代表作は『シェンムー』と『セガガガ』と『カルドセプト・サーガ』。
セガっ子にとっての永遠の男爵、冲方丁。
うぶかたとう。
そんな男爵の小説界での金字塔『マルドゥック・スクランブル』シリーズの映画化が完了した。
いや、完了したのは昨年の話なのですが。
三部作の三作目が先月、やっとディスク化されたのである。
ファンなら劇場で観ろ、というもっともな声もありましょうが、なにせこのシリーズ映画化、三部作ですが一作が一時間。あわせても三時間。もちろん都心のマニアックな劇場でしか公開されない。私が働くのは辺境の地。一度に観せてくれるならまだしも三回にわけられると、都合三回分の休日が飛ぶ。三年で三回とか多すぎる。困ります。
というわけで、それぞれ劇場公開から一年の間を開けてのディスク発売を待ち、それを観た。三作目は、いま観た。だから2010年11月6日に劇場公開された『マルドゥック・スクランブル』のシリーズは、三年後の今日、私のなかで完結です。
なので、いま祝う。
すばらしい映像化でした。
満足しました。
よーしさっそくブログに書くぞ、と言いたいところなのですが。これ読んでいるあなた、たぶんまだ観ていないでしょう? なにせ駅前の大きなTSUTAYAで検索かけましたが置いていなかったくらいですから。ぼくらの男爵、渾身の映画化とはいえ、やっぱりそもそもがダークネスな物語で、家族揃ってみんなで観て、というようなものではない。それに加え……
三時間とか、短すぎる。
おそらく、この映画に食いついたひとの半分は、原作小説のファン。あとの半分は漫画版を読んだか、大物声優さんテンコ盛りなので、そっち方面のかた。
そこで男爵、考えた。
いっそエッセンス。
そう、この映画化、小説を書いた本人である冲方丁が、脚本を書いているのです。それゆえに、物語っている側も、観ている側も、だらだらした展開は望んでいない。小説であれ漫画であれ『マルドゥック・スクランブル』という物語を事前に摂取したうえで観ないと、三時間では説明不足な部分が多々存在するのです。
なので、映画の内容について語りたくありません。
すばらしい出来ですし、主役トリオを演じる、林原めぐみ、八嶋智人、東地宏樹、の圧倒的クオリティな声優演技があれば失禁できるかたは、物語はどうでもいいでしょう。観てください。それぞれの魅せ場たっぷり。つゆだくです。
ですが、この私の『徒然』を読んでいる通りすがりでないあなたには、ぜひとも強く、原作を読んでから映画。これを遵守していただきたい。貴重な体験ができます。忘れられない作品となるはずです。
つーことで。
映画の内容には触れませんが、いま観て、なにを祝うか。
なにかやりたい、書きたい。
そうだ男爵オンみずからの脚本化。
ばっさりざっくり物語が削り取られていることを原作ファンとして、ああ、あすこのシーンが無え、などと思いながら、一方、それによって、唸った部分もあった。
そこ、残るんだ。
いやまあ、残すよね、そこは。
つまり、それが言いたかったわけね。
エッセンス。
原作を読んだときに心に残っていた部分が、原作者の手によっての取捨選択の果て、三時間のなかに残っていたのを観たとき、読者はカタルシスを得る。自分の読解が、作者の思惑と一致していたということですものね。それこそドッキング。一体感です。物語る側にも、語られる側にも、身もだえできる瞬間。
『マルドゥック・スクランブル』は、けっこう魅せ場がわかりやすい。
かなりの率で、読者と作者の「ここは残すべき」という思いは合致して、そのシーンが映像化され、原作ファンを悦ばせるものとなっていた。原作有りの映画で、それって当たり前だけれど大事なところ。映画から入ったひとはなんだかよくわからないし、原作のファンもあれこれ削られてブーイング、という最悪なかたちは、最悪ですがよくある。そこを作者本人が的確に采配して、成功していたというのは、さすが男爵です。シェンムーなだけはある。愛すべき友をもて。
わかんないひとはさておき。
それを書きます。
この映画化にあわせ、完全版として書きなおされた原作小説『マルドゥック・スクランブル』から、映画化のさいにも削られず残った作者公認の「物語の核」少なくとも三時間あるならこれは入れておかなくちゃな部分を引用し、その「部分」についてチョイ語る。
そういう祝いで。もしもまだ触れたことのないあなたがそこにいるのなら、あなたの『マルドゥック・スクランブル』への興味を惹けたら、うれしい。
まずは映画第一作。
『マルドゥック・スクランブル 圧縮』

