エミリオ=リオナはまだこっちなのかあ。6月のなかばにみんな集まろうかと言っていたんだが、間に合わないなあ。笑顔で送ってやってくれ。
ところで私は遠距離恋愛というものを信じていないが、このあいだの花見のメンバーの大半が「遠恋でもあの二人は大丈夫でしょう」と言っている。私の恋愛観は悲観的に過ぎると怒られた。というわけで私に楽観的な恋愛観を植えつけるべく、実地で証明して見せてください。期待しております。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
と、いうのは私の友人にあてたメールの一節なのだが、二十代半ばの彼女の彼のエミリオ=リオナは、この地、大阪から、東京への転勤が決まって。大阪で生まれた女やさかい……というか彼女にだって仕事も家族もあるので、二人は遠距離恋愛の道を選んだわけで。
身近でそういうことがあったので、なんだか最近よく、恋とは、みたいな話をする。
恋とは。
小説書いているから私は神経が麻痺してしまっていて、恋だの愛だのという言葉をオモチャのように口にするけれど、普通に思春期を抜けて大人になった人々は、愛を語ることはあっても、なかなか恋を語ることはない。
それなのに、語ってみれば。
語ることに抵抗のない私の語る「恋」というものが、多くの人にとって悲観的だとうつるらしい。
いまから遠恋に突入しようという彼女に「私は遠距離恋愛を信じていない」もあったものじゃないというのはわかるが、正直なところ、私は彼女に「数ヶ月でそばにいなきゃいけないと思うようになるさ」と伝えた、その言葉こそ噛みしめてもらいたかったのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「気持ちを確かめるためにカラダがある、というのと同じようなものさ。極端に言えば、カラダはどうでもいいんだ。そりゃ、俺はいつだっておまえを抱きたい。だけど抱かなくたってかまわないこともある。そうだろう」
いつき朔夜 『エンディング。』
(↓収録)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そうだけど。
でも、抱かなくても体温が、その人の匂いが。
感じ取れる距離にいるからそれは吐けるセリフ。
たまに確かめだけで事足りる確信は、
『シュレーディンガーの猫』のこと。でも語ったように「視る」ことによる。
視えないものは確定しないし、確定していないなら抱きしめる行為が必要だ。
視えて確定しているから、触れずとも在ると信じられるけれど。
遠くて視えないものを。
いくらよく知っているからといって、それは不確定に変質するイキモノであるヒトの、あの人の過去の実在を知っているというだけのこと。
揺らがずにいられるか?
私は、いられない。
私は、遠恋を信じない。
でもみんなにその話をしたら怒られる。
あなたは恋というものを信じていないんだ。と。
なにおう、と言い返しかけるが、考えてみれば、まあ、そうなのだった。
恋ってなに?
そんなのただの言葉じゃないか。
たとえばその彼さ。
俺はいつだっておまえを抱きたい、という彼さ。
抱いちまったら、星ほど輝かないという歌詞もあるじゃない?

主観で「視る」という行為は、あばたもえくぼだから、私がただの猫をキメラだと思いこんで視れば、私にとってその猫はキメラで確定している──そのことに矛盾はない──けれど、触れて確かめたなら、抱いて、その猫は猫だと知ったうえで、まだ「これはキメラだ」と言うのは、それは幻想であって、自分自身を騙しているのにすぎない。
「信じてる」
そういうセリフが出る時点で、疑う心がそこにある。
星ほど輝かない。
でも長い夜は続く。
ただ見上げて「あはん」と夢見ていた頃を過ぎて、夢のようには輝かないけれど、確かに輝いているその輝きをしっかりと視て、それを好きだと愛でることは、もう恋ではなくて愛というものではないのかなと──汚れたぬいぐるみを汚れたぬいぐるみだとわかっていながら、自分にとって唯一無二の世界一の愛しいぬいぐるみだとキスするのは、すでに恋ではなくなっているのではないかなと。
それなのに、遠「恋」は、その大前提なくしてはじまらない。
矛盾している。
視ることも触れることもできない場所にいる見知らぬだれかに恋することなんて不可能だが、遠恋はもうすでにはじまった恋だから、持続するだけだから、可能だというのだろうか。その汚れも、星ほど輝かない部分も、知ってしまったあとで、触れられないぬいぐるみに、望んでもキスできないぬいぐるみに、愛着を持ち続けることなんて可能なのだろうか?
無理だよ。少なくとも私は、無理だ。
その持続は、愛を恋に巻き戻すことも可能だと、自分をごまかしてでなければ続けられないものな気がする。
恋する自分を演じなければ、不可能な設定だと思う。
読んでいる?
エミリオ=リオナの彼女。
私は本当に、私の荒んだ心に楽観的な恋愛観を植えつけるべく、実地で証明して見せて欲しいと願っているよ。
ただ、君が「遠恋でも大丈夫」と言ったのが心配だ。
気持ちを確かめるためにカラダがある。
たまに逢う時間を確かめるだけに使って、なにも変わっていない、ちゃんと続いている大丈夫と呪文のように言い続けるのは、やっぱり健全じゃない。
電脳空間は世界を狭くしたけれど、距離はやっぱり存在する。
そばにいたいと、願うことはやめてはダメだ。
遠くても大丈夫という呪文はごまかしだ。
いま遠くて、こうしていることが仕方ないことだとしても、大丈夫じゃないし、そばにいたいし、いつかはぴったりとくっつける距離に戻るんだと、そう想い続けることは必要だと思う。
遠くても、大丈夫じゃない。
私はそう思う。
それは努力だと思うから。
そういう意味でがんばれと言う。
消耗戦を、倒れず戦い抜いてくれよと想う。
また、二人そろって花見に参加して。
私も願ってる。
ほんとに願っているんだ。
遠恋は信じない。
それは遠恋というカタチで確定する恋はないという意味であって。
それを経過ととらえるならば、ありうるものだとは思うんだ。
本物の恋は、それくらいの試練では消えなかったね、と。
いつか何ごともなかったかのように笑いましょう。
「あなたが信じようと信じまいと、あるものはあるのよ」
勝ち誇ったように言い切って。
そのとき私は、君たちに賞賛のまなざしを贈ろう。
(贈りたいんだよ、本当に。だったらこういうことをそもそも発言するなという、そこが私の怒られるポイントであることも重々承知している。承知しながらも、けれど思想は伝えておかないと思っているだけでは裏切りなような気もして……っていう身勝手さにまた眉根を寄せられるのだともわかっている。友達でいてくれてありがとう。愛してる)