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『書かないひと』のこと。


SwanLakeA

真冬に手がかじかんで、
クラッチ操作できなくなる限界点。
真夏にアスファルトからの熱反射で、
目まいを起こす寸前。
自宅から、ちょうどそれくらいの距離に湖がある。
どうも筆がのらない。
ひとっ走りしてくるか。
そういう短距離ツーリングの私的定番目的地。
私は単焦点のカメラでこういう写真を撮るけれど、
湖のまわりには超望遠の一眼をかまえて、
鳥たちが羽ばたく瞬間をアップで狙う写真家が大勢。
望遠機能さえない小さなカメラで撮っていると恥ずかしい。
湖の周囲は遊歩道と公園。
ところで、一方的に私が敬愛している物書きのかたが、
ご自身のブログでよく猫の写真をアップされている。
この湖のまわりで撮っているらしい。
そのひととは、なんだか妙な関係性。
物書きとは関係のない私の上司の友人で、
その上司は私が物書くものだと知っているから、
友人の話として、

「むかし大きな賞を獲ったがいまは書くのをやめていてさ。
小説賞の下読みなんかもやったりしていて、
書くことから離れられないがゆえに苦悩してんだよな。
その点、ヨシノギくんは割り切って金のために働いて偉い」

と嫌味まじりに飲みながら言われたりして。
あちらにもなんだか、

「おれの部下で物書いているやつがいてね」

というかたちで私のことは伝わっているらしく。
私は文学志向ではないし、苦悩もしていないし、
ひとくくりにしたらあちらに悪いと思うのですが。
なんにせよ、そういうことで。
白鳥の湖にバイクを走らせては、
逢えるかも、と、どきどきはする。
しかし、逢わないものなのです、これが。
そのひとにも、そのひとが撮る、猫にも。
何匹もいて、数匹がじゃれあっている写真もある。
そのひとのブログだと、あの湖に行けば猫に逢う、
そういうくらいの頻度なのですが。
私は出逢わず。
今日も、湖に確実に泳ぐ鳥たちを撮って、帰る。
ああ今日も逢えなかったなあ、と呟きつ。
いまは書けなくなってしまったそのひとに想いをはせて。
私は書けるのだから書こうという気になる。
お逢いしたことはないし、言葉を交わしたこともない。
けれど、つまり、そのひとは。
私の師のひとり。
逢えないけれど、困ったときには、走って逢いにゆく。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 そのひとが若かりし日に書いた受賞後第二作が、仕事も恋もうまくいかないバイク乗りが北海道ツーリングに行くための資金を溜めるために下町の工場でバイトを始めるものの当初の思惑とは違いそこでの生活に生きがいを見つけてしまう、という話で。

 主人公は二十三歳。

 そのひとが受賞した賞の審査員に北方健三氏が名を連ねるところを見ても、そのひとが受賞作で評価されたのは大阪の下町を舞台にしたハードボイルドと表現してもいい滑稽で愚直な人々の生き様に対する描写力であったのだが、二冊目、三冊目を読んでみると、そのひとの本質はむしろ「軽さ」にあるのではないかと思えてくる。

 下町で生きてみなよ。
 特に大阪の下町なんかは。
 そこに人生があるよ。

 バイクで北海道になんていかなくても近所でそれは見つかるさ。意外に思うかもしれないが、町工場の単純作業で時給を得るとか、そういう仕事のなかにだったり。まわりの人々とのかかわりのなかにだったり。

 そのひとは、心底そう感じている。
 だから、熱い。
 だから、胸を打つ。

 けれど、と、いうことは、だ。

 そのひとの哲学に沿えば、現実に大阪の下町に暮らしていて、町工場でバイトもして、書いた小説が大きな賞を獲りはしたのだけれど、そのひとの人生にしてみれば。

 書くことなんて、必要ないのではないか。

 私の上司たる、そのひとの友人の口から出たのは「書けなくなった」ということだったけれど。必要ないから「書かなくなった」のならば、ニュアンスが違う。

 少なくとも、そのひとが書いた小説のなかの二十三歳に置き換えてみれば、そのひとの書いた小説なるものは、北海道ツーリングである。小説は、旅費を溜めなくても書けるので書いてしまったら賞を獲ってしまって、そのせいでそのひとは、近所の工場でバイトするよりもずっと面倒で稼ぎも悪い小説賞の下読みなどを選んで働くようになり、その仕事場ではこころざしを同じくするケンカっぱやい同僚などもいなくて、ついには熱を失って、書くのをやめた。

