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『虚と実と型』の話。

 意味はわからない。
 けれど、事実はわかった。
 それで充分だ。

 吉秒匠 『幻追い/少年鎖骨電光掲示板(仮)』

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 いま書いている原稿のなかで、九字や両界曼陀羅といったアイテムを使っていたりして(吉秒作品に魔法も精霊も出てはこないが密教や中国人はよく出てくる。なんというか無国籍感をだすのには都合のいいアイテムなのだ。アイテムっちゃ中国の人に失礼だが)、密教や仏教関係の単語を検索することが多いんだけれど。めちゃくちゃアーレフのサイトにヒットするんですけれど。もうネットで仏教とか密教とか釈迦とかヨガとか、そういうものをたどっていくと決まってそこにたどり着いてしまう。アーレフってもとオウム真理教ね。私はこういう比判めいたことネットで書くのにも抵抗あるくらい、団体名変えたからってあの団体は怖い、という認識なのですが、もうなにが迷惑ってそういう認識だから、調べていることがアーレフ関連でヒットしてしまうと、それを鵜呑みにはできないのでまたその正誤を正すために検索するという──二度手間。こういうときに役立つのが、荒俣宏先生の百科事典。結局、ネットの検索ってものすごく便利な百科事典ではあるのだけれど、だれでも書き込めてしまう情報網なので、即座に信用してしまうことができないというのがかえって鬱陶しいこともある。信用できる人が書いているから信用できる、辞書とか辞典って、こういう時代だからこそとても必要だと、近頃ほんとにそう思う。

 逆に。
 嘘か本当かわからない。
 創作か実況なのかわからない。
 そのあやふやさが言葉というもののおもしろさを再認識させている面というのはあって『電車男』とか、嘘でも本当でも、本屋でフィクションもノンフィクションも手にしない多くの人が、国語で綴られる物語にわくわくどきどきするっていう点では、ほんとネットの意義って大きい。

 で、先月末から電脳空間を賑やかしていた、例の。

 『全裸男』

 いや『電車男』に引っかけてあるだけで主役は女性なんですけれど。二十七歳処女がエレベーターで全裸の男を拾うところから物語がはじまる、って時点で書籍化も映画化もドラマ化も望み薄な二番煎じ……でも、読んじゃうんだよね。私もご多分に漏れず、すっかり『電車男』がハッピーな結末(ってのは失礼だが。いまも幸せにやっているのでしょうかあの二人は)を迎えたあとで、その長々とくり広げられる電脳物語を読んだ一員なわけで。へーおもしろいことになっていたんだなあ、という感想しか持てなかったのですが、今回はリアルタイムで観てましたよ。私は2ちゃんねるを日常的に覗く人ではないので、むろん噂が噂を呼んでからそこを訪れたわけで、それでも間に合ったというのは『全裸男』の物語がとてもゆっくりと進んだからなのです。

 というところでご想像にかたくないでしょうが、その夜、全裸の男を拾った彼女の物語は、その夜で終わらずくり広げられ、なんと途中では物語が真実であると証明するために写真までアップして進行したわけです。その『全裸男』が、つい先日、完結いたしました。

 リアル実況物語が完結ってのも変な話なんですが、ぜんぜん変な表現でないことは『全裸男』を読んでもらって、あなたもその衝撃のラストに触れればわかるはず。

 『電車男』もそうなんだが、なにが真実でなにが虚構なのかは、あんまり関係ないことなんだ、と、つくづくつくづく思ったのです。脚本のないボクシングの試合よりも、脚本のあるプロレスの試合にこそ、多くの人々が熱狂できるという事実。「でもなんで曙はあのときムタがシャイニングウィザードできるように膝をついたんだろう」なんていうやつはそもそもプロレスに感動しないんであって、むしろそこを突き詰めてゆくと「ジャイアント馬場が右脚をあげると、その靴裏にすべての選手が飛び込んでいった」というその事実にこそ瞳が潤んでしまったりするのです。それにしても曙の全日本プロレス継続参戦は驚くよりも笑った。新入団選手なので新人と一緒にバス移動だとか。あんなのとマイクロバスに乗せられる新人のほうが可哀相だ。クーラーなんて効かないよきっと。ずっとはぁはぁ言ってるし。うわあ想像するだにいやだ。確かにあの肉体は武器だよなあ、触れたくないもん。

 人間の感性なんてものはそんなに幅がなくて、だからこそ人は昔からオリンピックを観て感動するんだし、だからこそ完成しているものにひねりを加えるべきじゃないとわかっていながらやってしまう。
 
