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『雪に埋まれ』のこと。



 Snowman.jpg

年月の流れと空の模様は無関係なはずだけれど、
暦のうえでの新しい一年がはじまったとたんに、
雪が降りつもる。
都会で生まれたおさな児は、
生まれて初めての雪だるまを作った。
自分がなにをしているのか、
させられているのかもわからず、
白くて冷たいのを集めて固めて。
なにをしているのかわからないのだから、
本人にはできない最後の仕上げ。
両腕と顔をつくってあげる。

「あー」

おさな児は、まだ言語をあやつれない。
けれどその刹那、知ったのだ。
想いを、喉からふりしぼっていた。
生んだ。
その歓喜を。
じっと見る。
手をのばすが、ふれることをためらう。
生んでしまったなにかをさぐる。
いきもののように見える。
ひとのようなたたずまいだ。
けれど小さくて、白く。
おまけに、それは自分で生んだのである。
まだ手袋に雪は残っている。
見つめるそれは雪でできたはずなのに、
なぜだかいきものめいている。
おさな児は、自分のクレヨンを持っている。
スケッチブックも。
いまだ、ぐるぐるとした線ばかりだけれど。
今夜、その手で雪だるまを生んだ。
いまだ納得はないだろう。
混乱と、純粋な不思議。
なにがどうなってそうなったのかは謎。
けれど、自分で自分に歓喜の声をあげさせる、
なにかを自分で生み出せると知った。
まわりのみんなも笑顔だ。
……私も。
魔法のつかいかたについて、考えてしまう。
これ以上、なにがいるのかと。
端正な出来とはいえない雪だるまに、
その場のだれもが笑顔の魔法にかかる。
つくった本人は世界の謎に出遭っている。
おさな児がもう少し大きくなり、
つくるということの意味を具体的に知り、
精巧に可愛らしい雪だるまが生めたとして。
今夜よりも笑顔の魔法は強く発動するだろうか。
それは、まったくの別問題なのかもしれない。
技術のなさ、つたなさ、幼さを、
この雪だるまに見てのことなのかもしれない。
それでも。
これが結晶。
あらゆる、つくる、という魔法に必要なそれ。
きれいだ。
でも、見ているうちに、この雪だるま。
踏みつけて壊したくなった。
あの衝動はなんだったのだろうかと、
気の滅入るようなことを考える新年である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 年が明けてから、毎週のように出張だ会議だ研修だと日帰りの遠出をすることが多く、まだ真っ暗な早朝、家を出ることがたびたびあった。

 それでつくづく実感する地球の温暖化。

 いや、寒いのですよ。もう出かけたくないくらいに寒いから、冷凍しておいた鍋の残り汁で、朝からひとり土鍋雑炊など食しているのですが(水分が摂れるので、前日の酒を抜くのにも効果があります)。耐えがたいその寒さを感じつつも、出かけて、真冬の早朝。なにか、物足りない。

 氷が張っていない。
 土の上を歩いてもシャクシャクいう、霜柱ができていない。

 私が小学生だったころ、もう陽がのぼって道路に車も走っているくらいの時間でも、決まって世界のあらゆる水は凍っていたし、もれなく土を踏めばシャクシャクと鳴った。日陰には一週間前の雪が残っていたり、ときにはツララも見た。

 そのころ、私は阪神タイガースで有名な甲子園球場のそばに住んでいたから、かの有名な六甲降ろしなる六甲山から吹き下ろす、冷たい風のせいだったのかもしれない。そう思いつつも、いややっぱり、と天を見る。

 大阪に移り住んだ高校時代には、くるぶしまで埋まるような積もった雪のなか登校して、靴がびちゃびちゃになったことがある。真冬ともなれば一度や二度は、降る雪が肩に積もるというような日もあったものだ。

 そんな雪は、この冬、降らなかった。

「吹雪だねえ、これは今日お客さん来ないねえ」

 そうみんなで言いながら窓の外を見る日はいくどかあっても、その吹雪とかいうものは長続きせず、雪合戦できるほどに積もることはなく、現実に来店客がまったくいない日など、ない。

