エイリアンと交わり、逆説的に個を際立たせていく。悲哀だが、観客は、声援を送る。そうだおまえには感じる心があるのだと。マスターチーフ自身を操作しながら、マスターチーフへ語りかけるようになる。

 爽快に敵を撃ち殺すだけのゲームではなくなった。
 物語は、戦いを描くうちに、観客への問いかけとなった。

 これをどう思う?

 『Halo5: Guardians』の続き、してきます。

 『Halo: The Fall of Reach』アニメーションシリーズを観るのは、先でも、あとでも、途中でもいい。ただし、観て。この物語の細部を共有しているという感覚、それこそがHaloユニバース。私たちは『Halo』について語ることができる。仲間であり、家族だ。



Halo5:Guardians

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