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『Andy Warhol Presents: FLESH』のこと。




 東京の国立国際美術館で、ウォーホルの『200個のキャンベル・スープ缶』が日本初公開されているそうで。

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『アメリカン・ポップ・アート展 American Pop Art From the John and Kimiko Powers Collection』

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 いいなあ。と思ういっぽう、ポップって描く行為それそのものが意味なので、アンディ・ウォーホルが「スープの缶詰」を仰々しくキャンバスに描いた時点で、彼はそういうことをやったらしいよ、という伝聞が作品として確立していて、できあがった物理的な「作品」と呼ばれる物体のほうは、どうでもいいっちゃどうでもいい気もする。

 ポップってなに?
 アンディ・ウォーホルって?
 というあなたのために、いつもの吉秒訳で、わかりやすく、かつかたよった、あなたを洗脳することを目的とした話法で、ちょっと解説するならば。

 芸術ってなんなんだよ、という問いは人類を問うことでもある。
 たとえばサルは、かなり人間に近いけれど、萌え絵師の描いたアーティスティックな美少女イラストと、自分の持っている食料を交換することはない。でも、人間はそういうことをする。速い車よりも、見た目にカッコイイ車のほうに、高い金を払ったりする。見た目のカッコイイ人間に、価値があると思ったりする。
 日々、芸術点を採点する、それが人類の人類たる営みの根幹ともいえる。

 二十世紀も終わりにさしかかったころ、ポップは生まれた。
 むずかしい話をすると、その前にダダというのがあったのだけれど、ダダもポップも、噛みくだいていうならば、プロレス団体のユニットのようなものである。全日本プロレスという団体があるが、そのリング上では、思想をわかついくつかのグループが闘争を繰り広げる。悪の軍団がいて、正規軍がいて、改革派がいたりする。
 なんのためにそういうことをするかといえば、ユニットを作らないと、もともと同じ思想を持つ同じ団体のメンバーなのだから、物語が紡ぎにくいので。

 みんなでがんばろう!
 ええがんばりましょう!

 そんなプロレスを観に行く観客はいない。
 芸術界でも。
 売れるには、なにかを主張する必要がある。
 まず芸術と呼ばれるものを破壊、というわかりやすさで推していった、ちょっときつめで怖い感じもするダダ組の運動を見ながら、アンディ・ウォーホルという男を含む、世界各地(おもにアメリカ)の次のチャンプを狙う者たちが、同時発生的に、同じことを考えた。

 破壊より、芸術の新しい意味を創造するってほうがオシャレなんじゃないの?

 同時発生的に偶然彼らはそういう方向性でキャラ立てしようと思い立ったわけだけれど、プロレス雑誌としては、そういう彼らを歴史の流れが生んだひとつのユニットとして物語りたかった。雑誌や新聞が売れるから。
 というわけで、彼らは、ポップ組と呼ばれるようになった。
 けっして、ウォーホル兄さんが「おれがポップ、おれらがポップ、ポップ組から目を離すなよおまえらー」などと、あおったわけではない。

 が、まあ、もともと売れたくてやっているわけだし。
 ゲイだし(なにげに重要)。

 ダダイズム、ポップイズムという言葉はあるが、ダダはなにせ破壊が信条なので「ダダアート」なる呼ばれかたはしなかったのに対し、ポップは「ポップアート」としていまも語られている。破壊の思想をすっ飛ばして、ダ・ヴィンチもラファエロもいいけど、こんなのもクールじゃね? と推すやりかたは、世に受け入れられた。

 彼は、アンディ・ウォーホルという筆名で、銀色のカツラをかぶって、ポップの旗手として売れっ子になっていくことにした。

 「キャンベルのスープ缶」シリーズは、代表作になった。
 味はどうだか知らないが、有名ブランドで、アメリカの家庭では当たり前に消費される、工場で大量生産される「家庭の味」。それは実に立派なものですねえ、と、ウォーホルはキャンバスに描いた。美しい山の風景を描くように、工場で大量生産されたママの味、スープの缶詰を。
 缶を開けずに、缶のまま描いた。