 逆に、真実の事件が、たまたまその「型」にはまってしまうと語り継がれる物語になる。ワンクール放送するためにフィクション色を強くしたドラマ『電車男』はもともとの切羽詰まった感動とは違う種類のおもしろいものに仕上がっているのだけれど、それって歴史の事実が数千年語り継がれた果てに大河ドラマになっているようなもので、そうなってしまうとむしろその物語の最初の形ってどうだったの、というのは誰の関心も呼ばないし、実際問題として、それを知ることはいまここに完成型に近づきつつ進化する「型」に酔えない余計な情報になる。

 そういう物語の「型」について思った別のケース。

 原作は読んでいませんが、アニメ化されたってことで観てた『エルフェンリート』。話はまんまディーン・クーンツの『ウォッチャーズ』で、犬が萌え少女に置き換わっているという確信犯。『ウォッチャーズ』以降、この手の「研究所から逃げ出した知的超生物もの」という作品はあまた星の数作られているのだけれど『エルフェンリート』でもまたそうであったように、その話に結末をつけようと思ったら、どうにもおさまりの悪いことになってしまう。

 追うものと追われるもの。憎しみと新たな出逢い。逃げ出した超生物は異形であるがゆえに追われ、しかし異形であっても生きている知性体であるがために幸せの追求にも目覚める。恐怖するものと、受けいれるものがいて、その構図はしかし「守るために戦わざるをえないのか」という葛藤につながる──アクション性高い娯楽作品にはもってこいのプロットですが、このストーリーには制約がある。

 知的超生物は、最終的に迫害されないと悲哀を生み出さないのでカタルシスが発生しない。
 が、同時に。
 知的生命体は、最終的に幸福にならないと悲哀があるのみなのでカタルシスが発生しない。

 『エルフェンリート』では、最強の三十五番(ナンバーで呼ばれることは重要だ。七番がナナとか。『ドラゴンボール』の人造人間も、ようやく完結した『RAVE』のエリー(ELLE=3773)も、そこで泣かせる)は、研究所の闇の部屋で拘束されて育った少女で、そこから開放されたあとは殺人を繰り返している。よって物語的には最終的に退治されることと幸せに泣くことが同時達成されなければならないのであって、つまるところそういう「愛するものにかばわれて一緒に死ぬ」パターンでしか収束しようがないのである。

 で、三十五番は生き別れだった父の腕のなかで彼と一緒に爆死する──大正解。泣ける。

 ちなみにアニメ『エルフェンリート』のラストは、これもまた確信犯的にまるっきり『ウォッチャーズ』だった。知的超生物の死を描き、後日談として「いや実はね」、と匂わせて終わる。それこそが正解であり、ひねってはいけないのだということがよくわかる教科書のような作品だった。クーンツ作品の映画化は何度もされているが、監督たちはクーンツのハッピーエンド手法をそのまま使うのが嫌らしく、決まってラストをひねって失敗する。「実はね」というどんでん返しのハッピーエンドにしておくべきなのに、後ろ走りでマラソンとかおもしろいんじゃない? なんて思いついてしまう。おもしろくないんだって、それオリンピック競技を超える支持は絶対得られないから……はなから少数派を狙い撃つなら別だけどさ。

 斬新なオブジェクトをちりばめた作品こそ、古来からの「型」で魅せて欲しい。歌詞をひねりメロディをひねってもいいけれど、根底にあるリズムやビートまでひねってしまってはだれも理解できないものになる。そういうのを前衛と呼んで愛でる業界もあるが、ああいうのってひねくれた感性だと私は思う。散々、抽象絵画とか描いた果てに、読み捨てられるペーパーバックの娯楽小説って最強じゃないのって思うようになった私だったりするし。

 ところで。
 eno blogで紹介されていた、
 JR会津若松駅のLIVE CAMERA
 も、ブックマークしちゃうと、なんかついつい覗いてみたりしてしまう──そこにはなんの作為的な「型」もなく、ただたんなる現在進行形の光景があるだけなのに。虚か実かなんてどうでもいいといいながら、現実ってのはそれだけで観るに耐えるのだと再認識する。

 これだけ情報が散乱してなんでも手に入る世の中でも、解像度の低い携帯のカメラでスカートのなか隠し撮りしようとしたりするやつがいるってのは、人間のおもしろい面であり、同時にどうしようもなく哀れを誘う面でもあるなあ、と思いながらホームでラジオ体操するJRの列車運転手を書斎のモニタで覗いているオレが、気がつけば「なにやってんだ」という存在だったりして。
 深いなあ。
 (そうなのか?)

エルフェンリート

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