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『ビーシーズ』の話。

 そしてこの手のものは男性の方がはまり込みやすいらしく、私の周囲でこれを観た野郎はほぼ全員が、携帯の着信音を、「24」のCMに入るときの音やCTUのコール音にしている。
「ジャック・バウアー」になりたいらしいのだが、この辺が男女の性差なのか私たちの感想は、
「こんなにがんばったこのジャック・バウアーに少しの同情心もわかない……何故だ」
 何故だ。ちょっといろんな人の感想を聞いてみたいところだ。


 菅野彰 『海馬が耳から駆けてゆく』

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 ちなみに菅野彰は現在新書館の小説ウィングスで『屋上の暇人ども』シリーズを連載中の小説書きであり、同じく新書館ディアプラスでは友人でもある小説書き月夜野亮とともに『おおいぬ荘の人々』という住人が全員ホモという悪夢のような物語を連載していた人物でもある。「私たちの感想」というのはこの菅野&月夜野コンビの感想ということだが、この二人はこの感想を口にするにいたるまでに「リアルに24時間で『24』を観る」というイベントを女二人きりでクリアしてなおかつシーズン2をツタヤで「全巻まとめて借りるために一旦棚にある飛び飛びの数巻を他人に借りられないためだけに借りておく」という行為を平然と行っているのであり、そのうえ彼女たちは自ら公言していることに「ブラッド・パック」世代だったりして(『24』主演のキーファー・サザーランドは15歳の時に高校を辞め(ちなみに全寮制男子校)、NYの演劇学校へ通い始めるが一年でそこも辞め、ロスへ行きジュリア・ロバーツと恋仲になり結婚を発表したが式の直前にドタキャンしカミリア・キャスと結婚して今度は式を挙げたあとで離婚する。彼が十代の終わり頃、つまり映画『スタンド・バイ・ミー』でリバー・フェニックスをいじめていた80年代、トム・クルーズやロブ・ロー、チャーリー・シーンやマット・ディロンなど次世代を担うであろう若手俳優達を「ブラッドパック」と呼び、彼らの出演作は「ブラッドパック映画」と呼ばれた。私は80年代には鼻のたれたお子様だったが、その後、いちホラー映画好きとして、その時代の彼らの活躍を観たものだ。ブラッドパック映画ではやたら吸血鬼や狼男などの血を引く美青年が悩みながらも活躍するわけのわからん学園青春モノが量産されたのである、C級映画の宝庫だ。あとやたら彼らに軍服を着せたがる傾向もある。いまでもあの時代のアメリカ映画が好きだという人は多いらしく、ビデオ屋でも「なぜこの21世紀にこの作品が生き残っている?」というのによく出逢うけれど、それはなぜなら若き日のキーファーでありルー・ダイヤモンド・フィリップスがそこにいるからなのである)。

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 そんな実生活まで腐れ女子的BL小説書きどもの感想など、はなから平凡や凡庸という言葉からかけ離れている気がするのだが、私の携帯着信は『HALO』である。しかも自作。一見関係ないような話だが、そこに男女の性差を理解する解決の糸口がある。

 ジャック・バウアーになりたい。

 と男どもは思ってCTUコールに着信を設定するのではない。

 おれがジャックだから。CTUのコールはおれにかかってきて当然だと思っているのだ。私の場合で話そう。

 『Halo』はFPSと呼ばれるジャンルのゲームである。FPSとは『First Person Shooter』の略。『Frame Per Second』という動画のなめらかさを表す指標でも同じ略称を使うが、そっちはテストにはでないので覚えなくていい(こういう先生の一言が生徒を混乱させる。だったらよけいなことを言うな。テストに出ることだけ口にしろというのだ)。日本語訳をすれば『一人称での射撃遊技』。

 ゲームでいうところの一人称とは、ドライブゲームにたとえるとわかりやすい。

 運転しているキャラの背中が画面に表示されていれば三人称。
 ハンドルしか見えなければ一人称。

 三人称では急に道路に飛び出してきた猫に、おどろくドライバーの様子が画面に表示されるが、一人称では画面の前の「私」がおどろくだけである。普通に考えれば三人称のほうが劇的に魅せられそうなものだが、小説の場合でも同じく、そこに描く技術さえあればときとして一人称のほうがキャラとユーザーとのあいだに融和を発生させ臨場感を生む場合がある(マスター・クーンツは著『ベストセラー小説の書き方』のなかで「小説を書く天才でもない限り新人は一人称を使ってはならない」と明記している。私が先月書いた原稿は一人称だったが。にしてもいままさに読んでいるクーンツの新刊(自分の原稿で追い込まれているときに師の作品など読んで影響を受けても困るので読まずに耐えていた)は素敵。いい話。やっと日本でもクーンツの新刊が再刊行されはじめて嬉しい(事情をよく知らない方は「超訳・クーンツ」でググるといい))。