 それはまたクールだねえ、と評価されたので。
 アンディ・ウォーホルは、ファクトリーと名付けた、オープンシステムを構築した。絵を描くアトリエを工場と呼び、工員をやとい、自分の作品を大量生産させる。工場で大量生産された家庭の味スープ缶を、工場を模したスタイルで、大量生産芸術として大量に刷る。それはもちろんウォーホルの作品だけれど、彼は自分で版画を刷ったりしない。銀色のカツラをかぶって、ファクトリーに群れ集うようになった男や女(おもに男)と、優雅にパーティーを楽しんでいる。
 いよいよクールも極まってきたねえ、と評価は高まった。

 その後、夫を暗殺された大統領夫人や、死亡事故現場、牛、毛沢東、花、二十歳上のアメリカ人に嫁いでアメリカのアートを買いあさっている着物姿の日本人女性、マリリン・モンローなどを大量生産して、アンディ・ウォーホルの名は不動のものになる。

 今回、東京に来ているウォーホル作品は、展覧会の副題に書かれているように、ウォーホルに36枚も大量生産された日本人女性、キミコ・パワーズの所蔵品である。自分の絵を買ってくれた富豪の二十歳年下の日本人妻の着物姿を大量に刷って、またその夫に買わせるという図式が、スープ缶システムにさらなる皮肉をきかせたものであるのはいうまでもない。その夫が亡くなって、七十歳を越えた日本人娘が日本で本邦初公開の『200個のキャンベル・スープ缶』の前に立っているというその姿は、現在進行形のポップアートである。

 というわけで、絵自体は、さして意味がない。
 美術館は『200個のキャンベル・スープ缶』をアンディ・ウォーホルの最高傑作とうたっているが、「キャンベルのスープ缶」シリーズの頂点は、どう考えても、田舎青年ウォーホラがカミングアウター・ウォーホルと名乗って、筆でキャンバスにスープ缶を描くことを決めたときか、銀髪のアンディ・ウォーホルも板につき、ファクトリーからはじまる酒池肉林さえも自分のファッションへと昇華させた彼が、金でやとったバイトくんたちに「スープ缶大量に刷っとけ」と命じた、そのときである。

 みずからの出世作である『32個のキャンベルのスープ缶』を過去のものとする『200個のキャンベル・スープ缶』をウォーホルの最高傑作と評すには、さらにそこから時を経て、まるでダダイズムを茶化すかのように「過去の芸術作品」を題材にしはじめ、あげく、ちょっとやりすぎな感じでダ・ヴィンチの「最後の晩餐」までもをポップ化した、晩年の時期の彼自身を最高傑作と見なす視点が必要になってくる。

 ダダと、その後をつなげた者?
 いや、ポップってそういうもの?
 深く考えちゃ、ダメなんじゃないのかなあ。
 いやいや、ダメっていうか、それさえも。
 考えちゃいけない。
 スキか、キライか。
 彼の「作品」が彼のすべてであるという眺めかたが、私は好きです。

 そんなわけで、東京へは行かず、映画『FLESH』を観る。
 彼のことを想い出したから、手元にある彼の作品を。

 アンディ・ウォーホルは、大量の映画も撮っている。
 代表作は『blow job』。
 直訳すると、吹く仕事。
 日本語でも尺八と表現する、フェラチオの映画。
 
 男が、フェラされている。
 フレームの外で。
 画面は、ずっと男の顔を映している。
 イッた瞬間はわかる。
 おなじ男としていうと、少々演技過剰。

 その時期(というのは「キャンベルのスープ缶」シリーズが大々的に売り出されはじめた時期とかぶる)に、ウォーホルが撮った作品群のタイトルは『食べる』『眠る』『キス』『エンパイア』とか。説明するまでもないが『エンパイア』はちょっと説明を要するか。エンパイア・ステート・ビルディングを、固定カメラで八時間撮り続けてある(正確にはスロー編集なので撮影時間はもう少し短い)。

 怒るひともいたらしいし、食事して戻ってきたひともいるらしい。
 映画ってなに?
 問いに答えるというよりも、質問を投げ返す、その行為自体がやっぱり作品なのであって、画面に映っている事象そのものは、どうでもいい。『blow job』に関しては、観るひとによっては、物語性を創造できてしまいかねないところが、ウォーホルの映画代表作とされるゆえんだろうが、問いを投げ返すという方法論からしてみると、それは失敗だともとれる。無意味さに客が怒りだしてこそ、映画の意味が問えているともいえるのだから。

 ポップ実験映画は、長続きしなかった。
 行為に意味があり、作品に意味がないとはいっても、プロレスに試合は必要だ。
 ストーリーは、おやくそくでもいい。
 むしろそれがいい。
 客に金を払わせる、なんらかの演出が映画には必要だと、ウォーホルも認めたのだろう。

