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『四つ葉のクローバーの声を聴く少女』の話。



Threeleafclover

裏庭にいつのまにか三色のクローバーが群生している。
あざやかな黄緑と、まだらな灰色と、小さな赤紫と。
去年の夏だったかテレビで、とある女の子を見た。
「四つ葉のクローバーの声が聴こえる」
検索すると詳細が山ほど出てくるので観ていただきたいが、
とても不思議なことになっていた。
彼女は五歳。
「あっち」と走り出し、まっすぐ四つ葉にたどり着く。
ほかのみんなが見つけられないのに、次々と、彼女だけが。
あれから。
クローバーを見るたびに、どういうことかと考えている。
四つ葉のクローバーとは成長過程でダメージを受けた一枚の葉が、
裂けたまま完全成長した結果二枚になったものだという。
それゆえに、よく踏まれる場所には大量発生する。
洗濯物を干しに出て踏むくらいの我が家の裏庭では、
目をこらしてさがしてみたが、まったく見つけることができなかった。
もっとも、小さな赤紫のクローバーは小さすぎてさがしきれないので、
私にもあの彼女のような能力があれば見つけられるのかもしれない。
じっと見てみる。
見てわかるものならば、納得がいく。
大きさは同じでも、幼いときに裂けた葉だ。
四つ葉のうち二枚は、ほかとは違う肌質なのかも。
光の反射の差違で見つけられるだけかも。
だが違う。彼女は、見えない場所の「声」も聴いている。
「声」ってなんだ。草だぞ?
景色から、よくひとに踏まれる場所を直感しているのか。
そこに走っていって、最終的には目視でさがしているのか。
どうにもしっくりくる説明が思いつかない。
思いつかないので一歩引いて一部を認めてみる。
四つ葉のクローバーは「声」を発している。
そこを認めると、別の納得いかないことが出る。
どうして草が女の子に「声」を聴かせる必要がある?
クローバーも生物である。利己的に、繁殖だけを願っているはずだ。
人間に聴こえる「声」などは、真逆にしか作用しない。
こんなところに草の生えた土がある、コンクリートで埋めてしまえ。
そうなるのが、自然な流れだ。
いや……。待て。違うのか。
「声」を発しているのは「四つ葉の」クローバーだけなのか。
だとしたら。
「四つ葉」は「四つ葉」を繁殖させるために「声」を発する。
おそらくは、人間にではなく、小動物のたぐいに向けて。
彼女はそれを聴いているのでは?
犬に、猫に、小鳥に、もしかしたら、虫にも。
踏んで、ついばんで、齧って。
「四つ葉」は囁き続ける。
「私を」ではなく「彼らを」。
傷つけて「私に変えて」と。
それは……聴きたくない「声」だ。
そしてあの女の子は。
「四つ葉」の呪いの声を聴き「三つ葉」を踏むのではなく、
「四つ葉」自身を摘んでしまうのだから……
救世主か、悪魔か。
そこには教訓がある。
なにか聴こえたからといって、単純に反応してはならない。
まして聴こえた「声」がなにを言っているのか聴きとれないときには。
たすけて、なのか、ほろぼせ、なのか、わからないのに手をのばすことになる。
最初から、耳など傾けるべきではないのだろう。
一年ほど経ち、あの女の子がもしいまでは「声」が聴こえなくなっているならば。
それが大人になるということ。
我が家の裏庭は静かだ。
もしも、なにか聴こえたら、私は聴こえないふりをしようと思う。
我が家の裏庭とはいえ、そこにも世界と社会があるのならば。
私は関知したくない。
同族のヒトの声を聴くだけでも、わずらわしいことになっているのに。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 植物には心がある、と言うひとがいる。
 音楽を聴かせると、成長が早くなるとか。

 私の母の実家は肉牛を育てていたが、祖父は牛たちにFM放送を聴かせていた。幼い私は自分の数十倍は体重がある生き物を飽きずに見上げていて、気付いた。

 牛たちは、確かにラジオから流れてくる音楽に反応するときがあるのだが、特に激しく反応して、脚をじたばたさせたり、もおおう、と鳴いたりするときは、きまって私が知っている曲が流れたときなのだった。

