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『黄色い薔薇への赦し』の話。



Yellowrose

大日本帝国皇紀2580年といえば大昔のようだが、
大正9年と書けば、その年産まれたかたは、いまだ93歳。
アメリカでは洗濯機や冷蔵庫の普及がはじまったころ。
黄色い薔薇は、そんな西暦だと1920年に「完成」した。
現在、日本でよく見る黄色い薔薇は、
ふわっとした明るい黄色のものが多いけれど。
我が家の庭で咲いているのは、
原種に近いオレンジ色がかった花弁。
きっと、もとは赤だった。
それが朱になり、だいだいに。
詳しくはしらないけれど、
黄色い薔薇が人工的なものであることは知っている。
ウサギの巣穴に入るために胴をのばされた犬がいる。
引っぱってのばしたわけではなく、
ちょっと胴長なのと胴長なのを、
気長に交配させていった結果、
いまでは立派な犬種だ。
ウサギの巣穴は見かけなくなってしまったが、
もはや彼らの胴が短くなることはない。
比べて。
黄色い薔薇は、ウサギを狩らない。
けれどヒトは。
朱と朱をさらに淡くかけあわせ、
だいだいとだいだいを、もっとと混ぜあわせ。
ローズ(Rose)なワインが透きとおる赤なように、
古代から愛された薔薇はすなわち赤なのに。
その色を消そうと躍起になって。
薔薇の刺を詩に詠んだ古代バビロニアから100年。
とりつかれたように、欲した果てに。
黄色い薔薇と呼べるものが「完成」。
美しい花ではある。
けれど、現代においても薔薇は赤の代名詞。
心血を注ぎあえてウサギも狩れない黄色い薔薇。
それが欲しかったのは、なぜならば。
なかったからだ。
この世にないから、欲しかった。
しかし……考えてみれば。
そんなものは、ごまんとある。
黄色い薔薇はウサギも狩らないのに。
それでも、のめりこんだのは。
造れそうな気が、したからだろう。
ニコラ・テスラは鉄カゴのなかで読書をした。
稲光を駆けめぐらせて、交流電気の安全性をアピールした。
黄色い薔薇が生まれたころ、
ヒトは電気を生活に取り入れるようになった。
神の怒りだとしか認識していなかったイナズマを、
飼い慣らして、手足よりも使うようになっていく。
黄色い薔薇。胴が長い犬。耳の折れた猫。
いまでは、キメラだとさえ思わない。
ないものだから欲しいわけでもない。
黄色い薔薇は、ここに、ある。
あるのなら、もう、欲しくないはずなのに。
あったって、欲しい。
薔薇が赤いだけの世界など、ヒトには耐えがたい。
たぶん、地球が青いだけなのも。
宇宙が暗いだけなのも。
そんなものは、ごまんとある。
空が黄色かったらなあ。
できる気がしたとき、ヒトは、やる。
黄色くないから黄色くする「必要」がある。
理由は、それだけで充分。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 黄色い薔薇の花言葉は「あなたには誠意がない」。
 薔薇に限定せず黄色い花でも「嫉妬」「裏切り」。

 ……なんだか、苦労して生みだしたわりに、ひとに贈りにくい花である。

 ていうか、花にネガティブな言葉を与えて、だれが得をするというのか。
 だいたい、花言葉ってなに。

 調べてみると、詩。
 日本の貴族が自然も愛も憎しみも和歌に昇華させてやりとり愛でていたように、ヨーロッパでも花を見て、飛ぶ鳥を見て、そこにひとの感情を読みこむ作詩が、粋なものとして流行したのだとか。

 だらだらとメールするより、詩を一篇、送る。

 そうなると、需要がある。

「黄色い薔薇、庭に咲き、君のこと想う」

 そんな詩をもらって、悩む。

 逢いに行かないのを誠意がないと書いているのならば、まだよし。
 嫉妬、ということならば、あのひととすごしたことがバレているのか。
 裏切り、なんてことだと、やったことまで筒抜けということで。

 花言葉辞典は世界共通にしておいてもらいたい。

 ちなみに、黄色い花を見て、イヤな気持ちになったという詩を詠んでしまうのは、和歌の心だと違和感があるが、アメリカンプロレス好きならさっくりと理解できる。

「てめえこの、yellow bellyが!!」

 まあたいていはもっと悪い言葉と組み合わせて使うみたいだけれど、単体で読めば「黄色い腹」。日本にも「腹黒い」という言葉があるが、黄色腹はちょっとニュアンスが違って、臆病もんが! みたいな感じ。

