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映画『オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主』の話。




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in the U.S unpublished, movie "Odd Thomas" Japan Roadshow!!

 あちらでは刊行されている『Odd Thomas』シリーズの最新刊が、いまだ影もかたちもない。Moonlight Bay Trilogyと称されるシリーズは『Fear Nothing』が超訳されてしまったおかげで続刊が訳されないまま(作品への愛や、翻訳者の使命などから切り離された、ありえない、まさに超訳)。そのほかにも新旧問わず、紹介されないままの作品が山とある、そんなディーン・クーンツ後進国、日本。

 そんな日本で、全米では未公開の映画『オッド・トーマス』が公開された。
 というわけで!!
 全米に向かって自慢する。

 代表作でさえ当たり前に数年遅れでやって来るこの国で、映画館で『オッド・トーマス』ロードショーがあったから観てきた。いっしゆーかんげんてーだけろ(せっかくの自慢なので今回、不利な情報は翻訳ソフトで英訳できないように微ハナモゲラ語で記述します)。

 原作『オッド・トーマス』シリーズと、映画『オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主』がなぜ全米公開されないのかなどの詳細は、過去の記事からどうぞ。

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『オッド・トーマスの霊感』の話。

『オッド・トーマスの受難』の話。

『オッド・トーマスの救済』の話。

『オッド・トーマスの予知夢』の話。

映画『オッド・トーマス』の話。

『映画「オッド・トーマス」の呪い』の話。

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 ふまえて。
 ゆーちゅーう゛では多国籍わんぴーす版が流れ、ネット予約のチケットを手にしたその夜に某オンデマンドで本編むろうはいしんされたり、観るだけならばいろいろ手段はあったのですが、しかしそんなあれこれはすっぱり忘れて、これこそが重要。

 劇場公開。
 さあ、言葉なんていらない。
 ネイティヴジャパニーズなあなたが見たところで、ニッポン大阪梅田の他愛のない劇場の他愛のない風景を写した写真たちでしょうけれども。
 見せたいのは、あなたにではない。
 
 うらやめ全米!!
 そして嫉妬するがいい。
 映画『オッド・トーマス』先進国のさまを見よ。

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Japan screening start date of the movie "Odd Thomas" was the day of the Osaka Umeda New Year EBISU(戎) festival.

 その日は、2014年の1月10日。
 大阪では「しょうばいはんじょでささもってこぃっ」と魔術めいたかけ声とともに、紙でできた千両箱が数万円で飛ぶように売れるという日である。せっかくなので覗いてみた。後悔した。映画『オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主』がはじまるまでにまだ時間があったため、まったく信仰心などなく、どんなに万札飛び交い狂乱の様子になっているものかと野次馬根性だけで大阪梅田、堀川戎神社の参道に足を踏み入れたらば。

 大阪は19時。
 ヒトの列、1ミリも動かず。
 あまりの人出に警官隊が参道の左右を封鎖してしまっているため、途中抜けもできず。信じてもいない神に逢うために境内にたどりつき参らなければ帰してもらえないという状況。おう、公開初日最後のレイトショー、もう席は押さえてあるというのに。映画『オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主』よりも大事な神なんて私にはいないというのに。

 いちおう十円玉投げて手は合わせました。
 しかしまあ横で着物の水いお姉さんたちが数万円の紙オブジェで笹エビスツリーを飾り立てているわけですから、十円でも千円でも変わりはないでしょう。えべっさんは商売の神なわけで、だったら御利益は金積んだひとが持っていけばいい。
 そんなのはもういいから私を大阪駅前第四ビル前に帰してくれ。
 その願いは叶って、無事帰還。

 大阪は夜の20時。
 梅田ブルク7に到着。

Movie_odd_thomas_02

In a movie theater in the seven floor of the beautiful high building is located in front of the station, I watching the movie "Odd Thomas".

