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『ブエノスアイレス』の話。



目的地は?

さあね できるだけ遠く

親が心配する

居場所を知らせてない

戻るんだろ?

戻る前にまだ色々と
考えたいことがあるんだ


映画『ブエノスアイレス』

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 男性同士の恋愛をモチーフにした映画について語るとき、それはそれとして私の原点は『ブエノスアイレス』なのかなあとか、そういうことをぶつぶつ話したことは幾度もあるのだけれども。

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『人々は恋に落ちる』の話。

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 しかし『ブエノスアイレス』の内容について、きちんと話してみたことがあったかといえば、我が聖典であるジョン・ウー監督の『男たちの挽歌』シリーズの主役チョウ・ユンファつながりで、「キッドがトニーを押し倒している映画」といったような視点でしか触れたことがなかった気がする。

 ちょうど、私がボーイズラブ小説を書きはじめたころウォン・カーウァイ監督の『ブエノスアイレス』は世界的なヒットを飛ばした。同監督の『恋する惑星』ともあいまって、けっこうマジメに「恋愛を描く」ことについて考えた記憶がある。

 しかし、そうしてみると、私がチョウ・ユンファという俳優の大ファンであることが、逆に思考の足枷になってしまった。

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『男たちの挽歌 A BETTER TOMORROW』(激しくバレ有り)の話。

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 シリーズで私イチ推し『男たちの挽歌 II』の哀しすぎる弟キッドを演じるレスリー・チャンが奔放な男を演じ、本当はシリーズの一作ではないのに『挽歌』の名を冠す傑作『ハードボイルド 新・男たちの挽歌』でユンファの相棒を演じるトニー・レオンが振り回される側。

 おおげさでなくビデオテープが伸びきるまでくり返し観た映画たちで、ふたりともが主要な役どころ。『ブエノスアイレス』を観ていても、チョウ・ユンファ様の存在が勝手に私の脳内で補完されてしまうのは避けようもなく、くだらないケンカで別れてしまう男カップルを観ていると同時に、ふたりともやめなよユンファ兄貴にどやされるぜ、などと思っている自分がいて。

 『ブエノスアイレス』は、しばらく観ることがなかった。

 そうしているうちに二十一世紀。
 チョウ・ユンファはハリウッド進出して、当初こそガンアクションを演じたが、その後は王様になったり海賊になったりして、ショット・ガンを握ることはなくなった。

replacement killer

 現実のレスリー・チャンはリアルにゲイなのかバイなのかという発言をくり返してアジアの腐女子層を刺激しまくったあげくに、ビルから飛び降りて逝った。

 トニー・レオンは、いまやアンドリュー・ラウ監督の『インファナル・アフェア』を代表作に、世界に影響を与える大俳優となった。

InfernalAffairs

 そうして、2014年。
 『ブエノスアイレス』のブルーレイ版が発売された。
(権利が切れる前に出しておけ、といった理由らしく唐突に)
 
 あの赤。
 あの青。
 あのモノクローム。

 ひとめ見てウォン・カーウァイ作品だと判別できる、独特な色彩の画面。特に『ブエノスアイレス』では、意図的に全編を通して色味が操作されている。ああ、あれ、ひさしぶりに観たいな。

 観た。
 記憶が正しければ、十年以上ぶりに。

 私の記憶のなかでは、中盤に位置していた、ふたりの男性のセックスシーン(ローションもコンドームも使わず、自分の唾液で潤滑させる描写が、エイズウイルスに怯える世紀末、なにかと物議をかもした)が、冒頭だった。新編集版? いや違う。私の記憶が間違っているのである。

 はっきりとした性描写があるのは、その冒頭のシーンと、行きずりの男に映画館でフェラチオされる場面くらいで、なんだかずっと裸でベッドにいたような気がしていた私は、十年以上も前、本当にこの作品を観たのかと疑念さえわく。

 色のない世界に、ぽつりぽつりと赤い色が見えはじめ、やがて色彩を取りもどして抜けるような青空の下でウィンはファイのうなじを濡らしてキスをする。そうしていつかたどりついた、ふたりで見ようと約束したイグアスの滝。けれど滝は青くなく、色のある世界なのに、灰色に見える。

 ああこうだった、と思わなかった。
 初めて観る映画のようだった。
 なにより、二十代の自分自身が「恋愛を描くのにゲイという関係性を利用する」手技手法にばかり頭が行っている状態でこの映画を観て、そうした局地的なテクニックばかりを記憶した独自編集版のどぎつい『ブエノスアイレス』を二次創作していたことに気付かされた。

