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『好きということ』の話。


 某局で『スター・トレック』一気放送みたいな企画をやっていて、映画版も立て続けに放送されているのですが。私、そこそこトレッキー(スター・トレック信者のこと)なので、どれもなんども観ているし、いろいろ忙しいので、テレビの前にかじりついているわけにはいかない。でも、せっかく特集とかやっているのだから、そのお祭りに参加する気分だけでも味わいたくて、一本選ぶことにした。

 よくビートルズ好きなひとが、近ごろの

「ビートルズ? なにそれ」

 という世代に向かって、

「いいよな、おまえらはまだ聴いたことのないビートルズの曲があるんだもんな」

 というようなことを言っていたり。禅における謎かけみたいなことになっていますが、実際にはやっぱり、すべての曲をなんども聴いた世代のほうが、堪能はできているという当たり前の事実がそこにはあるのです。

 ずらっと番組表に並んだ『スター・トレック』。
 そうね、ちょっとひさしぶりにこれ観てみようか……
 そういう選択ができるのが、すべてを知っている者の強み。
 選んだのは、自分でもなんでだろうと思うのですが。

 『スター・トレックV 新たなる未知へ』

 映画化第五作。
 一、二作目は、ドラマが当たりに当たっての映画化ですから、それはそれ。続いての三、四作目は、初代シリーズの看板キャラ、ミスタースポックを演じるレナード・ニモイが監督となった、伝説的な二作。

 で、五作目。
 初代シリーズの船長役、ウィリアム・シャトナー初監督作品。
 私はまだこの作品の公開当時にはトレッキーではないお子様だったので、当時の空気感まではわかりませんが、部下のスポック役俳優が前作で興行成績を塗り替える大ヒットを飛ばしたことで、みんなの夢見る度合いが高くなりすぎてしまったのかも、という想像はできます。後世のトレッキー視点から見ると首を傾げる成り行きなものの、当時のハマっちゃった人々にすれば、確かに役柄上はスポックも太刀打ちできないカーク船長なわけで。船長が撮れば部下の撮った傑作よりも、もっと傑作になるに違いないと思い込んでもおかしくはなく……

 でももちろん、そんなのは錯覚。船長のなかのひとは、監督経験なしの役者さん。信者まで生まれはじめたSF超大作の続編、撮らせちゃだめじゃないですか。でも、やっちゃった。時代の流れっておそろしい。

 詳しくはWikiでも読んでいただくとあれですけれども。そうして『スター・トレック』映画化第五作は、かの悪名高いゴールデンラズベリー賞の最低作品賞・最低監督賞・最低主演男優賞を獲得。見事な三冠を達成するという逆方向の伝説を残す作品に仕上がったのでした。

 でも、ですよ。
 私のような、新シリーズから『スター・トレック』に入って、さかのぼって初代シリーズを観たというトレッキーの場合、特撮の陳腐さとか、脚本の強引さとかご都合主義とか、そういったものはむしろ古い時代の作品なのだから当たり前にあるものとして観るのです。そうすると、ドラマも映画も、ガチガチのSF超大作的な回は、むしろ新世代と見比べて古くささを感じやすくなってしまう。
 そこで、これです。
 『スター・トレックV 新たなる未知へ』。

 中期の『ゴジラ』の雰囲気がある。シリーズを重ねてちょっとネタも尽きてきて、行きすぎてしまったテンコ盛りの脚本に、客が入るのがわかっているからこそ削られた特撮予算によって、ハリボテの戦車、あとから描いたのまるわかりなレーザー光線。そういう古き良き無邪気さあふるるSFというよりは、おとぎ話的なそれ。