 監督ポール・モリセイ登場。
 要は、映画もファクトリースタイルに変更したということ。
 監督ができて、脚本が書ける、モリセイに撮らせる。
 さすがに、ファクトリーで刷った作品をウォーホル単独作品と表記している手法は、映画界ではまずいと考えたのか、共同監督というクレジットになっている。
 それで何本か撮った。
 評判は悪くなく、ウォーホルも、監督を続けると公言しはじめていた。

 そして運命の1968年。
 アンディ・ウォーホル、四十歳。
 ファクトリーの常連で、ウォーホル映画にも出演している女に撃たれる。
 脚本家志望でもあったレズ売春婦ヴァレリー・ソラナスがウォーホルを撃ったというところに意味を見出す論文は多いけれど、ホモとかレズとか男根切除団とかまったく関係なく、ちょっと心を病んだ脚本書きが、脚本皆無のフェラチオ映画からなんだかストーリー映画まで進出しはじめたアンディに自分の脚本は使ってもらえなかった、というだけで撃つ動機は充分な気もする。

 ともあれ、ウォーホルは死ななかったが、入院した。
 共同監督だったポール・モリセイは、新作を撮りはじめる。
 そもそも、ウォーホルは現場にいてもいなくても関係ないんだし。
 脚本も、主演俳優も、すでに固まっていたし。

 そんなこんなで、ウォーホル監督ではないウォーホル作品。
 Andy Warhol Presents。
 ジョー・ダレッサンドロ主演。
 『FLESH』が撮影された。

※以下、内容バレまくりです。
 バレたところで影響のない作品だと私は思いますが、どんな映画であれ観ていない作品のストーリーは知りたくない、というかたはここで回れ右をおねがいいたします。

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 冒頭から三分間、全裸で眠る男が撮され続ける。
 ダレッサンドロ、いいカラダだ。
 自堕落な男を演じるわりに、ちゃんと鍛えた筋肉がある。

 女、登場。
 女の女ともだちが来るから服を着ろとダレッサンドロは叱責されるが、抱きよせてエロに突入。ウォーホルにファクトリーで見出されたという時点でジョーがゲイであると観客のだれもが思っているので、女性とのキスシーンが可哀相になってくる(現実世界でその後、ゲイの王様にまつりあげられたジョー・ダレッサンドロは、自分はバイであると公言した)。

 その後、チンコにリボンを結ばれながら、ジョーは服を着ることを決意する。チンコにリボンを付けたまま下着をさがすダレッサンドロに女は爆笑。しかしパンツは見つからず、いまから洗って乾かすことになる。女ともだちが来るんじゃないのか。

 パンツがないので、全裸のままベッドを出るダレッサンドロ。こっちはちゃんと服を着た赤ん坊と戯れはじめる。床にぼろぼろとこぼれるパンくず。ダレッサンドロの腕のタトゥがアップになる。

 「Little JOE」

 ダレッサンドロ、やっと服を着る。
 上映開始から十七分後のことである。

 街に出る、ダレッサンドロ。
 女に働けと言われたからだ。
 車に腰かけてタバコを吸っていると、男が話しかけてくるが商談成立しない。
 場所を変える、ダレッサンドロ。

 背の高い男と話がまとまる。

 小銭を稼ぐ。

 やたらダレッサンドロのほうが「ありがとう」を連発するリアリティ。実際、男娼稼業で子供を育てようと思ったら、Vシネマに出てくるような、高飛車なカラダの売り方ではダメだろう。

 二ドルで仕事をしないかと声をかけてきた老紳士に、百ドルをふっかけるダレッサンドロ。紳士も負けじと、条件を出す。

 絵のヌードモデルになれ。

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 だが ここは芸術の世界で
 日常とは違う
 想像を働かせる世界だ
 ここで偉大とされるのは
 運動選手だ


映画『Andy Warhol Presents: FLESH』

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 ……なるほど。ダレッサンドロの筋肉ありきでの脚本か、脚本があってのダレッサンドロか。老紳士はダレッサンドロに、ギリシャ彫刻になれ、まずは円盤投げだ、と申しつける。

