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『ハロウィン間近の寝ぼけまなこな朝』のこと。



Hallopear

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『ハロウィンとは銃殺の日』の話。

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 今年はすでに、ピッツバーグで8歳の女の子がショットガンで撃たれた。
 撃ったのは従弟の24歳。
 ハロウィンパーティーを開いていた女性に「スカンクが出たから撃って」と頼まれて撃ったらしいが、撃たれた8歳の彼女は、ゴシックハロウィンらしい白と黒のモノトーンなファッションだった。

 親戚のパーティーでモノトーンを着たらスカンクに間違えられて、いとこに撃たれる。

 ……そもそも、スカンクが出たからショットガンで撃って、という日常会話がすごいし、黒と白のちっちゃいのが物陰で動いているのを見て、ハロウィンパーティーを開いた当人が、白と黒のゴシックロリータな子が参加していることをチラとも思い出さないところが、おおらかすぎる。広い国土、害獣は撃て、疑われるような行動をしたほうが悪い。

 ハロウィン。
 こちらの世界とあちらの世界がつながる季節。

 こちらの世界では、私が、いまメザメタ。
 寝ぼけまなこな朝とか書いていますが、軽く正午を回っていました。

 今月は、某誌のために作ったプロットを別の出版社さんへ向けて書くにあたり、読者層を考慮して生まれて初めてのいわゆる「百合」設定というので書いていたのですが、書きはじめてすぐに気がついた。
 もとのプロットが、大河な構造であることに。
 つまり、世代をまたぐ。

 百合設定にしたら子供産まれないじゃん。

 気づいてはいたのです。でも、もう書きはじめてしまった。なので書き進んだ。ファンタジーなので、繁殖の問題くらい、書いているうちになにか思いつくだろうというような浅はかさで、原稿用紙三百枚を越えたころ、まあこれでいいかというようなところに着地させる展開を夢のなかでひねり出し、残りの原稿を埋めた。

 そのとき見た夢が、けっこうな悪夢でした。
 詳細は描くのもいやなので書きませんが、思えば、こういうことが多い。
 どういうことかといえば。

 煮詰めれば、無意識がいつか解決してくれる。
 そういう信仰。

 子供が生まれないヒーローとヒロインで大河小説を書き出して、まあどうにかなるだろう、と思えるくらいに、深い信仰心を持っている。それはとりもなおさず、信仰に、応えてくれる結果があるからで。気分的には、子飼いの有能なヒットマンがいて、なにか失敗したって最終的にあいつに暗殺を頼めばいいんだし、というマフィアのドンくらいのおおらかさを保つくらいの感じ。

 なにかを考えつくということは、けっきょくのところ、自分のなかにあるものを選択することでしかありえない。だから、あれはどうだ、これはどうだと考えて、最終的に幾千もの選択の果てになにかひとつの解を選びとったところで、その最終的な答えもまた、最初から自分のうちにあったということになる。

 ものすごく端的に言えば。

 だれかを意図的に殺すという選択肢を最終的に選べるひとは、実は最初から選べる。
 だってその選択肢が自分のなかにないひとは、どんな経路で思考したって、だれかを殺すという解にはたどりつかないのだから。

 ということを考えてみると、多くの個人的な問題の最終的な解とは、ほとんどの場合、自分の世界認識の限界点である。さっきの端的な例えをさらに極論すれば、世界を滅ぼしてもいいと思っている独裁者が、平和な世を作るのは簡単なことだ。しかしそれを実行したものが歴史上いないのは「自分が生き残る」世界破滅までが限界だったから。自分を含めて全人類が滅びることを真剣に望めるならば、ヒトの無=ヒトにとっての永遠の安寧の世など、うららかな春の日の午後の一時間半くらいで実現できる。

 話を極端にしすぎて、よけいにわかりにくくなったので戻す。
 経済学の分野では、人間というやつは、追い込まれるほどにリスクを選びとるとされている。ギャンブルやるひとならこれはよくわかるはず。私はもっぱら仮想世界のリスクのないゲーム内カジノばかりだが、それでも、よくわかる。最初は慎重だったのが、なぜだか、負けがこんでくると、大きな勝負に出たくなる。