 あらすじをざっと書くと……

「テロリストに宇宙船を奪われていっしょに神に逢いに行く」

 本当に、ストーリーこれだけですから。それで劇場公開できる映画に仕上がっているということは、つまりテンコ盛り。どうでもいいネタを重ねに重ねて、脚本の分厚さを出している。けれどどうしたって、最終的に神が出てきますからねえ。神。神がそこにいるという住所情報をまず持っているのがどうなんだというところも曖昧なまま、行ってみたら実際に逢えてしまって、でもそれは神とは似て非なる存在で、やっつけちゃう。あ、ネタバレ書いてしまいました。でもこれすでに古典。許してください。バレるとかバレないとかいうものでもない。ぶっちゃけ全体通して物語はどうでもいい。なんだかんだあった。そして収束した。
 
 生還したカーク船長が言うのです。
 部下に、神は本当にいるのだろうか、と問われて。

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あそこにはいなかったが
ここにいるかもな
心のなかに

STARTREK

映画『スター・トレックV 新たなる未知へ』

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 こんなセリフでめでたしめでたしで、観客がスタンディングオベーションすると思うほうが、どうかしている。どうかしているのです、実際に。ひどいものです。

 でもですよ、中期の『ゴジラ』もそうですけれど、ロボットが意識を持ってしまって勝手に巨大化するとか、そういうおとぎ話的な回って、後世のマニアからすると、たまらんものがある。『スター・トレックV 新たなる未知へ』も、そう。

 当たり前といえば当たり前、カーク船長自身が撮っているカーク船長が、実にカーク船長らしい。二十一世紀のスタイリッシュな映画『スター・トレック』では、正直、俳優が変更されたとしても成り立ちます。でも、第五作だけはダメ。

「ああ、カーク船長だなあ……
 スター・トレックらしいむちゃな話だなあ」

 苦笑いしながらも、幸せな気分になる。
 新世紀のトレッキーにとって、その当時の興行成績なんてどうだっていいんだし。いまではビデオ発売さえ危ういだろうという内容を、スター・トレックの看板あってこそ撮りきっている、珠玉の一品とも呼べます。
 まったり愛でて、スター・トレックのある世界に生まれたことを感謝できる。

 この感情は、好き、でしょうか。
 愛している、のほうが的確なのか。

 だれもが知っている有名な学説として「恋の吊り橋理論」というものがある。あれ、実際の実験では、まったく知らない女性に対する好感度を調べる手法になっているのをご存じでしょうか。よく誤解されている、すでに知りあいのふたりで吊り橋を渡れば恋人になれるかも、というのではないのです(というか、ふたりでいまにも落ちそうな、ぐらぐら揺れる吊り橋を渡るデートに出かけられるなら、すでにそのふたりはいい感じなので実験になりません。ふたりができあがったのはそのデートに誘ったこと自体が原因なのに決まっています)。

 路上で無差別に電話番号を配る。
 吊り橋の上で配る。
 かかってきた電話はどっちが多かったか。
 そういう実験。

 確実に、吊り橋の上で配られた電話番号には魔力が宿る。
 いや、その表現には語弊があるやもしれません。
 実際には、魔力が宿ったのは電話番号を配った女性のほうではなく、揺らされた男性の側です。

 つまり「恋の吊り橋理論」は、「どうやったらだれかに恋ができるのだろう」という悩みを抱えている、あなたのための理論。実証されて結果もともなっているのだから、恋がしたければ、試してみればいい。

 心臓がばっくんばっくんいう状態に自分を持っていくと、恋ができる。

 「恋の吊り橋理論」では女性ですが、その理屈でいうと、私がトレッキーなのも、そういうプロセスをたどったのだと推察できます。最初に『スター・トレック』を観たのが、いつだったのか、どの回だったのか、まったく記憶にはないのですが、スペースアドベンチャーですから。たいていの回で、クルーはピンチに陥り、でも知恵と勇気で事態を解決してエンタープライズ号に戻ってくる。ワクワクドキドキです。吊り橋です。テレビ画面の『スター・トレック』に胸を高鳴らせているとき、アンケートを求めてくる女性はいませんので、私は凝視している画面に映っていたエンタープライズ号に恋をしたのです。

 逆に言えば、『スター・トレック』の神回を観ている私を、恋に落とすのは簡単だということでもあると気づきます。観終わって私がドキドキしているうちに「あたしを見て」ってされたら、恋の魔法は発動してしまうでしょう。

