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『珪素弁当』のこと。

 
 ヒトは炭素でできている。
 ダイヤモンドも炭素でできている。
 ダイヤモンドは刺されても平気だけど、っていうか地上最強なので何人たりとも彼を刺し貫くことはできないのだが、ヒトはダメ。おなじ炭素でできているのに、ヒトはゆるゆるだから、ナイフの切っ先も分子の隙間にさっくり入ってはい、おしまい。

 レギオンはケイ素でできている。

Legion

 シリコンが大好物。
 コンピュータもシリコンでできている。
 コンピュータにはがんばればナイフは刺さるかもしれないが、レギオンには無理。自衛隊の戦車の弾でも傷さえつかない。

 炭素も珪素も、宇宙には無限といえるくらいあるのに、どうしてヒトは珪素ではなく炭素で形作られてしまったのだろう。炭素でできているがばかりに、たとえば某プロレスラーのありえないくらい鍛えあげられた背中にもナイフで刺された傷があるし、蛍光灯ごときで、修復不能な傷が肉体に刻まれてしまうことを売りにしている者たちだっている。カラダが硬質シリコンならば、レギオンみたいに有刺鉄線も跳ね返して、プロレスに専念できるのに。

 ところで、硬質シリコンと表記する場合、世間一般的な正確を期すならば、シリコーンと書くべきであるらしい。シリコンと書くとケイ素そのものを指してしまうので、珪素をもとにしてできあがったなにかを指すには、区別のために「ー」を入れるのだとか。

 しかし、まわりを見てみると、豊胸用のぷにぷにしたのは「シリコンパッド」だし、車いじりには欠かせないスプレーは「シリコンスプレー」で、シャンプーに配合されているのが良いのか悪いのか議論されているのも、シリコーンではなく、シリコンだと雑誌の記事にはある。

silicone

(せっかくなので専門家らしい注釈を加えると、呉工業さんの代名詞的スプレー『5-56』は安くて便利な潤滑剤だが、ゴムやプラスチック、もちろんシリコーンにも使えない。『5-56』の無香性はゴムに使えますという表記があるが、だったら上の『シリコンスプレー』は、ゴムどころか木部にまで使える。ギシギシいうタンスの引き出しや、木製の敷居などに吹きかけると、ぬるぬる動くようになる優れもの。機械いじりしないひとが、家庭用に一本持っておくなら、彼を薦めます)

 というわけで、シリコンとシリコーンは別物であるはずなのだが、シリコーンよりもシリコンのほうが発音しやすいという理由だけで商品名にはそちらが使われ、いよいよだれもが混乱していく。

 混乱の原因は、名前だけでなく、その性質のせいもあるだろう。ぷにぷにの豊胸パッドも、スプレー剤も、シャンプーも、あげくシリコン調理器具なんてものも。そのすべてがおなじ名前のシリコン軍団所属だとはどういうことなのか。

 でも、ちょっとだけ考えてみれば。

 シリコンスプレーの缶には離型剤と書いてある。シャンプーに配合されるシリコンも、髪と髪との摩擦を少なくする目的である。キャラクターを模したケーキが焼けるシリコン製ケーキ型というのも、型から外れやすいという性質を利用している。

silicone

 豊胸パッドも、外に装着するものであれ、外科手術をともなって体内に埋め込むものであれ、やわらかく、かつ人体すなわち肌、人肉との完全なる距離感が求められるがゆえにシリコンが選択されたものである。

(最近では、DDTプロレスリングの中澤マイケルがリング上で亀頭に「3cc」を注入したことをアピールしているように、人肉への距離感を保つよりも、徐々に吸収される物質を埋め込むことで人体改造するのが主流になりつつあるようだ。マイケル語るところによると、注入したのはヒアルロン酸で、数ヶ月で完全に人体に吸収されるのだという。豊胸施術でも食塩水やシリコンのパッケージではなく、ヒアルロン酸が使われはじめていると聞くが……亀頭に3ccで数万円とかいうのに、胸が膨らむほどの量って……しかも、徐々にしぼんでいくなんて……人体改造とそれにともなうヒトの心の道は奥深い)