 本来の『ブエノスアイレス』が描いていたのは、違うことだ。知らないあいだに、一本の映画がまるで別ものに感じられてしまうほど「私が」変わっていた。
 わかるようになったというべきだろうか。

 この映画に出てくる男たちは、だれもが目的を持っていない。本当に香港人たちは、こうなのだろうか。きっとそうなのだろう。

 思えば、リアルに我が家の近所にある中華料理屋。

 その中華料理屋で働く、日本語を話さない若い彼らは、私の帰宅する深夜に近い時間、いつもファミリーマートの裏の通りに座り込んでいる。駐車場ではなく、店内でもなく、コンビニの敷地に入らないように気をつかいながら、コンビニの無料Wi-Fiにつないだ端末をいじっている。

 中華料理屋のホームページは私も見たことがあるので、あの店にネット回線が来ていないわけはない。だがきっと、店主が彼らに使わせないのだろう。彼らは書きためたメールを送るといった用途ではなく、そこでなにかを書いているし、検索している。公衆無線LANの低速さにイラつくこともなく、日常のこととしてそれをしている。チャットの相手は、きっと故郷のだれかだろう。

 『ブエノスアイレス』のタイトルにもなっているブエノスアイレスは、アルゼンチンの首都だ。香港からだと、地球の裏側にあたる。それなのに、その土地で、彼らは出逢う。よくある三角関係になってモメる原因となる相手にファイが出逢うのは、中華料理屋だ。

 目的もなく地球の裏側にまで行き、旅費が尽きて、現地で仕事をさがす。そこで暮らすためではなく、さらに遠くへ行くため。そして香港に帰るため。彼らは香港で孤独だったわけではなく、なにかを考えたりするために旅に出るのだが、そこでやっぱり香港人とよくある痴話喧嘩をしたり、病気になったりする。

 なにがしたいのか。
 生まれた土地にいればいいのに。
 仕事がない?
 地球の裏側で、旅費を稼ぐためのアルバイトを見つけて、また稼いだ全財産を使って地球の裏側に帰るスーツケースひとつの荷物もない旅をするくらいならば、近所のコンビニで働いて、引っ越す予定のない部屋の本棚に趣味のフィギュアでも並べる生活のほうが、ずっと豊かではなかろうか。

 アルゼンチンで、ファイの部屋に転がり込んだウィンは、ベッドで独り寝させられる。ファイはソファーで寝る。私の記憶とは違って、彼らはセックスレスだ。しかしまあ、地球の裏側なのだ。自分たちの言葉で話せる(話もろくにしないのだが)、同じ平たい顔族のそばにいたいという気持ちはわからなくはない。

 『ブエノスアイレス』は、恋愛映画だ。
 私の間違った記憶のなかでも、現実にも。

 だが彼らは、キスするよりも罵りあっているほうが多い。
 いや言い間違えた。
 キスシーンさえも、ほとんどない。

 だがしかし、だがしかし。
 まあそうかもな、と、ひさしぶりに観た、初めて観たような映画に想う。

 それが恋愛だ。
 現代の若者が面倒くさがるとうわさの恋愛である。
 つきあっているのにアナルにペニスを入れさせてくれと言いよっても邪険にされて、そのくせタバコを近所のコンビニに買いに行っただけなのになぜ出かけるのだとキレられる。しかたがないからハッテンバの映画館でガイジンにしゃぶってもらう。なぜにそんな面倒くさいことを好んでしているかといえば、ひとりだと泣きたくなるからだ。

 理由はそれだけ。

 ふたりでいたいわけではない。
 ひとりでいたくない。

 地球の裏側で。
 男同士で。
 そういった手法を使って強調してはあるけれど、香港でも日本でも、世界中の至るところで数億年くり返されている、恋愛というものの、それがすべてなのかもしれないと考える。

 寂しくないならば、しなくていい。
 寂しいならば、じゃあいまなにがしたいのかと問われれば、だれかに邪険にされたりしてもいいから、絡みたい。肉体的に? ううん、むしろ心を絡ませて、つまるところ、面倒くさいことがしたい。