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 端的な例を挙げよう。

 男性向けギャルゲーと呼ばれるジャンルで、伝統的に使われる主人公の描写方法がある。ギャルゲーである以上、ユーザー自身がヒロインと疑似恋愛できなければ娯楽として成立しないのでキャラとしての主人公は画面のなかには現れないほうがよいのだが、一方、ギャルゲーである以上、ヒロインとの肉体的接触を描くためには肉体を持った主人公キャラが画面に現れなければならない。そこで編み出された手法が「前髪」。長い前髪で顔のほとんどをかくしてしまうという荒技である。描かれてはいるが個性はない主人公。これはつまるところ、小説でいうところの一人称そのものである。おれはそんなセリフは言わないが、言わされれば言っている気になる……これは心理的防護線をはって、ゲーマーが自己嫌悪に陥ることを防止する効果も持つ……おれはこんな鬼畜な振る舞いで女を扱わないし扱いたいとも思わないけれど、主人公がそうする視点で見てみれば興奮しないことはない。

 一方、ヲトメゲーと呼ばれる婦女子向け「イイオトコにもてまくる」系のゲームでは、ヒロインの姿は描写されている。例外なく美少女だ。典型的少女漫画のヒロイン的な外観が多い。キャラづけははっきりとされており、ヒロインはヒロインとしてゲーマーとは別個の「個人」である。明確な三人称。男性向けでもあるにはあるが、女性向けでは「これ以外の手法はない」という点で特筆に値する。

 『Halo』は一人称でプレイヤーが敵をなぎ倒す戦争物。ネット対戦で女性プレイヤーに出逢うこともなくはないが、圧倒的にそれにハマっているのは男性ユーザーである。『Halo』の主人公には名前さえない。呼称としての「マスターチーフ」という名があるが、彼はムービーシーンでも絶対にフルフェイスのヘルメットを脱がない。「前髪」。皮肉まじりのジョークをいうこともあるが、基本的に無口極まるニヒル。

 そういえば……と思いを巡らせる。太古の昔から、ハードボイルドとはそういうものだった。無言で敵を撃つカーボーイ、ぼそりと言って斬りつけるヤクザを、観た男たちは肩をいからせて映画館を出る。女たちはそこに立ち入ることを許されない……というか理解できないんでしょう? そういうの。ほらこれが性差。

 きちんと性格付けされた顔のあるキャラが巻き込まれる「他人のドラマ」に女性は感情移入する。女性向けメロドラマに男性がハマる割合と、FPSに女性がハマる割合は、あきらかに後者のほうが低いはずだ。その数字計算でいくと『24』に感情移入できない女性は数多くいるはずであり、まったくなにがおもしろいのか理解できない人さえいるだろう。私も妻や自宅に遊びに来た女性に『Halo』をやらせることはあるが、飛んでくる弾にきゃあきゃあは言うものの、どう見てもマスターチーフに感情移入はしていない。彼女は彼女たちのままで『Halo』世界で撃ちあっているのであって、マスターチーフに「なって」プレイ後も『Halo』の世界を泳ぎ肩をいからせて歩くことはない。むろん『Halo』の着信を自作したりもしない。

 これは微妙な差だが絶対的な差だ。

 パソコンの黎明期、主人公がアルファベットというRPGに私はハマっていた。顔もなく、人の姿さえしていない「A」が、フレーム(直線描写)の町を歩く。そのジャンルに理解を示す女性は皆無だった。その後『ドラクエ』が生まれた。物語もシステムもなにも変わらないが、主人公が人の形になってファンタジー世界を歩くようになり、それには感情移入する女性たちが現れた。そしてその後、ドラクエの亜流としてはじまった『ファイナルファンタジー』が、ムービーゲーと呼ばれるほど「三人称のドラマ」を偏重するようになって、本当に女性ゲーマーは増えた。逆に、私を含めて「ドラマを摂取させられる」感のあるFFシリーズから離れていった男たちは多い。