 ブルク7の7は七階だってこと。
 掃除するの大変そうなガラス張りのビルです。
 いまいちど書いておきます。
 私は長年のクーンツ信奉者ですが、映画館でクーンツ作品を観るのは初めてだった。そんな私にとって、仮面ライダーとオッドくんが並んでいるのは、それだけで涙腺を刺激される光景です。ここは日本なのです。私が幼い頃から愛してきた仮面のヒーローと、二十代以降の私の人生を変えたと言っていいクーンツ師の生み出したヒーローが、同じように「観よ!」とポスターを貼り出されている。

 いっすーかんげんてーで、れいとしょーしかないんですけど。
 それを差し引いても、私の生涯における一大事。

 事情が事情なので仕方がないのですが、写真を撮って自慢しようにも、劇場内でスクリーン写すわけにもいきませんし、ポスターやチラシやチケットの類しか被写体がない。売店もなく、タイバニのバカでかい販促ボードは飾られていましたが、オッドくんのは、なし。パンフレットやポスターが販売されていれば、あるだけ買って帰る用意が私にはあったのに、もったいないことです。まあいいです。全米公開がいつかあったら、そのときポスターは入手します。素晴らしきかなインターネットワールド。

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movie "Odd Thomas" Japanese exact title is "Odd Thomas / The god of deatha vs Saviour odd ".
a Japanese characters that are written on the poster is "ahead Nippon!!".

 そんなこんなで写真は終わりです。
 以下、端的に感想を。

 私が前日にインターネットを使って座席指定予約した時点では、初日二回の上映とも、十席ずつも埋まっていなかったので席は選び放題。さすがに22時半に終了の上映では客の入りは厳しいのか、と思いつつ、当日になってみれば、あらまあ。座席の半分は埋まっていました。244席ある劇場です。振り返って正確に数えたわけではありませんから、予想より入っているなあという私のひいき目もあるでしょうが。その点を加味しても、百人前後は確実に埋まっていた。なかなかの熱気です。

 クーンツ師が、この映画を絶賛した、という前情報が私にはあったので、ある種の予想を立てていました。おそらくは、原作を正確になぞった作りなのだろう、と。いくら映画として優れていても、自分で書いた原作をないがしろにされて喜ぶ作者はいない。

 予想は当たりました。けれど、半分だけ。

 奇妙な救世主オッド・トーマスと、その彼女ストーミー・ルウェリンの描写は完璧です。映画化にさいして私がもっとも懸念していた「あのラストを映像化なんてどうやって?」が、思いきりのいい描写で、見事に仕上がっていました。師が絶賛したのも、まさにこの部分が大きかったのだと思う。私は原作を擦りきれるほど読んだ身なので、驚きという点では採点ができないものの、見知らぬ近しい席の観覧者から「ぁ」という悲鳴に似た声があがるのを聞きましたし、私の隣では、原作は私から借りていちど読んだだけの妻が、ふるふると震えて私の腕を掴みましたし。私は少しわかりやすく描きすぎではないのかと感じたその具合こそが、多くのかたにはちょうど良い具合だったようです。

 それも含め、外した予想の半分は。

 改変ではなく省略という形で、思いきった構成になっていたこと。

 クーンツ師は「小説屋にはユーモアが必須だ」と口癖のように言います。ホラーであれサスペンスであれ、それが必要だ、と。けれど、師の書くユーモアというのは、声をあげて笑うようなそれではなく、いわば「間」なのです。ジェットコースターにはゆっくりとした上り坂の部分が必要である。その作法を師は、ユーモアが必須、と表現している。
 言いかえればそれは。
 物語上における「癒し」の要素でもある。

 そこを映画はばっさりやっちまいました。
 上り坂なし下りっぱなしのジェットコースターです。おそろしく短い一時間半でした。あれ、もうこれラストに近づいているよね、と、いぶかったけれど、私の時間感覚が圧縮されていただけで、ちゃんと時間は経っていた。クーンツ師も、同じような感想だったのでしょう。そして、自分ではできないその省略を、褒めたたえた。

 映画では、オッドくんが物書きであるという設定がない。
 小説『オッド・トーマス』は、オッドくんがみずから記述する手記という形であって、その形態こそが物語の展開そのものに密接に関わっているのですが、そこを省いた。その結果、物書きオッドくんの師匠であるリトル・オジーも存在する理由がなくなり、小説屋としては登場しません。そしてオジーと並ぶ『オッド・トーマスの霊感』における癒しキャラの双璧、エルヴィス・プレスリー(幽霊)も登場しない。