 想い出した。

 小学生のとき、武庫川の河川敷でかまくらを作っている年長さんたちがいた。それも六甲降ろしと、川のほとりという立地が影響しているのかもしれないが、それはまあ見事にテレビのなかでしか見たことがないような、ちゃんとしたかまくらだった。なかに入って、七輪で餅を焼いて食べられるようなやつだ。『うる星やつら』のエピソードで、かまくらに閉じ込められたひとの話があった。そのかまくらは内部が異次元化していて、時が流れていない。いちど入ると絡めとられて出られなくなり、永遠の時間を生きることになる。そのかまくらを出るには、だれかを招き入れて、自分のかわりにするしかない。だから、かまくらに囚われたそのひとは、かまくらの外を通りがかっただれかに声をかけるのである。

「なかはあたたかいよ。おはいりよ」

 餅やミカンを差し出して。

 武庫川の河川敷で、たぶん小学校の上級生くらいのお兄さんたちが作っていたのは、そういう本物のかまくらだった。私がその光景に遭遇し、わあ、と顔を輝かせて見ていたときにはすでに、彼らは作りあげたそれに満足し、外から眺めているところだった。おそらく、ひととおり、全員がなかに入っては出てをやり、餅もミカンも七輪もないかまくらは、作りあげる行程こそたのしいが、できてしまえばどうやって遊べばいいのかわからないしろものだと気付いたあとだったのか。

 私は、入ってみたかった。

 もちろん、言い出せなかった。
 遠くから眺める私に、彼らは気づいてもいなかった。

 彼らが顔を見合わせた。
 私は期待した。
 飽きた彼らが、そこを去るのではないかと。

 でも、彼らは。
 次の刹那、歓声をあげて、ダイブし、蹴飛ばし、転げ回り、雪を投げあって、ものの数分で、かまくらを粉々にした。

 そうして彼らは、テンション高く白い息を吐きながら、去っていった。

 はっきりおぼえている。
 私は、泣いた。
 壊れたかまくらには、近づけなかった。
 『うる星やつら』のせいも、たぶん、ある。
 なかに入ればどうにかなるかもしれない、雪というもので出来た不思議な建造物。それは壊され、崩れた雪の山になっても、特別ななにかをまだ持っている気がして。

 泣きながら帰った。

 私には、自分で、かまくらを作った想い出がない。霜柱はシャクシャクいっていたし、大雪が降って、校庭で押して転がせるくらいの雪球を作ったおぼえはあるけれど、かまくらというのは、相当に密度の高い雪が大量になければ無理だから。私の幼少期にも、その先にも、兵庫大阪の南部あたりでは、それほどの雪は降らなかったのだろう。

 私は、かまくらに入ったことがない。
 いまだに。
 寒いのは好きではないので、そういう経験ができそうな、さっぽろ雪祭りとか、その手のイベントに旅行に行くこともないだろう。義理の妹が北海道育ちで、いつかみんなで行きたいねえと親族が集まると話題にすることがあるが、そのたびに彼女の両親のことも話にのぼる。結婚式のために大阪に来て、彼女の父と母は、本当に道頓堀で食い倒れた。式の当日にも、まだ腹がもたれていると笑っていたのが印象的だった。北海道といえば、ももいろクローバーZの黄色い子が「ここは天国?」と歌うくらいに美食の土地なのに、と訊いてみれば、義妹の父と母は、ぶんぶんと首を振って言ったのだった。