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──こんな感じだったんだ。

冲方 丁
『マルドゥック・スクランブル The 1st Compression〔完全版〕』
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短いセリフだけれど。
ヒロイン、ルーン・バロットは、性的に搾取されて殺された少女。その彼女が科学の力で生き返り、他者を圧倒する力を持つことになった。その力を解放しながら、バロットがつぶやくのです。
男の人たち。
いつも、こんな感じだったんだ。
私は男なので。
言われて、返す言葉がない。
客商売をしています。
よくサービスカウンターで、女性の同僚が言っているのを耳にする。
「大きくて怖い感じのお客さんは得だよね」
それなりに肉体労働がともなう職場。男性社員もひょろひょろなのは少ない。どちらかといえば仕事で筋肉痛にならないために、家に帰っても筋トレやっているようなひとたち。私もそう。でも、平均身長で、平均よりちょっと筋肉量は多い男な私でも、腕力のありそうな男性のお客さんが現れると、怒らせやしないかと身構える。身構えている時点で言いかえれば気合いを入れて接客しているということ。小さくて気弱そうな女性のお客さんだと手を抜くってわけじゃない。違うし、大きな男のお客さんだって、たいていの場合、威圧的な態度をとったり、実際の暴力を行使したりするわけでもない。違うんだけれど、やっぱり、私はその女性同僚のつぶやきにも、返す言葉がない。
特に、ルーン・バロットのような小柄な少女とか。
ほとんどの他人が、自分よりも大きく強い世界。
それは、どういうものだろう。しかも少女は身をもって、それなのに男は自分よりも小さな生き物を力で征服することに悦びを見出しがちであると知っている。
私は宝くじが当たったら、よさげな株でも買おうかと思うが、金があれば他人を征服するために使いたいと願うひとは、存外多いのかもしれない。力を得たら、即行使して「こんな感じだったんだ」と、つぶやく。こんな感じ。その感じを得られることが幸せだとは思わない。けれど、だれかをねじ伏せられる力を得て、つぶやく少女に、やはり返せる言葉はなく、少女の行使する暴力に、魅入る。
映画第二作。
『マルドゥック・スクランブル 燃焼』

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「いるべき場所、いるべき時間に、そこにいるようにしな。着るべき服、言うべき言葉、整えるべき髪型、身につけるべき指輪と一緒に。自分自身の声を、おろそかにせずに。女らしさは運と同じさ。運の使い方を知ってる女が、一番の女らしい女なんだ。そういう女に限って運は右に回るのさ」

冲方 丁
『マルドゥック・スクランブル The 2nd Combustion〔完全版〕』
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得た力に耽溺しそうになりながら、自分を見失わなかった少女が、あこがれた女性。カジノでルーレットを回すベル・ウィングが言う。
女らしさ?
幸運のルーレットは右に回る。
女らしさは運と同じ。
ベル・ウィングの語る女らしさとは、ほとんど隠密行動だ。
でも、運の使い方?
いや、運とは、女らしさ。
すなわち。
女らしさの「使い方」を知る女に幸運は訪れる。
男は小さな生き物を征服したがり、女は自身を「使う」。
少女があこがれた強き者は、少女が知るのとは別の強さを持っている。
強さとは。
他者を圧する力を得ること?
それとも反逆しないこと?
心当たりはある。
ふう。
心当たりがありすぎて、書いていて冷や汗をかく。
映画第三作。
『マルドゥック・スクランブル 排気』