 要は、珪素をもとにしたシリコーンという物質は、いろんな形に変えられて、かつ、どんな形になってもシリコーンらしさを忘れない、愛しても愛してもいっしょにはなれない、そういう性質から愛されているわけで。消費者にとっても、あまりにも身近になりすぎて、珪素を意味するシリコンと、シリコーンの境目も、もうどうでもよくなってしまった、と。

 ただ。
 いまでもシリコンをシリコンという意味で使うことにこだわりを持つ消費者もいる。

 SF読者。
 サイファイ映画好き。
 そういったヒトたちは。

 シリコン生命体、を信じている。

 レギオンもそうだが、もっと、イッてしまった生命体が、並行宇宙には存在しているのではないかと彼らは考える。

 炭素も珪素も、宇宙には無限といえるくらいあるのに、どうしてヒトは珪素ではなく炭素で形作られてしまったのだろう。

 珪素=シリコンだって、これだけさまざまな形に変われるのだから、生き物に進化したっておかしくなかったはず。

 科学者さんは「人体のほとんどは水分なところに答えがある」という。炭素は水と結合してさまざまに変化できたが、珪素にはそれができなかったから土と岩の大地に納まってしまったのだと。

 しかし、いまは、ぐつぐつ煮えたぎる反応爆発の原始の星の上での、偶然による生物の誕生を論じているのではない。炭素でできた知的生命体が、珪素から「造った」シリコーンで胸を大きくし、ケーキを焼く、現代においてもまだ、シリコン生命体が生まれていないのはどういうわけなのだ、ということをブツクサ言いたいのだ。

 シリコン・バレーから誕生した、パソコン上の仮想生命体=AIは、一種のシリコン生命体ではないかという意見もある。それはそれでいい。というか、そこに話が行くと、シリコンであるかどうかは、大きな問題ではなくなってしまう。彼ら、否、私が望んでいるのは、この地上に偶然生まれた、我々を含む炭素生物とは、まったく違うプロセスで生まれたシリコンマンがいるとしたら、それはいったいどういう姿形をしているのか、はたしてマンと呼べるくらいに私たちに近いのか。
 そういうことである。

 レギオンは、安易だ。
 珪素人間という設定でも、たいていは、ああいう、岩がモチーフになった炭素生物に近い形状の、ツンツンゴツゴツした生命体となって描かれる。

 でも、そうなんだろうか。
 だって、珪素と「水」でシリコン生命体が生まれるわけではない。
 私から水を抜いたら、乾物だ。
 ミイラである。
 見た目には、レギオンに近い。
 しかし間違いなく、レギオンのように、歩けない。水分なくして関節は機能しないし、ミイラの内蔵がなにを吸収できるわけもないから、食べないのなら、他者を狩る必要がない。争う、とか、暴れる、という行動自体が、理解できるものかどうか疑問だ。

 今週、こういうニュースを読んだ。

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『南極の氷底湖で初の生物発見か - ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト』

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 岩を喰っているという。
 岩は珪素のかたまりだ。
 氷の湖の底で、みずからの肉体に変換するものが岩しかないというのなら、もちろん岩を構成する酸素やカルシウムも喰うには喰うのだろうが、それこそがなによりも大量にある珪素を無視した進化を遂げているとは思えない。
 だとすれば、その生命体は、かぎりなく珪素生物に近いものだ。

 というか今回のニュースで「微生物が見つかった」とする定義自体が、湖にDNAを染める顔料を投げ込んで染まったから、というものなので、ひょっとしたら岩そのものがDNAを持つ生物である可能性は否定できない。そんな生物はいないとされているから検討もされないのだけれど、前述のようにSF小説を深読みする私たちは、前提として珪素生物の存在を信じているので、岩が生きていたって驚かないのである。

 いや、まあ、驚きはするが。
 岩が岩を生む、そこに遺伝子のような情報のやりとりがあったとして、それでも岩は岩なので、見た目には岩だ。
 禅問答のようになってしまうが。
 そういうことである。