「それは観光客の感想。二泊三日で海鮮丼とトウモロコシ食べて、カニ食べて、その旅行は天国かもしれないけど、生まれたときから住んでいたら、ぜんぜん違う」

 ラードたっぷりにバターのっけたラーメンより、昨日食べたすりおろしニンニクたっぷりの醤油ラーメンは段違いのごちそうだった、と真顔で言い、ああもう一泊できたら、有名な立ち食いフレンチの店にも行きたかったのに、とか。言われてみれば、大阪でカニや海鮮丼が食べられないわけでもないしなあ……食べものに対する過剰な期待を原住民に否定されてしまうと、観光名所だって、冬ありきですよね、寒いですよね、大雪なんですよね。それにしても愛娘の結婚式の前日に生ニンニクのトッピングでラーメン食べますかね、と笑って。

 私は、かまくらに死ぬまで入らない可能性が高い。
 とすれば、幼い日の、あの武庫川で見たあれは、私にとって、人生で唯一無二のチャンスだったのだ。声を出せていれば。それができなくても、もう少し近づくことができていたならば。お兄さんたちのだれかが気づいてくれて、

「おうチビ、おまえもなか入ってみるか?」

 なんて、言われたかもしれない。

 映画『かいじゅうたちのいるところ』で、幼い主人公が、まさにそういうシチュエーションでかまくらに入ったら、姉のボーイフレンドにかまくらを潰されて、雪に埋もれてしまうシーンがある。置いてけぼりにされた彼は、家に帰って姉の部屋をむちゃくちゃにして、家出して、怪獣の国の王様になる。

Wo die wilden Kerle wohnen

 その映画で、ほかに泣くべきシーンはいくらでもあるのだけれど、私は観るたび、冒頭のそれにやられる。姉にかまってほしくて、ボーイフレンドに雪玉を投げる。追いかけられて、最初はうれしい。男の子は、かまくらに逃げ込む。ほかのひとはだれも入ってこられないように思える空間。男の子は、そこへ逃げ込んだ瞬間は笑顔だ。だが、かまくらは、殴られて簡単に穴が開く。男の子ではなく男になりかけている年長者に、ダイブされて、埋まる。

 涙目で立ちつくす。

 姉への怒りは、理不尽なものだ。
 姉弟の居る家だから、そこにはぼくの居場所もあったのに、姉は大人になりかけていて、ボーイフレンドと遊びに行ってしまう。ぼくは雪合戦の相手もいない。ぼくは、じゃれあいたかったのに、姉のボーイフレンドはかまくらを潰してたのしそうだった。意味がわからない。泣くしかない。

 雪が降らなくなった国で。
 ガレージの日陰に残っていたそれを、かき集めて、小さな雪だるまを作った。おさな児は、作らされた不細工な雪のかたまりに、顔を描いて小さなモンスターを創造してみせた、大人を魔法使いのように思っている。どうやったの?

 私が、その雪だるまを踏み潰したくなったのは、それだ。
 
 問いへの答えを持たないから。
 こんなの魔法でもなんでもない。潰してみせようか? そうしてみれば、こんなのただのかき集めたちょっとの雪だ。

 実際にやってみせれば、おさな児は、まず間違いなく泣いた。わけがわからなくて。私がなぜそうしたいのか、それがたのしいことだと思うのか、理解できなくて。

 もしくは、想像もできない、大人の世界が怖くて。自分の幼さがたまらなくて。孤独で。雪だるまは可愛いのに、そんなものを可愛がってるんじゃないよ、もっと本当に手に入れるべきものは他にあるんだよ。泣いてる場合じゃないよ。魔法じゃない。とっとと成長すればわかるさ。おまえの目に見えている、ほんわかした世界は、世界の片鱗でさえない。まだ皮の剥けていない、世界の外側の無味無臭の部分だ。本当の世界っていうのは、ヒトっていうのは、もっと熟々としていて……

 孤独っていうのは。

 かまくらを潰されたときに、感じたあれだ。
 こんなチンケな雪だるまモドキに、顔を輝かせているおまえに私が苛立つ、それだ。

 ああ、病んでいる。

 雪だるまに顔を輝かせたおさな児に私は魅入った。
 きれいだと思った。
 けれども無視できないくらいに。
 壊したかった。
 泣かせたかった。
 知れ、と。


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