最近の記事

スポンサードリンク

月別アーカイブ

『魂の発見』のこと。


 膀胱の圧力で、いつものように朝立ちをしていたために、もっとべつのアイディアも浮かんできた。ピーターは、午前二時か三時にむらむらして目を覚まし、キャシーも起きているのだろうかと思いめぐらすことがよくあった。もしもキャシーが起きているなら、ふたりで愛をかわせるかもしれないのだが、そのためにわざわざ彼女を起こす気にはなれなかった。しかし、モニターがどちらも白色になっているならば、まあ、その、ホブスン・ベイビーモニターから発展した装置が、たくさんの赤ん坊の誕生に貢献することになるかもしれない……

TTE

 ロバート・J・ソウヤー
 『ターミナル・エクスペリメント』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 初めての子を産んで三日で亡くした。
 夫妻は赤ん坊の泣き声をワイヤレスで聴くベイビーモニターを使っていたが、彼らの子は静かに逝ってしまった。そのために彼女は、一年後に次の子を出産したあと、片時も我が子のそばを離れることができなくなってしまった。

 ホブスンは、そんな友人夫妻のために、赤ん坊の脳の電気信号を読みとるモニター装置を開発する。その機械は発展し、ひとが起きているか起きていないかを判別して自動的に電話のベルを止めたりするようになり……

 ホブスン・モニターは、やがて、ひとの死を観測するに至る。

 そこで驚くべきことが判明した。
 微弱な電気信号が、ひとが死を迎えるにあたり、体内を移動して、最終的には肉体の頭頂部にあたる位置から、外界へと抜け出していく。

 「魂」の発見である。

 発見したからには、解明される。
 魂が肉体の死後も生き延びてそこから離れるならば、いつ宿るのかも解明され、胎児はいつからひとになるのかの議論に終止符を打つ。雄牛に魂はないことが判明したのである。

 魂とは「ものを考える」生き物にしか宿らない。

 『ターミナル・エクスペリメント』では、その後、肉体器官である脳を持たない魂だけの存在を作り出す。解明され、擬似的にシミュレートされた魂。すなわち「死後の生」を生きる魂は、なにを語り、どう行動するのか。

 世界的に売れた臨死体験を扱った書籍が、ついこのあいだ邦訳された。どこの本屋でも平積みになっているのを見かけるので、本邦での売上げも好調なようだ。

PoH

 『プルーフ・オブ・ヘヴン』の作者、エベン・アレグザンダー医師が、インタヴューで答えていたのを聞いて、私はSFサスペンス・ホラーの傑作でもある『ターミナル・エクスペリメント』を連想したのだった。

 エベン・アレグザンダーは幼いころに養子に出されていたため、実の親兄弟との面識がない。だが、死後の世界で、逢ったこともない実の妹に遭遇し、彼女の導きによって生の世界へともどってくるのである。もちろん、臨死体験中の彼は、出逢った女性が逢ったことのない妹だとは判別できず、ただ「美しいひと」としてその姿形や、語られた言葉を「記憶」していた。だがのちに、彼は、実の両親と現実に面会することになり、自身が死にかけていたそのとき、すでに若くして死んでいた妹のいたことを知る。彼は、彼女の写真を見て驚く。

 あの美しいひとは、ぼくの妹だったのか……

 という重要なくだりに関して。
 インタヴュアーが訊いた。

「あなたはそのとき、脳の活動が停止した状態だったはずですけど」

 うむ良い質問だね、と彼は言いました。
 そう、ぼくの脳は働いていなかった。
 ぼくは脳死から帰ってきたんだ。
 なのにどうして「記憶」ができたのか、だよね。

 記憶は脳だけがつかさどるものではないかもしれない。

 ……ほう。
 つまり、あれだ。
 超サッカーの上手い兄の心臓を移植された弟がプロサッカー選手になる某人気サッカーマンガのような。網膜を移植されて殺人の光景を見てしまうホラー映画のプロットのような。
 いや、彼の言っていることは、もっと大胆だ。
 移植された臓器の記憶というのは、いわば残留思念とか、印画紙に焼きつけられた写真のようなもので、記憶というよりは、ただの「画」。そういう体験談も、実際に語るひとは多いが、もちろん現実問題として解明されている事象ではなく、どういう仕組みだかよくはわからないものの、映画やマンガの題材として使われるくらいに、なんとなく情緒的にはわかるような気もする。忘れられない光景を見たら瞳に焼きつき、死にかけるほどピッチを駆けめぐったサッカー選手の心臓は、心筋でその興奮を記憶するということはあるかもしれない、と。

 でも。
 「美しいひと」、である。
 そこには主観が入っている。
 主観というのはつまり、三十代で死んだ逢ったこともない実の妹を、彼が生身の年下の女性を「美しい」か「美しくない」かで選り分ける現実生活のいつものクセで評価して、こいつは好みだ記憶しておく価値がある、と判断したということにほかならない。

 本の売上げを考えた場合、ここは非常に重要である(彼にとっては実体験であるのだから、責められるべきところではないのだけれど)。

 臨死体験で、すでに死別した両親や祖父母に出逢うという話はよく聞く。あんたはまだこっちに来るには早いよおもどり、などと言われるのは、臨死生還のお約束といってもいい。

 これに対し、エベン・アレグザンダーが声を大にして推すのは、まさにそれ。

「ぼくは妹に逢ったことがないんだ」

 逢ったことがない人物に逢ったのだから、あれはぼくの脳が生み出した幻想ではない……そう、なにげに世間一般に流布される臨死体験談の多くを、本人の脳が作りあげた幻想の産物だと言いきってしまっているところが、ベストセラーの秘訣。