 この理屈でいくと、遊園地の絶叫マシンやお化け屋敷、スポーツ観戦、音楽ライブなど、なんでもいい。脈拍が上がればそれでいい。いいのですが、大事なのが、そこ。

 ドキドキしているうちに「あたしを見て」。
 これ必要。
 あーおもしろかったなあ、と会場を出てしまっては遅い。ジェットコースターが頂点を越える瞬間に「あたしを見て」。あの角からゾンビが駆け出てきそうだよなあ、というところで「あたしを見て」。アイドルの煽りに観客全員がこぶしを振り上げたそのときに「あたしを見て」。ジェフ・ハーディが、四メートルのハシゴの上からダイビングボディプレスを放った瞬間に「あたしを見て」。

 むずかしいですね。遊園地はともかく、野球場でホームランの瞬間に「あたしを見て」とやってしまうことで「恋の吊り橋理論」を相殺する彼の機嫌の悪さを生み出してしまうおそれも否定できません。クラブで夜通し踊っていても、だれとも視線を絡めないんじゃ、なにも生まれないのは道理です。

 ふと思ったのですが。アンディ・ウォーホルのファクトリー。

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『Andy Warhol Presents: FLESH』のこと。

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 いわゆる、アートとドラッグとセックスが渾然一体となった共同生活の場で、だれもが毎日のように新しい相手に「恋」していた。ああいう状況が、ひとをもっとも簡単に恋に落とす方法かもしれません。場の雰囲気そのものが興奮のタネで、だれかと見つめあっては、意味もなく心臓が高鳴って、ケラケラ笑う。そんな場所で生まれる想いなんて、恋ではない? ああでも、この国でもそうじゃないですか。どうやったら異性に(ひとによっては同性に)恋されるかを切磋琢磨してそれでも実らないひとたちが多いいっぽう、コンビニの前でたむろって意味もなくケラケラ笑うヤンキーさんたちは結婚が早くて子だくさんだったりするものです。毎日が吊り橋。殴りあって友情が芽生えるというのも、あながち嘘ではなく、それも恋。濃い友情と恋の境目なんて、ない。メンチ切りまくりのヤンキーさんたちとはいえ、だれかと睨みあうときにドキドキしないわけがなく、となると日々、みずから恋心を量産しているようなものではありませんか。

 一般人は、目と目をあわせて睨みあって心臓が口から飛び出るかも、なんていう体験はまあないです。そういえば、けんかっ早いひとは恋にも落ちやすいということもあるかも、と知りあいの顔を思い浮かべてみます。激昂しやすいということは、セルフ吊り橋効果を随時発動できるということなのか。

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 誰かを、あるいは何かを熱烈に好きになる時には、脳の中では何が起きているのでしょうか? 「欲しくなる脳の神経ネットワーク」「好きになる脳の神経ネットワーク」そして「幸せや喜びを生む神経ネットワーク」の全てが、同期して激烈に活動しているのだと考えられます。恋愛の始まりとは、まさに脳が「沸騰している」状態であると言えるのです。

STARTREK

竹内龍人『なぜ、それを好きになるのか?脳をその気にさせる錯覚の心理学』

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 この話、要するに、こう言っています。

 「欲しい」は「好き」とは別物。

 鮮明におぼえている幼い日の出来事があります。母に連れられて、ちょっと距離のある、大きなデパートへ行ったときのこと。デパートの前で、スイカの試食販売がおこなわれていたのでした。かっちょええおっちゃんが、その場ですぱんすぱんでっかい包丁ででっかいスイカを切って、ほら坊主嬢ちゃん食いねえ食いねえと道行く子供を釣っている。そりゃみんなもらいます。ただ、場所が悪かった。母と私はデパートから出てきたところで、母は私よりもさらに幼い弟を抱き、両手に荷物まで持っていた。めっちゃおぼえているのですが、そのときの私はまだ、母の荷物をかわりに持ってあげられるほど成長してはいなくて、そんな自分がここであのスイカを欲しがるのは母を困らせるだけだということもよくわかってはいたのですが、でも欲しかった。ダダこねました。しかし、夏の暑い日、デパートの前は人混み。私はまだ、ひとりで行ってもらってきなさい、という歳でもない。母は学生結婚でした。小さくて細いひとです。当時、二十歳そこらです。母が泣きそうな顔をしたのも、すごくおぼえている。それでも、それでもひときれのスイカが欲しかった。それもまた、強烈におぼえている。