 それはどういうことなのだろうと、ちびっこい私はちびっこい脳みそで考え、ひとつの結論に達して、その仮説を実証すべく、行動した。

 ラジオから流れてくる曲を無視して、自分の知っている歌を歌ったのだった。なにを歌ったのかはおぼえていないが、ラジオが大音量でかかっているなか、ソラで歌えたということは『ギザギザハートの子守歌』や『夢芝居』といったあたりの曲だったと思われる。その年頃のお子さまは、なぜだか物悲しいメロディーと歌詞に惹かれるものなのである。夢が机で削られたり、男と女があやつりつられたりするということがどういうことなのかはまったくわかっていないのに、言葉として歌うことができるというのは、不思議なことだった。なんとなく単語の意味は理解できるのだけれど、全体としては、自分がなにを大声で歌っているのかはわからない。

 そういう歌を歌っていると、ハイになる。大人になったファミコン世代の私が、ピコピコしたテクノサウンドに無条件にカラダを揺らしてしまうのに似ている。お子さまな私にとっては、社会からの束縛や、ままならない恋心、浮気、プライド、などというテーマの曲は、日本語は話せるからなんなく歌えるのに、意味はさっぱりわからないというトランスミュージックだった。

 ラジオを無視して、そういう歌を歌った。
 牛たちは暴れだした。
 吠えた。
 祖父が駆けつけてきた。

「牛を刺激したらだめだよタクミくん」

 祖父は、東京の大学に進んだ息子と張りあうように本を読み、広島の牛と米を作る農家のひとなのに、東京弁的な物言いをし、私のことを中学生までは「タクミくん」、十五を越えたときから「タクミさん」と呼ぶようなひとだった。

 私は歌うのをやめた。
 そうして、自分の行動が牛たちを大興奮させたことに、自分のほうがもっと興奮しながら、祖父に大発見を告げた。

「牛は、ラジオ聴いてないよ!」

 ラジオから流れてくる曲のうち、私が知っている曲にだけ牛たちが反応する。だとしたらそれは、仮説を立てるまでもなくそういうことだった。

 自分たちの世話をするでもなく飽くことなく自分たちを見つめ続ける、ちょこんと椅子に座った人間にしては小さい生き物のことを、牛たちはガン見していた。人間の幼生体だなどということを推察する知性は牛にないはずだ。つまり、正体不明の未確認生命体タクミくんである。

 それが、なにかを口ずさむ。
 それが、ふんふんとカラダを揺らしたりする。

 牛たちはそれに反応していた。
 100%の警戒心からだ。
 あげくそいつは大声で歌いはじめた。
 そりゃあ、パニックにもなる。

「牛を刺激したらだめだよタクミくん」

 そう言った祖父は、かつては乳牛を育てていたが、肉牛飼育へシフトしたという野心家だった。そこには信念がある。刺激しない。おだやかに育てることこそ、肉の味を上げる。ついでに言えば、孫もそうして育てたほうがまろやかな味がする大人になると信じていたようだった。

 つまり、そんな祖父に育てられている牛たちは、都会から来た私のようながちゃがちゃした生き物に、世界の終わりを見たのだろう。いまでこそ私も、祖父を真似ておだやかな男の振りをすることができなくもないが、あの当時は、叫ぶ自分のかん高い声でさらにハイになってその場にぶっ倒れるようなガキだった。突然に泣き出すこともよくあったので、まわりには、この子にはなにが見えているのと心配されたものだ。その実、泣きたいから泣いているだけというタチの悪さだった。

 祖父は、牛を興奮させたことで自分もあまりの興奮に陥り、知るべきではないこの世の謎を知ってしまった賢者のようにあわあわとしている年少者な私を、怒ることなく、そう言った。

「ええ。ラジオは、おじいさんが聴いているんです」

 そうなのか。
 そうなんだ。
 農業などとは別の世界で生きてきた、父は、音楽を牛に聴かせると肉が美味しくなるのだとしたり顔で私に言ったのだ。それは嘘だったということである。生まれたときから農家の、息子は東京へ行き、娘は大阪へ行ってしまったゆえにその土地を守る最後の世代となることが確定しているのにイラつきもしないで私を見る、大賢者である祖父が言うのだから、そっちが本当に決まっている。