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「体感覚を操作しろ、バロット! 痛みを消せ!」

冲方 丁
『マルドゥック・スクランブル The 3rd Exhaust〔完全版〕』
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出演作品的には私の趣味から少し逸脱するのだけれど、読書家で知られる某アダルトビデオ女優さんのブログを、もう何年も読んでいる。そういうアーティストさんのブログを何年も読めるということ自体が稀有なことだが、彼女は、仕事を辞めてもブログを続けている、というのではなく、いまだ現役なのだ。
私なんかよりもずっと熱心に、彼女は三部作が公開されるたびに、劇場に足を運んでいた。もちろん、原作小説は読んでのうえで。大ファンなのだそうだ。そういうブログを読んでいたので映画『マルドゥック・スクランブル』を観ながらも、ときどき思ってしまった。
虐げられ、力を得て、それでも自分を見失わずだれかにあこがれ、だれかとともに生きたいと願う少女ルーン・バロットに魅入られたAV女優のことを。何年もやっているので、撮影に対する泣き言もときにはブログに書いてしまう、彼女の視点を。
特に、ラスト近くの、アクションシーンのなかでのそれに。
少女は改造人間になって自分の体感覚を操作(スナーク)できるようになったが、そのまえから、ただの人間の少女のころから、そうやって生きてきた。
映画では、その独白は大幅に削られている。
けれど原作を読んで劇場に足を運んだ彼女は知っている。
心臓が止まるか、発狂するか、無になるか。
演じるということは、自分を無にすること?
無になったその洞に、違うなにかを詰めること?
そうではない。
バロットは無になり、殻に閉じこもり、痛みを消す。
そして殻を破って、もういちど目覚める。
私は笑む。
時間軸はずれたけれど、同じ映画を隣で観ている彼女のことを、少なからず想った。出演作は趣味ではないが、その生き様からは目が離せない。彼女は、痛みを消せと叫ぶ金色のネズミに、けっして「そんなのは簡単なこと」と答えはしない。胸は痛むはず。心臓が止まるほど。それなのに。いや、だからか『マルドゥック・スクランブル』を愛している。
物語の力を思う。
これが、彼女のブログ上の演出だとしたら、私はまんまとノせられているのだが。ルーン・バロットの「力」が、現実世界でだれかを支え助けている。それは彼女のことではない。彼女は現実に存在するアーティストで、アイドルで、彼女の愛らしい喘ぎ声があるから生きていける、そういう希望を現実に振りまいている。それを観て私も、傷ついているひともいっぱいいて楽園にはほど遠いにしても、この世界はすげえいいところだと涙する。
あなたはいま、この文章をどこで読んでいるのだろうか。
ここまで、五分か、十分ほど、使わせてしまっただろうか。
もしかして、いまから出勤ですか。
だったら、行ってらっしゃい。
ねえ、ここは、いいところだって。
そう思いません?
私は思う。
今日、ついさっき『マルドゥック・スクランブル』を観終わった。
祝、完結。
いろいろ考えた。
個人的すぎて、あなたには伝えられないようなこともたくさん。
なかなか、力のある物語だ。
あなたも、よければ、そういうものを必要とされているときに、ああそういえばあの野郎が薦めていたそういう小説と映画があったなあ、と思い出して。
時間軸はずれても、心の底から、隣であなたにも観てほしい。
気に入れば、小説には続きもあります。
(間違えました。続きではなく、前日譚です)



男爵は、どこかで、あわよくば『マルドゥック・ヴェロシティ』もアニメ化したいと発言していました。生けるジャパニーズ・サイバー・パンクの旗手のひとりとして
シュピーゲル・シリーズ
も好調。ご本人はラノベ辞める的発言されていますが、辞めると言って戻るのがエンターテインメントスポーツの常道ですし。
無尽蔵なご活躍を、勝手に期待しております。
あ、もちろん『シェンムー』の続きを、なによりも、なによりも、なによりも、なによりも待っていますけれどね、むろん。未完なんていうのは、ケジメを重んじる男爵の美学に反さないのでしょうか。待っています。待っています。待っています!
(待っていますが。でも、当時のプロデューサー発言からすると、すでにシナリオはラストまでできていたと読みとれるんですよねえ。ゲームにしなくてもいいから、シェンムーの樹が物語のなかでどういう意味を持つのかとか、この途中で終わってすっきりしない感をどうにかしていただけたらそれでいいんですけど。どこかでこっそり男爵が漏らしてくれないかなあ。もうどうせセガは握ったまま作らないでしょう。いいんじゃないかなあ。そのあたりが逆にケジメなのでしょうか。ちぇ)