 この省略をクーンツ師が誉めたのには、理由がある。

 オジーは、ワンシーンですが、謎の手先が器用なデブとして映画に現れます。エルヴィスは、オッドくんの部屋に、等身大のパネルが飾られているという設定で無視はされていない。「おはようエルヴィス」とオッドくんが語りかけるシーンまである。

 これらのシーン。もちろん私はニヤついて観ましたが、原作ファンへのサービスでないのは明らかでした。それはファンと同時に、原作者ディーン・クーンツへの制作陣からのメッセージでもあった。

 今回は超速ジェットコースターに仕上げるため省略いたしましたが、忘れてはおりません。オジーも、エルヴィスも、続編では癒しキャラの立ち位置に甘んじず、欠かすことのできない重要キャラクターですものね、先生。

 そりゃ絶賛する。
 原作シリーズを読みこんでいなければできない配慮だし、それだけクーンツ・タッチというものをわかりながら、シリーズ第一作を、思いきって一気に観られる超娯楽作でまとめてしまった。私も唸った。そう、クーンツ師にユーモアは必須。だから、師がみずから脚本を書いたら、こういうハイテンションな作品にはぜったいに仕上がらなかった。そしてだれがどう観ても、今作、映画『オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主』は、この仕上がりが大正解だった。

 ラストシーンのあと、立ち上がって拍手したかった。
 どうして日本にはスタンディングオベーションの文化がないのだろうと歯がゆかった。だからここでいま拍手する。
 大声で言う。

 すばらしい仕事でした!!

 途中で金が尽きたという、その結果の訴訟だという。金は尽きたけれど、彼らはかき集めて、完成させた。最後の最後まで金を惜しまないゴージャスな映像である。やめられなかったのだろう。確信があったから、公開不能になってでも、撮りきらずにはいられなかった。

 彼らの『オッド』への愛に。
 共感と賛辞を惜しまない。
 彼らは私に宝物をくれた。
 ありがとう。
 できればひとりずつ抱きしめて耳たぶを噛みたいくらいです!!

 愛といえば、この映画の大事な場面で、ワイアット署長がオッドを「son」と呼ぶ。けれど字幕は「オッド」だった。クーンツも、インタヴューで、たびたびオッド・トーマスを「son」と呼んでいる。

「息子よ」

 では確かに、おかしい。けれどただ「オッド」と名を呼んだだけでは決して、ない。日本語は他の言語、特に英語に比べて、感情の機微を表現するのに優れていると言われるが、ワイアット・ポーターが、ディーン・クーンツが、すばらしい息子オッド・トーマスのことを、実の息子ではないけれど「son」と呼ぶ、その心情を的確に表現する日本語を、私も思いつけない。

 ディーン・クーンツがまだディーン・R・クーンツと表記していたころ、師の作品の映画化は、純然たるホラー映画としてのものがほとんどだった。新世紀になり、師の作風も変わり、ついに「ちゃんとした」映画化をされてみて、その映像を観て、気づく。

 そういえば、クーンツ作品は、他人同士が出逢う話ばかりだ。
 映画『オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主』で、オッドの住むアパートの一階にいる女性を、原作を読んでいないかたは祖母かなにかかと思ったかもしれないが、彼女もただの大家で赤の他人である。オッドくんの母親が病院に隔離されていて、その手はずを整えたのが父親だということは描写されている。だが、そんなオッドくんが出逢ったストーミーというソウルメイトが、両親を亡くしているうえに苦難の人生を送ってきたことには触れられていない。それでも、結婚の約束をして、ともに働いているふたりが、なぜだか別々の部屋に住んでいることは描かれていたから、あれ、と違和感をおぼえたひともいるかもしれない。

 オッドくんとストーミーのあいだには越えられないものがあり、ふたりのまわりにもやはりそれがある。それでも、ふたりは愛しあい、みなに愛されている。ピコムンドという小さな砂漠の町、一時間半の映画のなかに出てくる善良な人々すべてが、家族のように思える。それこそ、クーンツの理想郷だ。この世は楽園ではない。けれど愛はある。