 そんなように、私には見える。
 言いかえれば、書くことにこだわる自分に、飽きた、というような。

 ある程度、書けるひとの書いたものを読めば、そのひとの多くがわかる。だから、私は、そのひとの直接の言葉のなかからそれを感じたわけではないけれど、それほど見当違いの感傷を抱いているわけではないと思う。

 いまもそのひとのブログを読んでいる。

 旅して、音楽を愛し、写真を撮る、そのひとは満ち足りていて、新作を書く気配はない。

 その湖は、保護区になっている。

SwanLakeB

 渡り鳥を守るためにそういう指定をされているのだが、結果、渡り鳥以上に、カラスと昆虫、野良猫と散歩する人間たちの保護区になっている。猫を撮るしあわせな元小説家の保護区でもある。

 そのひとは、私よりもだいぶんと年上だけれど、間違いなく、書いた小説の量でいえば、私の圧勝だ。

 そういうことを、湖に見る。

 なぜ書くのだろうか、と。
 そんなときくらいにしか、考えない。

 若くして、小説を書いた何作目かで、大きな賞を獲ってしまったら、私は書くことをやめてしまっていただろうか。獲れていないから書き続けているのか? そうではない。書かない自分が想像できない。そのひとがいるかもしれない公園に、そのひとが撮る猫を同じように撮れたらいいなと夢想しながらバイクを走らせるけれど、それだって気分転換して、また帰って書き進めるためだ。

 どうやったら、書けなくなるのかということがわからない。
 そのひとも、たぶん、書けるのだろう。バイクの運転や、水泳の息継ぎのように、何十年のブランクがあっても、やってみればできる。小説を書くというのも、そういうものだ。

 書けばいいのに、と思う。

 そのひとも、私と同じように、しんどくて一見退屈な日々の仕事のなかに人生があって、北海道ツーリングとか、小説を書くとか、そんなことで見つかる自分はないという思想を持っている。

 そのひとと、小説のことでケンカしたいけれど。
 逢ったことはないし。
 そのひとはもう書いていないし。

 なぜなのだろうと考える。
 湖。

 考えさせる、そのひとは、やっぱり私の師のひとりで、そのひとが小説を書いたことで、私を変えている。そのひとのようになりたいとか、なりたくないとか、思えない。

 書くことはやめられる。

 それだけを思う。
 書こうと思えば書けるものを、そのひとは書くのをやめた。
 私は書いている。
 だったら、それだけだ。

 帰ろう。
 そして続きを書こう。

 だれのためにといえばあなたのためだなどとうそぶきながら、実のところ、そんなことを言いながら書きたいだけだ。私が毎日、筋トレとシャドーボクシングを汗だらだら流しながらしているのを、妻が友人に笑って言う……「なにと戦う準備なのっていつも思うの」……私は、目の前の相手のアゴに左右の肘を打ち込めるはずだが死ぬまでだれか他人のアゴを実際に打つことはないはずだ。戦う準備ではあるし、戦えるカラダでいたいが、敵はいらない。

 書けばいいのに。

 ねえ師匠。

 できあがったのを読ませてくれなくてもいい。書きあげて捨ててくれたっていい。自分だけの悦びのためにでもいいから、書いてくれていたらいいのにと願い、出遭ったことはないので、そうなのかもしれないと私は信じているのです。

 熱く語ったりするのは、恥ずかしいことで。
 書いていたって、書いているさ、なんて言うべきではない。
 師は、そっと研ぎすましつつ、ブログには撮った写真をコメントも添えずにアップする。そういうひとだ。きっとそうだ。

 湖のほとりで、書かないひとのことを想い、書いているはずだと想い、ならば私も続けようと想える。そういう師を得たことは、素晴らしい。実在する妄想上の師匠なので、甘くも厳しくも、なんでも私の側の自由自在。

 そういう師や、好敵手が、何人もいる。
 逢ったことはないけれど、音信不通になってしまったけれど。
 戦い続けているのですね。
 だったら私も。
 私自身と。

 彼らなくして、私のいまはない。
 しあわせだ。  

SwanLakeC

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