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『素敵なウディ』のこと。

 でも、ぼくはこういう映画を作ったんだし、哀しい結末で終わらないんだったら撮らなかった。


 ウディ・アレン

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annie hall

 夜中にウディ・アレンが自分の映画人生を語るとかいう番組をやっていて、それが一時間半の番組だったんだけれど、もうなんだか集中して見ちゃってあっという間に時間がたっちゃったりしたのでした。その番組は椅子に座ったウディ・アレンが延々と語るのに、歴代の作品のワンシーンが挿入されるという構成で、実際のところ挿入されるのは有名どころの有名なシーンばかりなので、彼の話のなかに作品名が出るたびに作品を引用して「いまウディはこういう作品について話しているんだよ」という説明は蛇足だったのですが、まあその部分を省いても一時間以上の番組。

 でね。ふと思ったんですよね。

 一時間以上のひとり語りで、私を飽きさせない彼。
 彼の映画は、だいたい同じくらいの上映時間。
 たぶん、うなずいたり、いやそれはどうよと首を振ったり、やりすぎだよアレンとつっこんだりする回数は、彼自身の話をただ淡々と聞いているときのほうが多かったりするんです。
 だとしたら彼は別に映画を撮らなくても、彼の考えを私に伝え、私を感銘させたり笑わせたり哀しくさせたりできるのです。
 だとしたら彼の作品というのはなんのためにあるんだろう。

 隣の席のコが、ウサギの絵を描いているのを見てぼくは絶望するんだ、とウディが言う。
 絵が上手なコは、生まれたときからある程度に絵が上手で、そんなコから見たら「描けない」ということがどういうことかもわからない。

 世の中には人生を楽しむすべを知らない人が確かにいるし、異性は別のイキモノであって、彼や彼女に好きだと言ったり言われたり触れたり触れられたりすることが、とんでもない大問題に思える人というのが確かにいて、そういう人の気持ちは生まれつき人生を楽しむことを知っていて、異性を自然に口説いて抱きしめられる人たちから見れば、なにを深く考えているのかがまず理解できない。

 ぼくは生まれつきちょっとしたジョークを考えるのが得意なんだ。
 ──ウディ・アレン、かく語りき。
 だからジョークを考えることは自然なことで苦にはならない。

 くだらないジョークで満載の作品が、初期のウディ・アレン作品だ。
 その後、彼はジョーク以外のキャラクターの個性と登場人物の関係性で観客を飽きさせないことに挑戦しはじめ、その転換点となった『アニーホール』でアカデミー賞を受賞する。

 でも、おそらくいまでもだけど『アニーホール』はもっとも興行的に成功しなかったアカデミー受賞作だ。
 そういって彼は笑う。
 世界中にウディ・アレンの作品の愛好者はいるが、それは永遠にゼロにはならないかわりに、大ヒット映画を生み出す多数派にもならない。

 天気の悪い日に、家のなかで親戚が集まって暗くなる映画に魅入っているほうも魅入っているほうだが、作るほうも作るほうだと思うし、それが世界中にきちんと発信されている世界もどうかと思うんだけれど、ウディ・アレンが活躍できない世界よりはずっといい。

 背が低くて痩せていて分厚いレンズの眼鏡をかけてハゲかけていて、椅子に座るといつも躯の中心線が歪んでいるし、ぼくはジョークを考えるのが苦にならないとか言いながらそのジョークはいまいち笑えなかったりするし、家ではランニング姿で野球を見るのが趣味。
 でも世界中にフリークが存在する、恋愛映画でアカデミー賞とった巨匠。
 髪の毛が真っ白になっちゃったいまでもすなおに笑うことを知らず、笑うときには必ず視線をそらして自虐的に息を吐く。

 でも、だからこそウディ・アレンはすてき。
 私が小説を書く部屋の壁のいつでも見える場所に、彼のブロマイドが飾ってある。
 頬づえをついて、やっぱり背骨が曲がっていて、こっちを見つめる巨匠。