 その傾向は、心の安寧が保たれている状態で、堅実な選択を好むひとにこそ、激しく出るらしい。経済学だとピンと来ないので、愛にたとえてみるならば。

 恋人の条件に「やさしさ」をあげるひとほど、孤独な状況では危険な愛を選ぶ。

 まあ、考えてみれば当然のことだ。
 ナチュラルボーンなアウトローが、あえてさらなるアウトローへの道を選択する瞬間なんてものはない。まじめに堅実に生きてきたのにその道を踏みはずしただれかこそ、そういうものを選びとる瞬間が訪れるのである。

 つまり。
 私の信仰とは、それだ。
 解が欲しいときは、延々と問題を棚上げして山積みして、ほおっておく。そうして煮詰まるのも限界になったころ……意図的に構築した「堕ちた」状態が完成したころ……無意識が選びとる。それは、自分の選ぶことのできる限界点であって、それ以上を望むならば、さらなるインプットが必要になる。勉強して別の答えをさがすことはできるだろうが、現時点の自分の選びとれるもっとも極にある解が欲しいのなら、答えをさがすよりも、膿んだほうがいい。

 もちろん、眠れなくなる。
 やっと寝た明けがたに見るのは、ひどい悪夢。
 しかし、昨夜の私は、十二時間ほど死んだように寝た。
 もう問題は解決したからだ。
 その解が正解であれ誤答であれ、書いてしまったものは私の手を離れたので、それについて考えることはない。寝るだけ。

 ……なにが言いたいかといえば。
 はじめるとやめられないのは私のよいところであり悪いところでもあり。
 もう十年以上も書いている、このブログも、脅迫観念的に書きはじめたけれど、今日の私は寝起きでもうろうとしたなにも考えていないひとなので、書くことがない。
 それだけである。
 
 さっき、友人のメールに返信を書いた。
 人間関係が、というような話だったのだけれど、正直なところ、私はいま、きらいなひとをあげろ、と言われても一人もあげられないくらいなので、なぜそんな私に相談してくるのかが間違っているような気がする。と、本人に伝えたら、だから訊いているのよと返された。返されたので答えた。みんな、なんでそんなに他人に興味が持てるのか不思議でならない。私にきらいなひとがいないのは、たとえば職場でだれかの陰口を言っているひとたちがいて、そこに居合わせて話を聞いてしまうというのはあるが、そんなとき。別に自分自身でも自分の家族でも友人でもない、上司だとか同僚だとかの、仕事のできなさを嘆くならともかく、人としてどうであるかなんて、どうでもいいと思って共感できない。なにをそんなに熱くなっているのか、自分の人生はそうしているあいだも刻一刻とすぎているのに。なんてことを書いたら、そう、そういうところがあなたにはあるから、もう黙って話を聞いてと怒られた。

 思えば、そのフレーズはよく聞く。
 黙って話を聞いてくれると思って話しているんだから、説教とかはいい、と。なので黙る。私は私が人としては多々問題あると自覚しているから、そんな私を許容してくれる人を、無条件で好む。好んだ結果、その相手が、たとえば突拍子もないことを突然に発言したとしても、あんまり気にしない。だれだって自分の宇宙を持っていて、年に数十回くらいはおかしくなることだってある。というスタンスなので、友人が真剣に相談していることに、思いつくままいつものペースで返信を返し、怒られるのである。こっちとしてはお前がどうであろうと愛しているからどうでもいいや、ということなのだけれど、向こうにとっては愛しているならちょっと黙って話を聞け、なのだ。

 人間関係はむずかしい。
 黙って話を聞いてと怒られたメールに返信を入れた時点で、私はまた口を開いてしまっているのである。いっそ聞くだけ聞いてよしわかった聞いたよと無視しておけばよかったのだろうかと考えているいま現在なのだが、きっとこのブログを読まれて、私はまた怒られるのであろう。

 本当は、こう言い切りたかった。
 そういう答えのない問題を、延々と考え続けたら、かえってなにも考えられない伸びきったゴムのような心のありようになってしまうから、一度の悪夢を目指して問題を限界まで抱え込み「ああもうこうしろってこと!?」と叫んで目が醒めたら、それにしたがって行動し、翌日からは十二時間ほど寝ることをすすめる。

 しかしまあ、悩んでいる相手に、もっと悩むのが解決法だなどと言わないくらいの分別は私ももっているので、こうして独りごちているのだった。

 言っておくが、私が書いているのは、私が心の安寧を得るための信仰であり、正しい解を得るための作法などではなく、悪夢とともにもたらされた結論が、間違っていることはおうおうにしてある。というか、多くの場合、間違っている。それが小説だと世間の風向きにそぐわないことになるという点でよくないことだが、少なくとも、なにかを見つけてはいるのだし、私はそれでいい。いやよくはない。よくはないけれど、もういい。