 だがしかし。
 三十代の美しい妹、だから、まあなあ、という感があるものの。
 たとえば、五十代のワキガのひどい兄貴、だったらどうか。
 いや、ワキガがひどいと記憶してしまいそうなので、むしろスーツが着こなせていない疲れた様子の痩せ男、とか。

 つまるところ、そういう話を聞かないのが、疑わしい。

 これらは、記憶がどうというよりも、ホブスン・モニターで観察すべき魂の実在の問題である。正直言って、私は私が逝ってしまえば世界はすべて消え去るのだという考えの無神論者なので、死後の世界という概念自体が、どうも気に入らない。気に入らないが、私の気に入らないものはたいてい世の中に実在するというのも経験的に知っている。だから、死後の世界というそれそのものは受け入れるとしよう。あってもいい。それはいい。

 ただ、ホブスンの観察したように、ひとが逝ったとき、頭頂部から抜ける謎の電気信号があったとして、それがさまよえる霊魂のようなものになったとして。空間や物体などに写真のように焼きついて留まっているがために、あなたの肩に女の影が、とか、あのトンネルでうずくまっている子供が、というのは百歩ゆずって許容したとしても。

 魂が美醜を見分けるとか。
 それはやめて。

 エベン・アレグザンダーは、バーコードハゲな兄貴に肩を抱かれてこの世にもどってきて欲しかった。美しい女性に逢ったから、その言葉に従ってぼくはもどってきた。などと言われたら、もしもキャシーが午前三時に起きていたとしても、子作りに励むのはともかく、ちょっとアブノーマルなプレイは躊躇してしまう。

 だって、さまよえるおじいちゃんの魂が見ているかもしれない。

 見ていたっていいよ。魂とか幽霊とかは、別にいたっていい。でも、それらに「美しい」と判断してから記憶するような知的生命体のようなそれが残っているというのは……「美しい」ことを感じるなら「醜い」ことも判別するし、もっと言えば「こいつキモっ」とか「そのプレイ、エロっ」とか思う、ということである。

 私はキャシーと、きっとおじいちゃんが想像もしたことのないプレイに興じている。二世代も離れれば、そういうものだろう。

 そう考えると、怖い。
 すでに脳が死んでいるのに、頭頂部から抜け出た電気信号の私に、生前のいまと同じような物事を判断して感情で処理し、なおかつ記憶までできる能力が備わっているのだとしたら。そんな私が、もしも死後、さまよってしまったとしたら。

 未来人のとてつもないセックスとか、オナニーとか、見なくちゃならんわけだ。
 おそらく、というか確実に、ほう、と感心して終われない。
 想像もしなかったそれを、驚きの科学力でそんなところに挿入してそうするそれを私もやってみたいと願うだろう。逢ったこともない妹に萌えられるくらいなのだから、やったことのないプレイをやってみたいと願うくらいのポテンシャルが死後の私にもあるということに違いない。しかし願っても、私は電気信号。肉体がないのでずぽずぽもねちゃねちゃもねるんにゅるんも、なにもできはしないのである。

 ああ、我が子孫たちよ、平和でたのしそうでなによりだ。
 なんて思うわけがない。
 私は、悪霊になる。
 そういうプロセスを、ぜったいに辿る。

 魂があれば、幽霊もいる。
 魂が記憶するならば、幽霊もする。

 ということは、いますでにこの世界は。

 私のまわりには、嫉妬に狂う亡者がひしめきあっている。性生活にかぎらない。白米を好きなだけ炊いて食えるというだけで、曾祖父あたりまでさかのぼれば、肉体のない魂だけの身で見せられるのは狂乱の沙汰だ。ビール飲みながらピザのチーズをとろーんとさせて、テレビのなかで暴れるアメリカ人レスラーを笑いながら見ている私のことを、軍服のご先祖さまが、にこやかに見つめてくれているとは思えない。  

 エベン・アレグザンダーがインタヴュアーに答えた。

 記憶が、脳だけでおこなわれるものではないのだとしたら、いったいどこでどんなふうにそれはおこなわれているのか解明していくのも、これからの科学の役割なのかもしれません。

 やめて。
 そんなことを言うな。
 怖い。
 死後の世界はあってもいい。
 でも、そこでも生きているいまとおなじように「ものを考える」だなんて。私も大切なひとを亡くしたことがある。けれど、その仮説は救いに思えない。私自身にとっても、ほとんど呪いである。

 生きている。
 それが意味であって欲しい。

 生きていた。
 今年も終わり、いつか逝く。
 ひとは肉だ。
 腐らない肉はない。
 みずみずしいうちに、傷ついても治癒できる血のかよった肉のうちに、とことん傷ついて、美しいとか醜いとか、嫉妬とか大好きとか、やりきっておかなくては。

 数年前の元日にバイクで転びました。
 その古傷がこの年末、痛んでいた。
 癒えないものもある。
 次に転んだときには、起き上がれないかもしれない。

 今年もありがとうございました。
 そう言えるしあわせ、奇跡、この駄文。
 愛してる。我がソウルメイトのみなさま。
 来年も血のかよった肉であったなら。
 魂、削って血反吐吐く道を歩き続けましょう。
 書いて思う、なんだよ今年もとか、来年とか。
 盆も正月もおれらみたいなもんにあるものか。
 続けるだけ。
 腐るまで。
 肉だ。
 魂なんて、どうでもいい。

TRACKBACK http://yoshinogi.blog42.fc2.com/tb.php/515-7841c45c