 けっきょく、試食はできませんでした。

 その翌日だったか、数日後だったか。母が、近所のスーパーでスイカを買ってきてくれました。学生結婚で立て続けに二人産めば、生活は苦しい。そのうえ彼女は広島の農家の娘なので、スイカをお金を出して買ってくるというのが非日常。実家の畑には鈴生りなのです。生まれたときから天然のおやつだった。

 高かったのよ、と恩着せがましく言われて、それを出された。スーパーで買ってきた、四つ切りで肉よりも高い果物。そこから記憶があいまいなのですが……たぶん、私は、自分で自分の記憶を抹消しています。ものすごく母に泣かれたか、怒られたか、そういうことがあったのでしょう。だって、いまでもそうなのですけれど、私、間違いなくその当時からスイカを好きではないのです。炎天下で、人混みで、かっけえおっちゃんがでっかい包丁で切った、あのひときれが。

「欲しい」

 それだけでした。母が買ってきてくれた近所のスーパーの高いスイカは、私にとって、すっげえつまらない、どうでもいい果物だった。私は、スイカに恋をしたわけではなく、おっちゃんとか、人混みとか、包丁やなんかのギミックを含めて、そこに提示された「試食用の薄く切ったスイカ」が欲しくて。そのうえ子供なので、その想いを満たすために愛する母に哀しい顔をさせても平気だったのです。母のほうは、そんなにもあなたがあれを愛するのなら、ということで買ってきてくれたのでしょうけれど、ぜんぜんそういうのとは違う。

 好きな子のリコーダーが舐めたい、は「好き」です。
 でも、ときおり現実に逮捕されたりしますが、自宅に盗んだ女性の下着を数千枚溜めこんでいた、などという変態の場合、それを「好き」と言ってしまうのは問題ありです。上の区分で言えば、それは「欲しい」であって、しかも欲しいのはその小さな布のほうであって、中身ではない。

 極端な変態の例で書いていますが、実際の恋愛でも、そういうことはよく起こります。ぐっとくる男性の仕草とか、そういうアンケートも見かけるように、女性の胸やおしりは大きいほうが好みなのそれとも小さいのが? みたいなのもそう。

 仕草とか、パーツとか、そういうのが「好き」というのは、かなり危うい。

monogatari

 録画してあった『恋物語/ひたぎエンド』を、さっき観終わったのですが。あれもそういうお話でした。千石撫子なる可愛らしいJCが、叶わない恋なら叶わないままみんなぶっ殺す、と叫ぶ物騒な神さまになってしまうというスター・トレック映画もおののく安っぽい神あらわるの物語だったのですけれども。

 世界なんて終わってしまえ、みんな死んじゃえ、あたしもいなくなれ、なんていうのは行きすぎた恋の末路として現実にもよくあるにもかかわらず、当たり前ですけれど、その根幹は「恋」だという。撫子ちゃんの場合も、なんにも叶っていない片想いがこじれて暴走している。さらにつきつめてさかのぼると、どうして好きになったかといえば、友だちのお兄ちゃんで、やさしかったから。

 仕草とか、パーツとかよりも、もっと不安定です。
 でもこの「やさしさ」が好きになった理由というひとは、多い。でもねえ。ちょっと考えてみなさいよってば。幼い妹の友だちが遊びに来ていて、その子にきびしく当たる兄なんてまず存在しないでしょう。ということは、ほとんどのお兄ちゃんにとって「やさしさ」は標準装備。もっと言ってしまえば、世の中のほとんどのひとが、赤の他人に対しては「やさしさ」を見せるものでしょう。だったらそんな理由は、後付けです。それが理由で好きになるとか、自分でもそんなつもりになっているだけです。