 ジャック・バウアーは否応なく巻き込まれた場面で活躍するが、彼自身が愛を告白したり、なにも起こっていない状況からなにかを思い立って行動を起こしたりはしない。王様に頼まれたこともあって姫を助けに行く勇者だ。微妙なところで、ドラクエの主人公は男性にも女性にも受けいれられる。けれどドラクエの主人公に恋する女性はいない。ドラクエの主人公になってドラゴンと闘い姫を抱く夢想をした男性は数多くいるだろうけれども。

 微妙だが絶対的な差を、微妙なところでバランスを取った名作だと言えるだろう。
 初代ドラクエも、『24』も。
 ドラマはあるが、主人公の「感情」は描かない。ジャック・バウアーが怒るのは、自分と一体になっている観客が当たり前に怒る場面でだけである。「あれそんなとこで怒っちゃうんだバウアー」などと思う場面はいっさいない。それは怒っていないに等しい。
 見ようによっては三人称でもある一人称。
 一人称なのに観るものを裏切ったりしてしまう手法はミステリー小説の世界ではルール違反とされるが、テレビドラマでは別にタブーではないので実践され、バウアー以外の登場人物は意外な言動もとる。それはどうやら女性のファンをより獲得することに貢献しているように思える。彼女たちは三人称視点で観ているので「味方だと思って感情移入していた」登場人物が悪の親玉でも「ああびっくりした」ですむようだ。でもね、一人称でそのドラマを観ていた男たちにとって、それは許されざること。もしも貴女が「彼はいったいなにをそんなに怒っているのだろう」と思うような状況に出逢ったとしたら、それはそういう視点の違いから起こる差異かもしれない。男ってバカ、と呟いてなだめてあげて。

 英語圏で、オタク(otaku)はすでに認知され、美少年(bishounen)と美少女(bishoujo)も日本語のままで浸透している。その二単語から「米製日本語」(?)として最近、ビーシーズ(bishies)という言葉が使われ始めている。

 ビーシーズという言葉は、やはりアメリカンオタクたちの心理的防護線だろう。
 日本オタク文化において、美少年とは「美しい女性のような」少年のことであり(ショタ)、美少女とは「愛らしい子供のような」少女のことである(ロリ)。造語で表されるくらいなのだから、これまでの英語圏には、その価値基準がなかったということである。当てはめる言葉がないので和製カタカナ英語が生まれてしまうのと同じことだ。アメリカンなゲームをやるとよくわかる……男はマッチョ。女はグラマラス。少年や少女の描写は、完全にセクシュアルな匂いを排除して行われる。洋ゲーのヒロインに萌え萌えだという日本人男性を、私は知らない。だが、ヤンキーどもはロリショタに勃起したのだ。痛快なことである。ここで日本人オタクのほうが美を愛でるセンスが奥深いなどと発言しては問題があろうが、FBIがチャイルドポルノを最重要撲滅犯罪にあげ、牧師による児童への性的虐待が深刻化するその国で、オタクたちは「それはそれとしてビーシーズ萌え」という概念を発明したのだ。拍手に値する。言葉が当てはめられると、それは文化になる。秋葉原に来て「うちの国では全員逮捕されるくらいこの国にはチャイルドポルノが氾濫している」と某国の大臣が言ったが、彼女が指差していたのはビーシーズだ。ギャルゲーだったのである。実写ではない、二次元の見た目は「愛らしい子供のような」しかし設定上は小学生でも中学生でもない美少女。アメリカンオタクたちは言うだろう。

「我々の文化にはビーシーズがなかった。エヴァンゲリオンの渚カヲルが美少年でなくアメコミに出てくるような少年らしい少年だったら、あの作品のあの場面に我々は魅入っただろうか?」

 まあ、だからってビキニのゴージャス美女よりもスク水中学生に萌える趣味が正当化されるとは思わないが、ビーシーズという言葉の発生は、彼らが受けいれることを選択した証左であろうと吉秒匠は分析する。

 アメリカ産ハードボイルドな主人公に日本が席巻され。
 日本産ビーシーズが彼らの価値観を変える。

 相互理解ってものだ。
 ぶっちゃけ、ジャック・バウアーの娘はビーシーズ的美少女にしたほうがよかったのではないかと強く強く思う。地下核シェルターでヲタク男に幽閉されかけたキムは「キミは暴れればその彼に勝てるよ」と思わせるほどだった。なぜにアメリカンドラマの少女というのは肩幅がああも広いのだろう。ヲタ男の配役にはちゃんとナヨった男が選べるのに。
 引き出しが増え、世界の娯楽がもっと純粋におもしろくなれば、そんなに素晴らしいことはない。

 『24』を観てそんなことを考えた、これが私の感想です菅野彰センセ。

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