 腹黄色い。

 黒色を見て悪い連想をするのはわかるけれど、黄色って戦隊モノでもあたりさわりないメンバーの担当色、ももクロだと、みんなの妹、ってくらいでむしろ良い意味である。それが、かの国々では、なぜに……

 イスカリオテのユダが、黄色い服を着ていたから、らしい。

 彼は言った。

「銀貨をもらえるなら、おれはあいつを裏切る。てめえらついてくるがいいぜ、あの狂信者どもの群れにわけ入って、おれがキスしたやつがジーザスだ!」

 目立つ黄色い衣をなびかせ、はたして彼は、イエス・キリストに歩みより口づけた。

Judas Iscariot

 その場面を描いた絵画の多くが、キリストの頭に後光を描いている。そのために、ぱっと見でキリストがキリストってわかんねえのかよ、という印象を受けるが、それはデフォルメ。ユダのキス、という出来事が史実であるとすれば、真実のイエス・キリストは、まわりの信徒と、なんら見た目の変わらない人物だったことになる。
 天使の輪なんて浮かべていないし、特別きれいな着物を着ていたわけでもない。

 ビビッドな黄色い衣装のユダが、キスしなければ。
 十字架というモチーフさえ、この世には現れなかったかもしれない。

 と、考えてみると。
 あの物語って、実のところ、黄色いユダがいなければ、最大の見せ場がなくなるということである。はりつけられ、朽ち果てねば、復活もありえない。

 ……私は、いまでこそ無宗教だが、幼いころはカトリック系の幼稚園に通っていて、クリスマスの劇で三賢者の目指す一番星の役をやったこともある、ちょっとしたキリスト通だから知っている。

 神父のおっちゃんは、こういうことを言った。

「ユダは死んだのが悪い」

 彼は、裏切りのあと、後悔して自死するのだった。
 あくまで私の習ったおっちゃんの説なのだが、聖書の記述によると、ユダがいようがいまいが、キリストは目立つことをやりまくっていたので、どうせそのうち捕まってはりつけにされたんだという。その解釈は、私のような「ユダがいないと復活劇もなくてこの宗教自体生まれなかったんじゃ?」という、腹のミドリイロな必要悪論者の存在を許すことになるから張った予防線のようにもとれるが、だがしかし、私は幼いながらに、おっさんの言った次の言葉に打ちのめされた。

「謝りに行けば赦してもらえたのだ」

 うおお、と思った。聖書自体にはその場面はない。ないがゆえに、神父も牧師も、そういうことを言って幼児をたぶらかしているのである。十字架にはりつけられ、血まみれの聖なるひと。ユダは裏切りを後悔して死ぬくらいなら、その十字架の下に駆けよって謝ればよかったのだとか。

 血まみれで、死にかけて。
 それでも、ヒーローは。

「気にしてねえよ。ゆるす」

 言われたユダの罪は、完全に消失。
 なんというエンタメ。
 いたずら盛りの園児にとって、それはどんなに魅力的な誘いであったことか。
 それを教会で語るために、あえて本のなかでは裏切り者は自殺した、という展開なのだとしたら、これはもうその脚本家にプロレスリング・ノアのアングルも書いてもらいたいものである。しかも、けっきょくのところ、はりつけられたヒーローは復活するのだから、ユダったら死に損。やっちゃったって謝れば救われたのに、彼はなんにもジーザスのもとで学んでいなかったんだね。

 というわけで。

 彼女、もしくは彼から、黄色い薔薇を贈られる、または「この黄色腹めが」という意味に受けとれる詩などが送りつけられた場合、なにはともあれ、それ、やっときましょう。

 謝るのです。

 黄色くたって悔いれば赦される。
 それ以上の詳しい話は、近所の教会で聞いてください。

 私は、無宗教だし、みんなの妹も大好きなので、庭に黄色い薔薇が咲いていたって気にしないどころか、よろこぶだけです。

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クロムハーツ リング  クロムハーツ リング  2013/10/23 14:03
『とかげの月/徒然』 『黄色い薔薇への赦し』の話。