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『いつかした最悪なプロレスラーの話』のこと。


 生み出したキャラクターは、もう創造者のものではなく、それを愛したすべての人たちのものだ──偉大なるおこないは、観客を得た時点で、もう演者だけのものじゃない──その姿がだれかの勇気となったとき、その姿はもう、だれかにとっての祈るべき十字架であり、その十字架を建てただれかが、祈るだれかの信仰を理解できないとしても、すでにそこに十字架のある以上、建てた本人にさえ蹴倒す権利なんてない──十字架を支えるのがしんどくなったなら、そっと消えればよかった。残された十字架に、人々は建てただれかの偉大さを思い、そこからまた絶えることのない勇気を得ただろう。

 吉秒匠 『 『とかげの月』/徒然: 『凶獣クリス・ベノワのクソ凶行』のこと。

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 あれから五年が経つ。
 事件はその直後、事件であるということが確定したときから、意図的に人々の記憶野へのインプットを遮断する措置がとられた。
 所属団体の公式サイトからプロフィールが消え、すべての販売アイテムが消え、世界最大のエンターテインメントスポーツ団体を自称するだけのことはある、迅速かつ徹底した観客へのサービスがテレビ放送でも実施された。

 そのことにはふれない。

 昨日までスーパースターだと崇めていた、チケット完売の壮大な興業に神のごとく舞い降りる彼を待ち望んで眠れなかった。
 観客たちは、そんな自分を軽蔑したくはないから。
 顧客サービスとは、客の要望に応えることである。

 そうして、クリス・ベノワは戦わず、演じず、凶獣とも呼ばれず、Tシャツは一枚も売れず、DVDも発売されなかったことになり、そのサービスは、拍手こそなかったものの、反論もなく受け入れられた。

 ただひとり、元人気プロレスラーにして、自身が脳しんとうで引退へと追い込まれたことで、いまでは「スポーツ脳しんとう被害」研究の第一人者と呼ばれるようになったクリストファー・ノウィンスキーが、空気を読まない行動に出た。

 マイケル・ベノワへの接触である。

 マイケルは、クリスの父だ。
 ノウィンスキーは言う。

「息子さんは、プロレスラーとしての長いキャリアで、数え切れないほどの頭部強打を受け、ときには演技ではなく現実に失神することもありました。その脳は、深刻なダメージを負っていた可能性が否めません」

 イナメないどころか、彼の試合を観たことのあるものなら、だれもが確信している確定済みの事実。それをあらためて確認するのは、サービスではない。しかし、いまやエンターテインメントスポーツ業界のスーパースターではなく研究者であり医療コンサルタントであるノウィンスキーは、マイケル・ベノワをうなずかせた。

「解剖しましょう」

 果たしてそれは為され。
 結果発表。

「クリス・ベノワの脳は85歳のアルツハイマー患者とよく似た状態でした」

 そうですか。
 プロレス業界は、選手の負う脳のダメージについて真剣に考えなければいけませんね。
 アメリカンフットボール選手を含むスポーツ業界の人気選手数名は、自身の死後にノウィンスキーのチームによる解剖をおこなうという書類に同意のサインをしていると伝えられている。
 すべてのスポーツの健全化、安全化への研究のために。

Head Games

 しかし、クリス・ベノワは。
 だれが見たって、そんなことを望まない男だった。
 今日死んでもいいとさえ考えず、ただ会場の盛り上がりだけを望み、そのために使われる自分の肉体は、観客のものだとさえ感じていた。頭部を強打して、意識が飛び、それを繰り返し……そういった選手人生のなかで、自身の寿命が延びているなどと思うほうがどうかしている。まぎれもなく毎日が脳をスカスカにして、死期を引き寄せている。
 演じることよりも生きることが大切ならば、練習生の時期に業界を去っていて当然である。それは逆説的に、彼が選んだということ。

 もちろん、本人が選んだなら客のために脳をスポンジにしていいわけではない。もっと安全な魅せかたはないのか、業界は頭を絞るべきである。

 ノウィンスキーが言いたいことはそれだろうし、解剖結果を聞いたマイケル・ベノワの出した声明も、それに沿ったものになった。

「事件の原因は脳の損傷にあったのかもしれない。
 息子はすでに灰になった」

 そうですか。
 85歳のアルツハイマー患者によって家族が惨殺されたというケースはあまり聞かないが、同等の脳状態になった40歳ならば、凶行におよぶ体力があるのでやってしまったというのだろうか。

 息子は灰になった。
 父は原因はスポンジ化した脳にあると信じた。
 それはそれでいい。
 頭を打ちすぎたから殺人者になったという推論は、裁判所で認定されるものではない。だが、灰を裁くわけにはいかず。
 認めたくはないが、かつての彼の観客の側にも、そういった意識がある。

 殺されたのは、彼の妻と息子。
 どこかの他人ではない。

 心中は家族の問題。

 五年前にも書いたことだが、私は愛しあい目的を共有した夫婦が、どちらかの一方的な暴走にせよいっしょに逝ったのは、家庭の事情の領分に含まれると思う。けれど、息子は血のつながりがあったとしても、すでに次の世代であり、父だろうが母だろうが、彼の人生に一方的に介入するのは許されない。