 ぜんぶ脱いでくれ。

 ダレッサンドロ、全裸になる。
 上映開始三十一分での出来事。
 十五分、服を着ていられなかったダレッサンドロ。

 老紳士にチンコを撮影される。

 円盤投げの次は、ベッドの上で電話をかけるポーズ。
 運動選手のくだりどこいった。

 老紳士曰く、筋肉を育てるには水泳がいちばんらしい。

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 人間には
 肉体を崇拝する気持ちがある
 芸術や音楽の背景には
 肉体信仰が必ずある
 セックスにも恋愛にもね


映画『Andy Warhol Presents: FLESH』

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 新日本プロレスの興行で、いつもリングサイドの席に座っている老紳士を想い出す。
 私が月数千円でテレビ中継を観ているのを、彼は数万円かけて、すぐそばで生で観ている。
 セックスの話をしながら、老紳士は男娼を写生する。
 機能的にできるできないはあるのだろうが、描きながら、喋り続ける彼にとって、百ドルは有意義なセックスであり、芸術に費やされたのだろう。

 三十九分。
 ふたたび服を着て街にもどるダレッサンドロ。
 新米男娼に説教する。

 冒頭の女が妻だと判明。
 妻も知ってる。
 家族を養う。
 仕事だ。思想なんてどうでもいい。
 他人の目も関係ない。
 仕事だ。

 週の稼ぎが二百ドルに満たないのに、セックスなしで百ドル稼いだことが、彼を饒舌にさせているのかもしれない。

 ファクトリーを想起させる場所で、女にフェラチオされているダレッサンドロ。女の顔を映さず、ダレッサンドロもバックショット。イッた瞬間の表情をクローズアップ。

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 私たちを見ないで
 雑誌を読んでるなんて ひどい


映画『Andy Warhol Presents: FLESH』

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 年代的にジョン・レノンとオノ・ヨーコのパフォーマンス『Bed In』に対する当てつけかと読みとってしまいそうだが、『Bed In』は『FLESH』公開の翌年に演じられている。

 女が脱ぐ。
 オネエも登場。
 徹底した無駄な会話が、これでもかとだらだら続く。
 胸にシリコンを入れようかと悩む女が、あの観葉植物は偽物なのか本物なのかと指さす。あたしには、本物の植物が見分けられるの。とある病院で、シリコンではなく植物の成分で豊胸手術をしているらしい。

 男愛人の家に移動。
 ダレッサンドロと愛人、中年の危機について語る。
 ダレッサンドロは、またジムに通いたい。

 ダレッサンドロ、金に困っていると発言。
 金を貸してくれないか。
 食い物を買う金がいる。
 このあいだも貸した。
 返す気でいるんだ。
 ここですることとは関係ない。
 ぼくはきみが好きだ。

 愛人、いっしょに暮らそうと発言。
 ダレッサンドロ、妻が悲しむと発言。
 愛人、悲しませとけと発言。
 ダレッサンドロ、金の話にもどる。
 愛人、ダレッサンドロの腕に注射痕をさがす。
 ちがうよ、クスリじゃなくて食い物を買う。
 愛人、五十ドルくれた。
 愛人は戦争の後遺症で、勃起できない。

 服を脱いでポーズを。
 ダレッサンドロは、アーティストにウケがいいようだ。
 脱ぎはじめる。
 七十四分のこと。
 もうすぐ映画は終わる。

 愛人、ゲイポルノの朗読をはじめる。

 ゲイなのに結婚してる?
 帰さない。

 それでも帰るダレッサンドロ。
 妻は女友だちとベッドの上。
 帰ってきたダレッサンドロ、剥かれる。
 全裸にもどる。
 八十一分。

 自由すぎる世界で、恋愛談義がはじまる。
 なぜ退屈、変わらない世界、結婚?
 みんな欲求不満、惨めな姿。
 どうしてかな。

 全裸のダレッサンドロは今日は稼げなかったと告げる。
 妻は、女ともだちと抱きあって眠る。下着姿でじゃれあいながら眠る女たちの横で、ひとしきりダレッサンドロは醒めているけれど、やがてあきらめて、眠る。
 妻の女ともだちは、妊娠しているようだ。
 
 そういえば、この映画のなかで、脱いでばかりのジョー・ダレッサンドロだが、全裸のときにも、たえずロザリオは首からさげている。

 ただし、ふたつの短いシーン、「Little JOE」のタトゥがアップになった、全裸で赤ん坊と戯れるシーンと、終盤の、勃起できない男愛人との時間では、不自然に首からさげた十字架が消えている。それにどういう意味があるのかは、わからない。最後の最後に、ロザリオを妻に取られたダレッサンドロが言う。