 だから、話はもとに戻りますが、あなたが「好きということ」をよくわからないたぐいのひとだとするならば、そういう物語とか、他人とかの話を真に受けて「やさしさ」をさがしたって無駄だということです。それはありふれたもので、後付けの理由なのです。本当は、ドキドキしたのが理由。

 撫子ちゃんは友だちと遊んでいた。
 そこに歳の離れた大きなお兄ちゃんが現れた。
 それだけで撫子ちゃんはドキドキします。
 子供にとって大人とはそういうものです。
 撫子ちゃんは、思わず凝視します。

 ここで、お兄ちゃんがアブノーマルなことにスイカを抱えていたり、でっかい包丁を握っていたりすると、また別の感情がはたらく可能性が高いので、お兄ちゃんはごくノーマルに、ふつうの格好で、ふつうの言動をとるとよい。あ、いらっしゃい、なんて言いながら笑顔。

 それで撫子ちゃんの「欲しい」スイッチが入ります。
 やさしい笑顔のお兄ちゃん、そのひとが欲しい。
 脳が沸騰してしまいます。

 しばらく経つと、その経験は麻薬として機能する。
 あの脳の沸騰が欲しくて、だから「恋」をしなくてはならなくなる。「恋の吊り橋理論」。本当は、あのドキドキは、子供が大人に出逢ったときのものなので、また別の知らない大人と接触するのがドキドキの再現としては有効なのですが、ひとは「お兄ちゃん」が欲しいのだと誤解する。甘美ですものね、その想像は。いつでも自分をドキドキさせられる「好き」なひとを「欲しい」とつけ狙い、もしも手に入れれば「幸せや喜びを生む神経ネットワーク」が大開放状態。欲しかったあのひとといっしょに暮らしはじめたりすれば、好きも幸せも味わいたい放題。麻薬に溺れたい放題。パラダイス。

 で、根本が誤解なので、醒めるひとも続出するわけで。
 撫子ちゃんも、説得されて神をやめます。
 醒めてみれば、たかが「好き」。

 そんなものです。
 だから『スター・トレックV 新たなる未知へ』。
 私は私の脳にドキドキをふたたび与えたくてスター・トレックを欲し、摂取するのですけれど、それはまぎれもなく好きということなのですけれど。
 最終的に目的は「しあわせとよろこび」なのです。
 激しい行為とか、もういまさら。
 いや、枯れたわけではなく、それはそれとして。

「ねえ、あたし、こうしているときが、とってもしあわせ」

 『スター・トレックV 新たなる未知へ』。別になんでもない、ソファに寝そべって晴れた空をいっしょに見ているとか、そういう時間。テレビシリーズでもよくあった、やりすぎてしまってよくわからんことになったのを、みんなに愛されているキャラクターの個性で乗り切ってしまおうとするスター・トレック感。神さま出てきた。知ってるけど。こいつビームで倒されるんだぜ。カーク船長がご機嫌でキャンプソングを歌っている。その、しあわせ。

 時間が解決する、という言葉があります。
 「好き」が、そもそも脳の誤解だという問題も、それが解決する。
 ひとはそこに立ちあらわれる感情を「愛」だなんて呼んだりしますが。
 継続はいやおうなく「しあわせとよろこび」の比率を上げていきます。三位一体。「好き」は自分本位な脳内麻薬のためのご褒美だし、「欲しい」に傾くと相手に嫌われようがなんともないのでストーカーになるのも平気。それらだけでは継続がままならない。逆に、続きさえすれば、どんな形でもバランスはとれてくる。運よく欲しい相手を手に入れたなら、嫌いにならない努力さえしていれば「しあわせとよろこび」は摂取し放題ですし、片想いでいいいやと決めるなら、二次元だって三次元だって「好き」を手に入れたい放題。本来、そういうカタチで落ちつくはず。