 ぼおっとした状態で書くと、こういう感じになる。
 あまりにとりとめないので、目の前の本棚から、なにか一冊抜き出して、ふせんを貼ってあるところを引用しようと思う。

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 ヘルツは何か言葉を発した。というより、肺から出た空気が歯の関門を通って人間の言葉に似た音を立てた。膝に眼を落とし、また音を洩らした。それが謝罪の言葉であるのに、ランツマンは気づいた。ランツマンが学校で教わったことのない言語だった。

Michael Chabon

 マイケル・シェイボン 『ユダヤ警官同盟』

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 うーん。
 自分で貼ったんだが、なぜ貼ってあるのかわからない。
 いつかパクろうと思った表現なんだろうか。
 しかし、それにポストイットを貼っただけで本棚にしまっては「お、こういう場面でぴったりの表現がどこかにあったはず」などと気づいたところで壁全面を覆う本のなかからさがすことなどできるわけがなく、かえって時間の無駄になる。
 きっと、そのときの私が、なにかに共感したのでしょう。
 人間の言葉に似た音、みたいなものに関してなにかを思い出したりしたのかもしれない。そういうことを書きとめておいてくれれば、いまここでブログのネタにできたのだが、残念なことに私は、未来の私にものを伝えるという手間を惜しむたちである。

 というわけで、もういいだろうか。
 目も醒めてきた。
 雨もあがったようだし、少し走ってこようかと思うのです。
 記憶にあるかぎり、一ヶ月以上、バイクのエンジンに火を入れていない。動くかどうかが心配。バッテリーはゲルがいい。数か月乗らないこともあるので、バッテリー充電器は持っているけれど、ゲルバッテリーはいつだってちゃんと起動する。
 信じるからほおっておける。
 なにかにつけて、そういうことはあるものです。

 ああ、いまメーラーを開いたら、いろんな新製品が今週は出たんだねと気づいた。
 Windows8が発売しましたね、そういえば。
 安くなりましたねえ、OSも。
 とりあえず優待版一個買っておこうかなあ……
 
Windows 8

 ときおなじくしてAppleさんからはiPad mini、amazonさんからはKindle Paperwhiteが、出るよ買いなよメールが来ていたのですが、だったら品揃えを見せてみろとAmazon / Kindleストアを覗いてみれば。

 “koontz”で14件ヒット。
 “クーンツ”で0件ヒット。

 いや、ヒットって、ヒットしてないから。つまるところ日本でも売りはじめましたよ、なんと品揃え140万冊!! でも、日本語で読めるのって? という状況は、iBooksでもいっしょ。それを自信満々に販促メール送られてきても、本読むひとほど、

「新端末を育てるよりも邦訳者を育てろよ」

 と、いくぶん醒めて思う。自動翻訳ソフトがあっても英語はともかく、それ以外の言語ってなんとなく読むことさえできないんで、そういう国のエンタメとか、アップルが、アマゾンが、うちでは日本語で読めますよ、って売ってきてくれたら、それが数十冊でも新端末よりも魅力的なんだけど。
 電子書籍化された著作権フリーの古典の類は、その国の言語で売る本の数を水増しするために各社品揃え豊富なんだし、だったら電子化済みのテキストを自動翻訳ソフトでそこそこのレベルまで各国の言語に訳すことだってできるわけで。その先は、専業の邦訳者でなくたって、ちょっと読めて書けるバイトくんでも訳すことは可能なはず。

 うちの近所にネパール料理の店があって、そこの奥さんが売上げ低迷なのか駅前でクーポン付きのビラ配っていて、近隣住人の私などは毎週のようにもらってしまうのですが。彼女、そこそこに日本語を話すのです。そういう人材って、いっぱいいるわけで。店がヒマなら、アマゾンから内職斡旋。結果、私はキンドルで生まれて初めてのネパールの古典に出逢い、仕事帰りの電車で読んで涙して、おおこの感動は、なんてうちふるえながら家までの道を歩いていたら、そこに異国の音楽が流れていて、ああこれはネパール料理の店、今夜はここで飲むか。

 なんてことにも、ならないとは言えない。
 そういうのが世界の文化を育てるということでしょう。

 各社の、検討と健闘を求む。

 ハッピーハロウィーン!
 いたずらしに行くなら、気をつけて。





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