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『漢字零点王その後の漢字力』の話。



Shiitake

とりあえず、キノコを買って帰る。
私の主食はキノコだと言っていい。
むろんキノコだけではミイラになってしまうので、
正確には摂取カロリーの中心は別にある。
鶏肉と、ビールだろうか。
しかし、それらはストックされている。
冷凍庫は切り分けられたチキンでいっぱいだ。
冷蔵庫はビールとダイエットコーラでいっぱい。
オリーブオイルやニンニクも切らさないようにしている。
というわけで、茹でたり焼いたりしたチキンソテーに、
添えるキノコが必要になる。
キノコもストックできたなら、
買い物に行く回数はものすごく減る。
そう考えて、試行錯誤したことはある。
つまり、干し椎茸を生の椎茸のかわりにできないか。
やってみたが、うまくない。
なぜなのか。
干し椎茸は栄養も豊富で、旨味も増している。
しかし充分にふっくらともどして、
おもむろにピザの具などにしてみると……マズい。
写真のようなふっくら生キノコの蒸したのと、
干し椎茸のふっくらもどったのとでは、
もとは同じはずなのに、まるで別の味がする。
冷凍も試してみた。
これがどうも……干し椎茸ほどではないにしても、
似たような変質をする。
想像だが、細胞壁が破壊されることで、
キノコはその旨味を増すのだろう。
旨味が増しすぎて、主食には向かないものになってしまう。
オリーブオイルよりもニンニクよりも、キノコの味が濃い。
チキンが、椎茸テイストになってしまう。
いただけない。
そういえば、と、焼き椎茸をビールで喰いながら、思った。
ヒトのミイラは漢方薬として江戸あたりでは珍重されたらしい。
頭痛によく効くんだとか。
頭が痛いごときで乾かしたヒトを喰うというのはあれだが、
むかしはニワトリよりもヒトのほうが死んでいたくらいで、
そこにある肉に効能があるならば、
摂取するのは自然なことだったのかもしれない。
漢方薬としてのミイラは、老人のほうが価格が高いのだという。
不思議なことだ。
ぷにっとした婦女子を「食べちゃいたい」と感じるように、
生のヒトなら、脂ののった若いのが美味そうではないか。
枯れた老人をさらに干したのなんて……
いただけない。
だからそれは、見た目や味の問題ではないのだろう。
おそらくは現実に老人のミイラのほうが「効く」のである。
なにかが熟成されているのに違いない。
それはなんだか、興味深い事実ではある。
ヒトの人生の深みが、枯れていく身になにかを結晶させる。
ぷにぷに脂身のお嬢さんよりも、値の張る肉となる。
そういえば、現代でも、干し椎茸は、
びっくりするほど高価なギフトになっていたりする。
生のキノコにのしをつけて送るという話は、聞かない。
つまり生き物は。
乾くと価値が上がる。
現実に効能あるお宝になる。
そういうもんなんだなあ、と思いながら。
ぷにぷにした蒸し焼きキノコを食した。
おいしかった。
味はまた別の話なのである。
「食べちゃいたい」くらいに目眩をおぼえる
魅惑的な干したのには、とんとお目にかからない。
ぷにぷにしたのにすっぱさまで絞りしたたらせ、
がっついて酔う。
ストックすることなど考えてはいけない。
主食は、栄養も重要だが、それ以上に、心を癒す存在。
なまめかしく、その日、手に入れて喰う。
そういうものであるのが、正しいのです。
だから今日も。
とりあえず、キノコを買って帰る。

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 香蕈……こうしん、と読む。
 同じ字で、しいたけ、と読めばキノコの名。
 人工栽培も盛んになり、年中安売りされている。
 しかし、こうしん、と読むとき、
 そこには効能が現れる、胃を整え血流を改善し……
 漢方薬である。

 これ以上書き続けると、このあいだの迷迭香の話と同じ流れになってしまうので、このあたりでやめたい。

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『鶏もも肉の迷迭香焼き』のこと。』

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 安いのでありがたがられないだけで、香蕈の効能は、漢方薬のなかでもかなり万能よりな説得力のあるものだ。もしも香蕈が人工栽培できず、屍体にしか生えないキノコだったりしたら、数千倍の値で取引されていてもおかしくない。そう考えれば、みんなスーパーで干し椎茸を買ってきてムシャムシャ食べるべきである。

 ああ、椎茸、と書いてしまった。
 しいたけ、と入力しても私の使う日本語入力ソフトATOKは香蕈と変換してはくれない。こうしん、と書いてもダメである。かといって辞書登録する気もなく、この十行ほどは「香蕈」をコピペして書いていた。

 椎茸、と書いてしまった、といま書いたが、実際のところ、私はキーボードの横に常備しているメモ帳にボールペンを走らせて椎茸と書くことはできない。肉体機能の問題ではない。漢字に弱いのである。自慢ではないが、小学生のときには漢字の小テストで0点を取りつづけ、職員室に呼ばれるわ放課後の再テストは受けさせられるわ、にもかかわらず、私は翌週のテストのための勉強はいっさいせず0点をまた取り、親にも友人たちにも「ていうか0点取りつづけるほうがむずかしいだろ」と突っ込まれたほどの男である。