 相手は、包丁を持っていないとか、そういうのでいい。
 撫子ちゃんの恋のはじまりは、突然あらわれたひとを凝視することからはじまっている。ヤンキーさんたちにカップル率が高いのは、ドキドキの毎日と、メンチ切りの文化に寄るところが大きい。

 そしてそれらは、逆もまた真実。

 うん? この子、おれのことじっと見て……どきどき。
 ああ? こいつ、女のクセにおれにケンカうってんのか……どきどき。

 恋がはじまってしまえば続ける努力をするべきで、恋のはじまりたる好きを探しているのならば、まずは自身の心臓が胸骨を破って飛び出るほどドキドキするシチュエーションを構築するべき。なおかつ、その状態で相手を凝視することが必要ですから……

 顔の見える明るめ照明なクラブか、スポーツジムか、自転車で息切らしながら街を散策するか、しかしどれも不特定多数の顔を凝視するというのがネックですね。そういうときは。パーツです。好きになるのはなんだっていいのです。「やさしさ」なんて後付けの理由でさえかまわない。

 テレビゲームはどうですか。
 このふたり、ゲーム『Halo』で出逢い、五年間ネットだけで交際を続け、この日、空港のロビーで初めて現実に抱きあったのです。



 私、スター・トレックと同じくらい『Halo』好きでもあるのですが、このゲーム、彼ら彼女らの他にも、たびたびカップルを生み出し結婚の報告などもある(上の動画のふたりも、このあと結婚されました)。きゃっほー、なんて叫ぶほど脈拍あげて遊んでいますので、他人のちょっとしたやさしさに過敏になる。

 顔? だから関係ないんですってば。重ね重ね、小振りな胸とか、きれいな爪とか、振り返る仕草とか、笑顔とか、やさしさ? ヒトって、そういう理由だけでヒトを好きになれるもの。ここが理解できないあなたは、さては恋をしたことがありませんね? ネトゲでもいいのです。他人とわーきゃーやることです。見た目はアヴァターでいい。いや、アヴァターだからこそ、凝視もできる。

 まとめ。
 好きということは錯覚。
 でもその錯覚からすべてがはじまる。
 好きが欲しいなら、脈拍上がる祭りの場に出かけ、他人の目を見る。じっとしていても心拍は上がらない!! スター・トレックを好きになるためには、ドキドキを探してテレビをつけ、チャンネルを合わせなくてはならないのです。なにもかもそういうこと。

 はい『Halo』。
 でも手を出さないんですよね、あなたは。

Halo

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『Halo3ベータテストと仮想うつつ』の話。

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 動画のカップルがプレイしていたのは五年前なので『Halo3』。現行ナンバリングは『4』。XboxOneに向けて『5』も動きはじめています。

Halo

 いやまあ、私がゲーム好きなので、こういうところに落ちていますけれど。実際「好き」と「欲しい」は別ものだから、欲しいだれかやなにかを探すのではなくて、好きに「なれそう」な程度のことものに対し、自分の心拍を上げる努力をするほうが有益だと考えます。好きになったあとの結果なんていうのは、また別の話。ぶっちゃけ、日本で『Halo』の遊べるXboxというハードはさっぱり売れていませんが、私はドキドキしたのです、これ行ってみちゃおっかなあって初代Xboxを買った。そこで出遭った『Halo』は、間違いなく私を変えました。いまも好き。出遭わなければ出遭わない。当たり前。自分がなにを好きになるのかは、流行り廃りとあんまり関係ない。これも重要。

(はい矛盾。売れているゲームをプレイすれば、多くのひとに出逢えます。GTA5という大ヒット作をプレイしているのですが、日本隔離サーバでして。PS4版とXbox360版のあいだにも壁がある。いやあ、こういう場合は、売れているハードでプレイするべきなのかなあ、とは思いますね。プレイ人口が少ないために、同じひとにたびたび仮想の街で出逢うので、親密感は増しますけれども。もの悲しさを共有するだけで、恋は生まれそうにないわ)

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