 これを壊すな。

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 ……。
 この映画を観るのは何度目かだが。
 物語の詳細について、自分が正確に認識できているか、自信がない。
 今回、ざっとあらすじのように追ってみたものの、やっぱり細かい部分はあいまいだ。
 
 自堕落な男、と最初に書いたが、映画のなかのジョー・ダレッサンドロは、清廉潔白な生活をしているわけではないものの、勤勉で計画的な男である。新米男娼たちには月に百数十ドルの稼ぎと言っているが、結果として描かれたその一日で、ダレッサンドロはそれと同等の金額を稼ぎ、なおかつ妻には渡していない。腕に注射痕はなく、だれかになにかを言い返すことは、いちどたりともない。

 彼がなにを考えているのかは、わからない。
 事実関係がぼやかしてあるので、正確には読みとりようもない。

 しかし、はっきりと、ここに物語はある。
 映画好きな私が、何度目かの視聴で、飽きずに一時間半、観ていられるくらいに。

 いや、そこが実は、誤解なのかもしれない。
 キャンベルのスープ缶が、キャンバスに描いてある。
 アンディ・ウォーホルからの説明はない。
 そこになにかを読みとるのは、観る側の勝手だ。

 フェラチオされる男の顔に、フレーム外の物語を創造する。
 『FLESH』では、ウォーホルは制作者であって監督だとはクレジットしていないが、やはりこれはウォーホル作品であって、観る側に創造させる余地を、意図的に残しているように感じられる。

 だからきっと、ポップアートは人気なのだ。
 何度目かの映画。
 けれど、これまで感じたことのない、なにかを感じた。
 それは、このあいだ観たときの私にはなかったものが、いまの私にはあるということだ。もしくは真逆で、大事ななにかを失ったから、見えかたが変わったのかも。

 不安になる。
 深いことはなにも描いていない、絵に。
 人間とか、人生とか、そういうものだよな。
 その感想自体が、ひどく陳腐で、自分で自分を殴りたい。

 東京で『200個のキャンベル・スープ缶』が壁にかけられたから、私は『FLESH』を観て、ジョー・ダレッサンドロのケツにアートだの人生だのと話しかけているわけで。

 ポップは死なない。
 退屈は余地。
 好きに描けば。
 好きにしていいのに、退屈ってなに。

 ダレッサンドロは、いい男だ。
 ウォーホルに気に入られたのも、よくわかる。
 気に入った相手で、それっぽいフィルムを撮らせて、それでまた稼ぎ、それから数十年経っても、まだその作品が深読みされている。
 ウォーホルは、しあわせな作家だ。

FLESH

(↑Amazonさんでの評価が異様に低いのは、最低点をつけたレビュアーがいるからですが、レビューが英語で書いてあるからって読み飛ばさないで。彼(たぶん)は、こう書いています。「この作品は検閲されており、大切な部分がかすんでいる」と。つまり、チンコにモザイクがかかっているのです。例の肌色の。冒頭から十五分全裸な映画なので、それはもう確かに気になるどころの騒ぎではないのですが……日本にはポルノは存在しないんだもん。検閲のおかげですべてが健全な図書になる夢の国なのに、その仕様で最低点つけられちゃ困ります。いやいっそ、ウォーホルがこのバージョンを観ていたら、手を叩いてよろこんだ気がしますけどね。「200個の日本のソフトモザイク」とかいう作品に昇華されていたかもしれません。それくらい機械的に見事にポルノティックスーパースター・ジョー・ダレッサンドロの噂では膝まで届くというペニスは肌色に変換されています。リボンで飾られた実物が観られないのが、残念ではあると認めますが、大事な部分がかすんでいても、作品の本質は失われていません)

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Joe Dallesandro公式サイト

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Campbell's
 

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クロムハーツ リング  クロムハーツ リング  2013/10/24 16:51
賢明な批評のために| おかげであなたに感謝し 。ミーと私の隣人は、だけで行うために準備をし、いくつかの 少した|この上に関する研究。我々は我々のグラブローカルから本持ってライブラリをが、私はもっと学んだと思います、このポストから。 私はな偉大を参照することは非常に喜んで|自由にそこに共有されている詳細情報を 。