 珪素生命体の姿も形も生き様も、炭素生命体とはまるで違う。
 そういう可能性が高い、のではなく、シリコンマンがヒトに似ているなどということは、まるきりのファンタジーである。

 深海探索ヲタクなジェームズ・キャメロン監督は、遠隔操作ロボで深海に潜り、摂氏500度の熱湯が噴き出す場所にも生物が棲んでいるのを目にして『アバター』の着想を得たと聞く。監督は興行のことを考慮して、ヒトが見ても色艶のある青いヒト型生命体との遠隔操作恋愛劇に仕立てあげていたが、深海探索者としての意見を聞けば、きっと私と同じ妄想を抱いているに違いない。

 熱湯のなかにもヒトには理解できない生命体がいる。
 南極の氷のなかにも棲んでいる。
 珪素生物はいる。
 だったら、いまテーブルの上にある茶碗が「生きて」いないとだれが言い切れる?

 比喩的な意味ではなく、世界そのものが生きているのかもしれない。
 観客動員数は上がらないだろうが、見る夢としては、それがいい。

 生きているということが、ものを考えるということと同義でないのは、延命医療の是非について論じるときによく語られるところだ。ヒトはもともとものを考えているから、ものを考えられなくなったのに生きているといえるのかなどと考えてしまうけれど、無機物は無機物なりに生きているのだとしたら。

 氷に覆われた澄んだ湖で「生きる」岩。
 恋する相手にはぜったいならない。
 なにを考えて生きているのだろうなどという想像が見当違い。
 生きるとは、そういうことではない。

 シリコンをシリコーンに変えたくらいでいきがって、なんか悩むとか、生きている意味とか、それ自体がバカらしい。

 ……思い出した。
 熱くなってしまった。

 珪素はレギオンになって街を破壊もするが、シリコンカップになって弁当の悩みを解決もしてくれるのだという前フリのつもりだったのに、思いがけず南極で岩を喰う生命体が見つかってしまうものだから、話があさってへ飛んでいって迷走してしまった。しかしこれが徒然というもの、気づいたところで、改めるがよろしい。

 さて、枕の小咄も終わったところで。
 遅ればせながら話をもどしまして。

 豆腐が好きです。
 鍋とか、昆布ダシの水炊きで、豆腐があればいい。
 それ、湯豆腐ですね……
 鶏肉とエノキダケと水菜もあるとよし。

 豆腐でおなかいっぱいになるわけですよ。
 シメとかいらんですよ。
 シメないと、鍋、あまるのですよ。

 翌朝。
 昆布と根菜と冷凍庫にあった油揚げを加え、しょうゆを足して煮詰め、シリコンカップへ。

silicone

Silicon

 凍ったら、カップから抜いて、ブロック状のそいつを冷凍庫にストック。カットして凍らせたコロッケや白身魚フライや、唐揚げや、そんなものもシリコンカップでブロック化。
 弁当は前日の帰宅後に作ります。
 作るったって、それらのブロックを三つ組み合わせて弁当箱に放りこむだけ。
 それらで私は、できている。
 シリコンカップというものが市場に出回りだしてから、ずっとこのスタイル。

 シリコンで私は生きている。

 珪素生物なんて、もしもいたって、ただの岩かも。
 でもそれを言うなら、私たちだってただの炭素生物。
 喰うために生きるのではなく生きるために喰うだけ。
 つきつめれば、炭と灰になる生命体。

 ほら、話がそれると、うまくまとまらない。
 まとまらないけれど、おしまいである。

 微生物のように、目の前にあるものを喰って身に成す。
 考えなければ、氷の孤独のなかでも生物でいられる。
 ここに在る、それだけが生きること。
 愛しあうのは、在るのを確かめて、ほっとすること。
 冷凍庫にストックされる弁当箱三等分サイズのおかずブロックは、解凍されるのを待つ、未来の私の一部。
 珪素生物だったらば珪素弁当、それって岩。  
 炭素でよかった。
 モノ考えるのが生きることな生物、面倒くさいけれど、愉快。

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