 クーンツの育ったのは、アメリカにおいてもとりわけ歴史ある土地である。アメリカにおいて歴史があるという表現は、植民地と占領という事実に結びつく。アメリカは、アメリカを自らで作った国だ。その土地で、実の父親の暴力に耐え、出逢った妻の支えで物書きとして身を為した。子供のいないクーンツが、オッドくんを「son」と呼ぶのは、英語でもやはり、他に対応する言葉がないからなのだろう。いや、使い分ける必要がないのだ。愛はどんな愛も愛であるように、息子のような存在は息子でかまわない。そう呼び、それをみずから認め、伝え、現実に触れあうことで、家族は「作られる」。

 というのならば。
 ディーン・クーンツの息子オッド・トーマス。
 彼と彼の物語を愛したスタッフによって映画化は為され、それに触れたいま。
 私はまた、オッドくんとの絆を確認した。
 忘れたり、思い出したりではなく。
 そばにいる。
 ずっといる。
 もうすでに私も家族になっていることを知った。

 いまいちど書く。
 私はディーン・クーンツの書いた数十の作品を読み、いくつもの映像化を目にしてきたが、映画館でクーンツ作品を観るのは初めてだった。
 だから、その事実だけで興奮極まっている。
 冷静な目で、この映画が傑作であるのかどうかを判断することができないし、だれかれかまわず勧める気もない。

 ただ、これは伝わっているとうれしい。

 四半世紀にわたってディーン・クーンツを読んできた私にとってもオッド・トーマスは特別な存在である。そして、この映画『オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主』のなかに、オッド・トーマスは確実に存在する。

 彼を嫌いなひとはいないはずだ。
 彼の彼女を嫌いになれるひともいないと思う。
 だから、出逢ってみて欲しい。
 小説も素晴らしいが、その魂を凝縮したあっというまの一時間半で彼らに出逢うことができるだなんて、そんな奇跡はない。
 と、私は思う。

 そして、もしもあなたが、原作を読まずに初めてディーン・クーンツの生んだ奇妙な救世主の物語に触れるのならば、ちょっとしたマニアの私が、お節介にも知っておくとよい情報を書いておくので、これを読んで劇場へ行って欲しい。

 ふたりはそれぞれにトラウマを抱えている。
 性と暴力。

 ストーミーは、セックス恐怖症だ。
 彼女が贈る口づけも晒す下着姿も、リハビリでありオッドへの申し訳なさを含んでいる。そう、映画のなかでふたりは熱々だが、キス以上を知らないプラトニックな関係なのである。

 オッドは拳銃恐怖症だ。
 ストーミーに懇願されても、決してそれに手を触れることができない。身を守るためには戦うが、単純な暴力の象徴である銃には触れられない。触れられないのに、彼はこの映画のなかで、銃に手をのばすのである。その刹那のオッドくんの表情に、私は俳優アントン・イェルチンも原作を読みこんできていると確信した。

 それぞれに越えられないものを抱えたまま、けれど彼らは、映画のなかで笑い続けている。人生は素晴らしいものだと、迷わずにいる。
 
 最後に。
 逆のパターンで思案中のあなた。
 映画『オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主』を観たうえで、原作を読もうかどうしようか迷っているあなたへもひとこと。映画では描かれていませんでしたが、オッドくんの右の手のひらには、ミルクのようにまっ白な三日月形の母斑があるのです。そしてストーミーの右胸のふくらみにも、同じ形の褐色の斑がある。
 ふたりの母斑は、ぴったりと重なる。
 ふたりは他人なのに。

 このエピソードだけでも、読みたくなってきません?
 迷うことなんてないですよ。
 さあ、オッド・トーマスを、あなたのそばへ。

I watched the movie "Odd Thomas".
And I, to live with Odd soul. 

 映画『オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主』を観た。
 オッドの魂とともに、これからも生きていく。

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映画『オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主』公式サイト

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ODD THOMAS

ODD THOMAS

関連記事・・・・・・・・・・・・・・

『Dean Koontz師のサイン本』の話。

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