 ダニエルは、窒息させられたとき薬品の過剰摂取で意識がもうろうとしていたはずだという話も聞くが、それらの情報も含め、事件のその後は、ほとんど伝わってこない。

 それなのに、なぜ私がいまこれを徒然と書いているかといえば、クリス・ベノワの所属していた団体のすばやい措置により、事件当時の公式発表までもがウェブ上からは抹消され、おかしなことにこの極東のさらに末端のちっぽけなサイトでぶつくさ言っている私の日本語でのブログを、英語圏から探しに来る人が日々絶えないなどということによる。私が読んだもとの英文ニュースは消え去り、私の書いた邦訳だけがここにあり、それをまた英語に訳して読んでいるヒトがいる。

 もちろん、カタカナで「クリス・ベノワ」と検索するヒトもいる。
 それをググると『とかげの月』は、トップページに表示される。いま現在、この国でベノワのことを思い出して「あれ、そういえばいつのまにどこに消えたの? 引退とかあったっけ?」とインターネットで検索をかけ、ひどいタイトルのブログに目を通すヒトは10人から20人。『とかげの月』の上にはWikipediaが表示され、そこにも当該事件のことは記述されているため、それを読んで満足するヒトが倍くらいはいるだろうか。だとすると、だいたい50人前後が、毎日「クリス・ベノワ」について調べようと試みていることになる。

 私は、それをかなり多い数字と見る。
 『とかげの月』の全体の文章からすると上位にくる検索ワードではないけれど、毎日10人を越すならば、たぶんそのうちの数人は、クソだのなんだの書かれたブログで、現実を知るのである。

 ほぼ一週間だった。
 一報が報じられ、解明が進み、すべてが削除された。
 その一週間、プロレス中継も、ニュースもたまたま見なかったヒトはいっぱいいて、ときどき思い出すだけだけれどクリス・ベノワの大ファンだというヒトも絶対にいる。

 そうすると。
 そんなふうに書きながら。
 私が、彼らの崇める十字架にクソを塗りつけている。
 そういうことになる。 

 いや、わかってはいる。
 そんな真似はしないが、私が私のブログを消去したところで、クリス・ベノワはそっと消えたことになどならず、この地上に多言語インターネット網があるかぎり、二十年前のように「この選手、いまはどこでどうしているのか知らないけれど、この試合のときには神だった」と目をキラキラさせ続けることなど、できない。私は、いま、とある日本人歌手の曲をかけながらこれを書いているが、そのヒトは薬物四法の違反で逮捕されたことがある。行き詰まり、ラリった頭で書いた曲に、私は感動し続けているわけだ。
 二十年前の映画のなかで近未来だった社会に私たちはいて、今夜観る舞台に出演する役者のプライベートを、いっさい知らないなどということがありえなくなってしまった。あわてて消しても、ニュースは永遠に残る。伝えたメディアさえ判読できないどこかの国の難解な言語に変換されて、わけのわからないタイトルで論じられたりするのを、止める手だてなんてない。

 どこかでだれかが意味もなく死ぬのを知りたくなんてない。
 でも、地球の裏側の小さな町の戦闘の詳細まで私たちは知り得る。
 偉大なるエンターテイナーの凶行を知ってしまう。
 黙っていてくれればいいのに。
 五年も経って、一発検索で現実を知る。

 私は別に私を責めはしない。
 しかし、私はあいつに失望した、あいつはクソ野郎だ、といま自分で読みかえしても歯がみするそれを、へーそんなことがあったんだー、とまったく別の「熱」で読んでいるのだろうだれかのことを、ログ解析の数字を見て毎日のように思う。
 この出来事自体を、考えることもなく考えることがある。

 大きな十字架が、丘の上に立っている。
 それを探しに来るヒトがいる。
 私は、そこにいなくてもいいのに、そっと横に退いて、十字架を見上げて感涙するヒトを黙って見ていればいいのに……

「この十字架を建てたやつはクソ野郎になっちまったんですよ」

 と呟きはじめる。 
 酒屋でたまたま隣に座った旅人に、町外れの洋館にまつわる悲惨な怪談話を勝手に喋り出す、気色の悪い白ヒゲの老人のようだ。

 だからなんだということでもない。
 そんなふうに感じる、というだけ。
 記憶とはやっかいだ。
 好きだったヒトに対する記憶は、特に。
 当時とは、微妙に変わっているが、大きくは変わっていない。
 忘れかけているということなのか、でも、だれかが彼の名を検索するたびに、私は思い出すのだ。忘れようがない。写真立てに、愛したが逝ってしまっただれかの写真を入れているみたいな気分になるときがある。彼のことをそんなふうに扱いたくはないのに。

 わかったこと。
 ラリって書かれた曲も、良い曲なのは変わらない。
 リングの上での生き様を思い出すと鼻にツンとくるが、いやあいつは最期にそういうことを、と打ち消す、でも、おぼえている。

 十字架は、変わらずそこに在る。

 五年経って、それこそがひどく悔しい。
 蹴倒す行為にも蹴倒されていない。
 泥だらけで傾いているが、消去はされていない。

 時間は。
 怒りや悲しさを薄れさせるが、虚しさを変質させない。
 ため息が出て。
 すっきりしない。
 五年経ってまだなら、きっとこの先も、ずっと。

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