 音楽をかけると、牛も、トマトも、育ちがよくなる。
 なぜなら、音楽のかかっている環境が、育てているヒトの状態をよくするから。

 まんま、胎教、ということである。
 松本人志がテレビ番組で、女医さんに質問していた。おなかの大きい妻といっしょにテレビで格闘技を観ていたら、選手の攻撃がヒットするのにあわせて、胎児が内側から妻のおなかを蹴ったのだが。女医さんが言うに、それは奥さんも同じ試合を観ていたのだから、奥さんが選手の攻撃が当たるのに興奮したからです、と。

 現代では、テレビの音や、となりで観ている夫の歓声などが、胎児に直接作用するというわけではないというのが通説らしい。あくまで、妻、育てているヒトの肉体反応が、胎児のそれに連動しているだけなのである。

 だから、クラシック音楽が、胎教に良いというのは嘘だ。
 私のようにピコピコな電子音のテクノダンスミュージックで心が和むヒトは、もしも胎教のために音楽を聴かせるのではなく聴くのなら、そういう曲のほうがふさわしい。

 牛も、トマトも。
 音楽なんて聴いてはいない。

 牛は、かろうじて聴いているヒトの顔色を見て興奮したりするが、トマトを含め、あらゆる植物は、顔色をうかがう視覚神経というものがないので、そういった連鎖さえない。たんに、ご主人様が良い音楽を聴いてご機嫌うるわしいので畑の世話もはかどって育つ、というだけに違いない。

 さて。
 違いない、などと言い切ってしまったけれど。
 そう思っていたのだけれど。

 四つ葉のクローバーである。

 なにかを発していないことには、少女がそれを感じられるわけがない。
 重ね重ね、あの映像は見てほしい。
 確実に、彼女は、なにかを「聴いて」いる。

 すっきりしないまま生きていたら、先日、このニュースを読んだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『植物は隣の植物の声を聞く? - ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ……光や化学物質の信号ではなく、音。
 まさに、少女が聴いていた、それだ。

「すべてを説明できないが、その事実は変えられない」

 ガリアーノ先生の言葉は説得力がある。
 うさんくさいが、事実があるなら信じるしかない。

 ああ、そうなのか。
 信じがたいが、クローバーの声が聴こえる少女がいて、遮断してもトウガラシはとなりのバジルの声を聞く。
 ああ、よかった。
 信じがたいが、矛盾はない。

 ……いや、待ちなさいよ。
 話が最初にもどるが。
 だと、して、だ。
  
 四つ葉のクローバーが音による情報を発しているのは、ヒトに対しての「あたしを踏んで」コールではなく、仲間の「三つ葉」に向けてのものだということ。少女は三つ葉の声は聴けず、四つ葉の声だけを聴いて、それを見つけられるのだから。

 クローバーの世界で、四つ葉は、踏まれすぎて奇形化した異端である。
 そいつらだけが、なにかの情報を「正常な」同種族に向けて発している。

 私の貧困な想像力は、そこへ帰結する。

「ここから離れて!!!
 ヒトに踏まれ、
 あたしのようになりたくなければ」

 純粋な、悲鳴。
 それを聴きヒトの少女は「あたし」を摘む。
 ヒトは、公園に緑が多くなることを望む。
 公園は遊び場所である。
 少女はクローバーが大好きだ。
 ヒトに踏まれるから茂らないなどというのは、困る。

 もしかすると、これから、その能力は、ヒトの子のあいだで高頻度で発現するのかもしれない。四つ葉のクローバーの声を聴く能力があの子ただひとりのものだなんて、そんなわけはない。それは、これから必要になっていく能力なのだ。

 植物はとなりの植物に声をかける。

「この土地は穢れている、繁殖はやめよう」

 地球に穢れていない土地がなくなったあとも、そこに人類が棲み続けるのであれば、その声は邪魔以外のなにものでもない。植物が逃げろ逃げろと叫びだし、地上から消えてしまったら、ヒトも食糧危機で滅びるのは確実だ。
 だから、生まれつつある。

「ここが穢れているだなんて、ささやくな」

 生まれた奇形を即座に見つけ出し、排除するために。
 摘んで黙らせて、なかったことにするために。

 ……だとしたら。
 これはもう、ずいぶんと滅びに近い場所での末期的超能力がヒトに備わりつつある。

 見ない振りをして、限界まで生きるために、破綻を知る能力。
 チカラそれ、そのものが、矛盾している。


clover



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