 痴漢って、そう。
 アナルにペニスを入れるわけでもなく、しゃぶってもらえるわけでもなく、ぺろんと尻を触ったくらいで、なにが気持ちいいわけもない。しかし電車内の痴漢は絶えない。職場でのセクハラは絶えない。彼らが社会的地位を捨て去ることになりかねないリスクを抱えながらも我慢できずにやってしまうのは、面倒くさいところに我が身を置きたいという欲求にほかならない。

 旅をしないでも生きられるのに旅をする。

 そのことと、

 恋をしなくても生きられるのに恋をする。

 ことは、同じ。
 私は旅が好きではない。
 恋愛も面倒くさい。
 けれど、ひとりはいやだ。
 だから欲する。

 目的地だったはずの荘厳な滝の飛沫を浴びて、男は泣きも笑いもしない。それはただの水だ。いくら大きな滝でも、地球が宇宙に浮かんで回っているのだということを知識として知っている現代人にとって、あらためて自然の偉大さに感動する感性はない。

 彼と見に来ることに意味があった。
 意味を持たせた、それが恋であり、愛だ。

 たどりつかなくてもよかった。
 どうせ帰ると知っていた。

 レスリー・チャンは、リアルに自分を殺した。
 アジアでいちばん美しい俳優だと言われ、望むなら男も女も、手を出す必要さえもなく手に入れられる男が、最終的に選んだのは窓が開かないので階段を登り、屋上から飛び降りることだった。

 どうやっても、ひとりだったのだろう。
 面倒くさくならなかったのだろう。
 どこまで行っても単純なままでは、生きる意味はない。
 恋や愛以外のものにそれを求める者もいる。
 上手くいくかどうかは、運もある。

 ただ、面倒くさくなることが目的地であるのならば、みずから動くことで、それを得られる確率は、五分五分以上に上がる。目的地の滝がなければ、恋が成就しても、それに破れても、なにも得られない。目指す風景があれば、成否の確率とは別問題として、人生に面倒くささが生まれ、生きる意味が生まれる可能性はぐんと高くなる。

 毎日、忙しい。
 生きるのは面倒くさい。
 けれど、そうでないとしたら、虫と同じ。
 夏虫に鬱陶しいと殺虫剤をかけるだれかは、自分自身を虫以上の何者かだと認められなければ、自分自身にだって致死毒を盛れる。

 ケツを撫でたいんじゃない。
 オレの生きる意味を生む秘術。
 だから触れずにいられない。

 職場で尊敬される上司になるのは面倒くさいし、自転車で山道を登れるようになるのは面倒くさいし、テレビゲームをクリアするのは面倒くさいし、痩せるのは面倒くさいし、売れない作品に心血注ぐのは心底面倒くさいし、夏が終わったら冬が来てオートバイ乗りは年中面倒くさいし、今夜の晩ごはんをちょっと凝った手作り料理にするのはすごく面倒くさいし、ハードディスクに溜まっていくどう計算してもすべてを観ることは不可能なアニメ番組をそれでも観るのは面倒くさいし、ただでさえ人間関係に辟易しているのに自分の家に他人や赤ん坊がいたりするのは面倒くさいにもほどがある。

 だから、そういうものを欲する。

 地球の裏側まで行って、恋愛してケンカするのは超絶に面倒くさいことである。もしかしたら、想像しうるなかでもトップクラスの面倒くささだ。

 それに比べれば、近所のコンビニでバイトして棚に並べたフィギュアのミニスカートのなかを覗いて痴漢した気になってするオナニーの、なんとお手軽なことか。退屈といってもいい。変態行為とはそういうもので、知らなければ満足できるものが、上のランクを知れば物足りなくなるのである。

 と、いうことを思うと。
 恋愛や結婚や出産は面倒くさいと考える若者が増えているというアンケート結果が、という今朝の新聞記事の見出しは間違っている。現代日本の夫婦において半数はセックスレスでありパートナーとの性行為を面倒くさがっている、という週刊誌の記事の見出しも訂正すべきだ。

 そういうものは、もうあまり面倒くさくもなくなってしまったのである。人間関係を面倒くさがって、引きこもってオンラインゲームに没頭する彼、という描写はありがちだが、現実世界と距離を置いて、部屋に閉じこもってオンラインゲームをすることの面倒くささたるや、私もゲーマーだからわかる。そっちのほうがずっと面倒くさい。だから魅力的なのだ。