「なにやってんだいキミ」

 と暗に非難するような視線を投げかける写真。
 膨大な時間を作品のために使う。
 人生を楽しむってそういうこと?
 外は晴れているよ。

 でも、あんただってそうだったじゃないか。
 結果的に死ぬまで映画監督であり俳優だった(であろう)ウディ・アレンが、世界中に作品を発信し続けられる位置にいたのはとんでもなく幸運なことだと思うが、そうでなかったとしたらウディ・アレンは別のなにかに変質していたかというと、別にそんなことはなくてウディ・アレンだったんだろう。

 神はいない。
 あなたが罪を起こしたとしても、別に天から神が降りてきてあなたを罰するわけじゃない。
 映画のように、罪を犯した人が何年たっても夜な夜なうなされることもない。
 何年たってもうなされるような人は罪を犯さないから。

 作家は来世を信じている。
 自分の分身である作品が世に残ることを信じるのは、作家にとってのカトリック信仰である。
 ぼくは信じていないけれどね。
 と言いながら彼の作品にはそういう作家がよく出てくる。
 ここに変わらぬ自分がいて、それが決して変わらぬものなら、なぜなにかを作って表現するなどという行為が必要なんだろう。

 セックスと死だけは信じられる。

 どの作品だったか忘れたが、ウディ作品の名言だ。
 自分の肉体が感じる快楽と、絶対に来る死を否定できる人はいない。
 ということはだれにも完全無欠に信じられるものがあるということだ。
 なのに人はなにかを信仰しようとする。
 死は確実なものなのに、来世や輪廻を説く。
 目の前の確実なものから目をそらすために、実在しない神を創作する。
 流転する世界を創造する。

 世界は終わるものだ。
 人はもっとちっぽけに消え去る肉のかたまりだ。
 いま快楽におぼれずに苦しんでなにかを掴もうとするのはなぜ?

 ウディ・アレンの肖像を睨み返す。
 そして自嘲気味に笑おう。

 生まれながらに持っていた苦もなく生み出せるジョークで満載の映画をあなたが捨てたのはなぜ?
 せつない男と女の話を描きたいと思ったのはなぜ?

 それは見つけてしまったからだ。
 映画という作品と観客の関係性のなかに、潜むものを。
 見つけてしまったから、彼はジョークの量を減らしてそっちを拡大した作品を作ってみずにはいられなかった。
 冒頭引用は『カイロの紫のバラ』の公開当時に「これがハッピーエンドなら大ヒットになったのに」と言われたことを想い出してウディが呟いた言葉──もう二十年も前のことを想い出してなんだから、ああそうだねそうすればもっと売れたかもしれない、と言ってもよさそうなものだが言わないのがウディ・アレン。かたくなです。

 結局ね。
 一時間以上語るウディ・アレンを見ていて、感じたのはそれ。
 観客に受けるということは、最大公約数を見つけること。
 そこを越えて、自分だけの真実なんか見つけてもだれも喜ばないので映画にならない。
 そこにたどり着かなければもっと作品として成り立たない。
 ファインアートや文学とは別に、観客の動員数ということを考えたとき、作品制作はスポーツに近くなる。
 もっと的の中心へ、的確に正確に。
 そしてそのスポーツは的が人間なので、非常に奥深い。
 そもそも的自体が曖昧模糊として変動するので、中心に当たっても当たったことがわからない。
 当たるはずのない弾が当たりもする。
 だったらあきらかにはずれでない弾は撃ちだしてしまうべきなんだ。
 次の作品を発表できなくなるほどでなければ、好きにやったほうが得策。

 結局ね。
 どうやって的に当てたんですか、と訊かれたら。
 彼のようにするしかないんだと思った。
 
 必ず視線をそらして自虐的に息を吐きながら、笑う。
 ウディ・アレンは、すてきな人。
 大好きです。

ウディ・アレン


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