 しかし、その段階で私はかなりの活字中毒だったので、漢字の読みと文章の読解についてはむしろ「これテストって舐めてんのか」というくらいにほぼ完璧だったため、相殺の結果、つねに国語のテストで平均点を下回ることはなく、年を重ねるにつれ、国語のテストというものは漢字の書き取りよりも読解を重視するようになっていったから、ますます私は漢字をおぼえようなどという気をなくしていった。必要ないことは、しない主義。

 そしていま、私は困っている。
 接客業で、携帯電話ふくめ辞書機能のある端末を、なにも身につけられない制服のあいだ、それでも漢字を書くことを要求されることはある。たとえば手書きの領収書とか。

「シイタケのシイよ」

 などと言われても、私は「椎」が出てこない。
 こちらにお願いいたします、などとお客さまに頼む。
 小学校で習う常用漢字をお客さま自身にメモ書きしていただくときなどには、いや、わかってはいるのですがいちおうです私は慎重派なのです、などという演技をしながら、もう少しだけ漢字の書き取りもやっておくべきだったか、などと悔いることはある。
 持続はしないが。
 だって、そんなに深刻には困らないから。
 
 なにせ、この国は、みんなで漢字を書けなくなりつつあるそうだし。

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『文化庁 | 国語施策・日本語教育 | 国語に関する世論調査』

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 今年のそれが文化庁から発表されて、私はふだん三紙の新聞を読んでいるのだけれど、良識ある記者のみなさんはそろって同じところを憂えていた。

「漢字を正確に書く力が衰えた」

 その調査に対する回答が、平成13年度調査の結果と比較すると全年齢で大幅に「衰えた」という側に傾いていることについて、「手で字を書くことが面倒くさく感じるようになった」方が42.0%いたという、これも過去に比べ大幅にポイントを上げた結果にからめて、だいたい同じ結論で話をもっていこうとしていた。

「書かないからおぼえないのだ」

 まあ、当たり前のことではある。
 漢字の練習帳なんてものが小学生のランドセルのなかに入っているのは、それこそが漢字マスターへの最短の修行方法だと子々孫々語り継がれてきたからである。

 そのことに異論はない。
 書かないから、書けなくなる。
 当たり前である。

 しかしこの調査、冷静に考えてみれば、アンケートなわけで。
 インタヴューと言いかえてもいい。
 たとえば、こう質問してみよう。

「あなたは美人ですか?」

 そうあるべく努力していますとか、そう言ってくれるヒトもいます、などというのはマンツーマンのインタヴューであれば許されるが、パーセントで結果を出す調査となれば困る。
 イエスかノーか、どちらか。
 となると。
 その答えは、どちらであれ、事実を反映したものだとはいえないものになる。
 本人が、本人のことをどう思うかであり、むしろそこから読みとれるのは、答えた本人が普遍的な意味での美人であるかということよりも、答えた時代の、その文化、流行のなかで、想像上の客観視にもとづいて自己分析したらどういう認識に行きついたのかという……いわば、自意識の位置取りとでも呼ぶべきものの集計だ。

 かなり自信がありながら、いやあ、という場合もあるだろうし、心底、ダメだと思っている場合もあるだろう。しかし、美人などという判断のつけにくい項目ではなく、話もどってコトが漢字に限るならば。本当に現代人の漢字力が落ちているのかどうかは、毎年、漢字テストをやればよいという話。

 しかし、なぜだかアンケートをとる。
 文化庁さまインタヴュー。
 国民のみなさま、どう考えておるのです?

 ひと呼んで「世論」なるものを。

 そういう調査をつかまえて、書かないから書けなくなるのだ、いったい我々はこのままでいいのか、パソコンのキーボードで、携帯のボタンで、タッチパネルのフロック入力で書くほうが、手で文字を書くよりも当たり前になり、手書きが面倒だなんて、堕落ではないのか!

 そこまで強くは書いていないが。
 おおよそ、そんなことをメディアは憂えている。

 読みつつ、私は思った。

 そんなことを言うなら、そもそも人類は、文字というものを洞窟の岩壁に掘っていたのじゃないか。

 私はむかし、建築模型を作る仕事をしていたことがある。模型に看板の文字を入れたりするのは、なかなかに細かい作業で、文字をグラフィックデザインしたことのあるかたならよくわかっていただけると思うが、作業するうちに、いわゆるゲシュタルト崩壊を起こして、文字が文字に見えなくなってくる。バランスがよくわからない、だから手探りで確かめつつ、描く。カッターナイフの先でも、マウスでドットを打つのでも、岩壁に尖った石の欠片で描くのだってそう。崩壊した文字を再確認しながら形づくる作業の結果、気持ち悪いくらいに、その文字が忘れられなくなる。