 たとえば開きなおった日本が、列島の半分を原子力発電所にして外国に電気を売りさばいた結果、あらゆる国民が働く必要がなくなり、生まれてから死ぬまで潤沢な年金で生活できるようになったとする。そうするとおそらく、わざわざその日本を出て、ブエノスアイレス辺りでゲイになって不幸な恋愛をする若者が急増するはずだ。その図式は、ひとむかしまえの、夜汽車で上京するフォークシンガーに近い。死ぬまで平和に食っていける農村から、泥水すする都会へ、好んで向かう。

 現代の医学をもってすれば、太ももに人工の膣を作るのは簡単だ。しかし、その施術はなぜ流行しないのか。トランスジェンダーたちは、性の壁を越えるのに、どうしてヒトにとどまって、逆の性のさらにその先で十六本のペニスを生やしたりはしないのか。

 いま、『ブエノスアイレス』を観て。
 レスリー・チャンが四十六歳で、飛び降りて人生を終わらせるというごく簡単な道を選んだのは、どうやっても面倒くさくならなかったからだろうと予感するとき、彼が、どうやら男性も女性も愛せたらしいということを意識せずにいられない。美しき映画スターで、中年と呼ばれる年齢に差しかかっても萌えるカリスマだったことがそういう結果を呼んだのだとしか連想できない。

 ものすごく不謹慎な感想だけれど、その地位と、財力と、カリスマ性を使って、彼はどうして死なずに済むような面倒くさいことを自ら創造する道を選ばなかったのかと、残念に思ってしまう。彼なら女にもなれるし、マッチョにも、禅僧にも、この地上で初めての性のない人類などというような天使めいた存在にだってなれたのに。きっと冷静な判断力をなくしていたのだろう。耽溺してしまった変態は、先へ進むことを忘れてしまう。死ぬまで単純な自慰行為にふける猿と変わらなくなってしまっては、道はさがせない。

 私は旅が嫌いだ。
 それはたぶん、ふだんから考えていることと、旅先で考えることが、そう違わないという自覚があるからだ。だから、バックパックひとつで、片道切符の代金しか持たずにブエノスアイレスへ向かう香港人の気持ちはまるでわからない。そんなのは、退屈なだけだろう。旅先で出逢った男三人でさえごちゃごちゃやるほどに恋愛の面倒くささにハマっているのなら、故郷の夜の街で風を切って歩いたほうが、相手はよりどりみどりだ。

 けっきょく、この映画を観て残るのは、世界は広くていろんな景色があるものの、セックスは内蔵をいじくりあって面倒くさくなるだけの行為だということである。途中で、登場人物たちもそれに飽きてしまう。前世紀のゲイたちがエイズウィルスに怯えながらも退屈してしまう程度のものでは、新世紀のエデンに生きる我々が退屈しても当然なのかもしれない。

 リアルに人生に退屈してダイブしてしまった男が画面にいるので、映画の意味そのものが変容してしまった部分は避けられない。まぎれもない名作で、一級品の恋愛映画で、二十世紀と二十一世紀をまたいでなお色褪せない独自のカラーを持った作品だけれど、そこに映されているレスリー・チャンが、脚本的にも現実とリンクしてしまい、プロレスの試合で重傷者が出てしまったときのような雰囲気である。

 だからこそ、稀有な映画だ。
 すべてが虚構ではない。
 それゆえに、恋愛しない国になりつつあるいまのこの国で観ると、恋愛の面倒くささが極まっていて、こんな恋愛映画を観たらいよいよだれもだれかと乳繰りあいたい願望なんてなくしてしまうのではないかと危惧するが、そう考えて、逆説的な希望に気付くのだった。

 知ることで変態は深化する。恋愛も結婚も出産もゲイもバイもあんまり面倒くさくないから、仕事や趣味にどっぷり浸かって老いて逝きたいの、なんていうある種の変態が増えているというこの国だから、いまこそ、こういう不毛極まりない……けれどあこがれるに足る美しさを有する……世紀末ゲイの恋愛映画が、ピンとくる変態たちも多いはず。

 奇跡のようにブルーレイ化された本作。テーマのせいもあってか、テレビ放映なども、私はほとんど見た記憶がない。十数年前には世界中で大ヒットしたが、観たことのないひとも多いのでは? 観てください、ぜひ。あきらかにこの作品で人生を変えたあげくに天使になりそこねた男が映っている。

 彼を観るだけでも、旅に出ず自宅で考え込むことはいくらでもある。

happy together

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