 たとえていうなら、記憶喪失を起こしてだれだかわからなくなった彼が、でも記憶をなくす前は自分の愛人だったことは確実で、私はやむなく想い出すために彼を抱いてみた、みたいな。気持ち悪い。忘れているのだから他人なのだけれど、カラダはおぼえているから、その形をなぞり確かめているうちに、感じるものはある。記憶を取り戻すというよりは、ふたたび一から知って愛を造形する。結果的に関係性は戻るのだけれど、きっとその行為は異様な違和感ある忘れがたいものとなるに違いない。

 たとえが蛇足な気がするが(笑)。
 ともあれ、シャーペンでA4B罫のノートにさらさら文字を連ねるよりも、岩壁に三ミリずつ刻むほうが、文字を忘れないに決まっている。

 文字をおぼえなくなるからと便利な筆記用具をおとしめるのは、そういうことだ。じゃあ小学校の授業に石板を導入すればいい。一時間かけて掘った一文字を、その子はぜったい忘れない。まったくだ。義務教育なのに鉛筆なんて便利なものを許すから、あどけなくこの世の楽園を信じていた愛らしい私が0点を量産して知らなくてもいい敗北感と他人からのそしりを受けるはめになったのではないか。

 漢字小テストの0点絶対王者だった私は、強く言う。

 コンピュータとキーボードとモニタがなければ、私は文章を書くようにはならなかった。領収書を書くのだって、いまに機械が導入されるだろう。その手のことでいえば、私がふだん使っているレジスターは勝手に計算しておつりを出してくれるのだが、それが技術的にできるのに、いまさら手で小銭を数えるなんて愚かしすぎる。数字と文字は違う? いや同じだ。原稿用紙に手書きが当たり前だったころ、その原稿を校正する編集者が、普及しはじめたワープロを見て、すべての物書きにこいつを使わせることを明文化した法律を作り、違反したらペンが持てないように十本の指のうち八本を切り落とすべきだとデモ行進しなかったのは偉い。

 だれもが読めれば書ける。
 これが進化でなくてなんなのか。

 マイコンは、コンピュータは、ソフトウェアは、アプリは、外部脳だ。
 もはや、それ含めての人類なのである。
 コンピュータ制御なしでいまの自動車は走らない。私はクラッチ操作の必要なマニュアルのバイクに乗っているので、オートマティックな自動車を運転するとき、とても怖い。踏んだだけで走るって。運転者の技術は必要ないじゃないか。それなのに、AT限定免許で走っている車とすれ違わずには暮らせない。が、私は、だれもが運転技術を向上させるためにマニュアル車に乗るべきだ、などとは思わない。人間よりも正確性の高い機械脳のおかげで、事故は減っているのだから。衝突回避の装置が義務づけられるというような噂も聞くし、そうなれば逆に、頼りない生身で剥き出しの機械を暴走させるマニュアル愛好家こそが危険視されるようになるはずである。

 まったくキノコの話からズレてしまったけれども。
 私の脳と指先は「香蕈」の二文字をくり返して書くことはできないが、コピー&ペーストはそれを成す。そうしてキノコの話から漢字について語ることが可能になり、あなたはそれを読んでいる。

 メディアはなぜに警鐘を鳴らしたがるのか。
 かわりに私が言おう。

 電子メールなくして、いまの世にラブレターは生き残っていたか?
 私は友情も愛情もそれで育んできた。
 もしもあなたが漢字のまじった手紙をコンピュータプログラムの助けをかりて書き、それでだれかに言葉で想いを伝えることに成功した経験があるならば。ましてや、そんな行為を、メーラーが存在せず紙とペンだけの世ならば、しなかったであろうと考えるならば。

「漢字を正確に書く力が衰えた?」

 そのインタヴューには胸を張って答えるべきです。

 メールを「書き」ます。
 手で紙に書くより、ずっと正確に漢字を「書いて」います。

 それでインタヴュアーが、いやそういう意味の「書く」ではなくてですねえ、などとほざきやがったら、詰め寄っていい。

「オートマ車で走るのは、走るって言わないんですか?」

 科学はヒトという種の共通財産で、それによって高められた能力は、すべてのヒトの基礎能力。電子メールのない世界に巻き戻ることがあるとするならば、それはまもなく人類が滅びる荒廃した状況。漢字を書く力が衰えた、と答えるヒトが増えたのは、刀を捨てたらサムライではなくなる、といった精神論に近い。私たちは、マシンを身の一部にした。マシンのない状況で文字を書く状況自体が存在しない以上、マシンなしで上手にたくさんの漢字が書けるなどという能力は、芸としての書道に分類するべきだ。

 キーボードが打てるなら。
 フリック入力がこなせるなら。
 あなたも私も漢字を書く力は増している。

 かつての漢字小テストの0点絶対王者が、シイタケを香蕈と椎茸の二種の漢字で表記までする、こんなに漢字いっぱいの文章を書けている時点で、反論の余地はない。

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