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『プロレス劇』のこと。



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『仮面ライダーフォーゼの月』のこと。

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 そんなふうに複雑だったのが半年前。
 はじまって直後のツイート。

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仮面ライダーフォーゼ初回を観る。これ、子供たちの記憶に残る作品になるだろう。舞台劇やプロレスを好きになる次世代が増えるかも。ド派手な衣装の古田新太が出てきて歌い踊って欲しいなあ。

twitter / Yoshinogi

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 仮面ライダーフォーゼのメイン脚本は中島かずきさん。

 中島さんといえば、劇団☆新感線。
 新感線は大阪芸術大学で旗揚げされた劇団で、私も関西の美術系大学在籍時に比べものにないくらいの弱小劇団を旗揚げし(でも実はいまでも同じ名で活動している(らしい。現在、私はノータッチなので名は出さない))、そこで脚本を書きはじめたことがいまに続いているので、ひと時代前の劇団☆新感線がまさに東京進出だ全国制覇だ叫んでいたのは、まさにオオサカンドリームの最たるもので、嫉妬とか羨望とかいうのを越えて、ただただテンションを高める材料でした。

 あそこに実例がある。
 演劇は、まだやれることがある。
 書いて、演じることに、意味はある。

nakashima

 ご本人の書かれた小説版もあるのだが、やっぱりそこはそれ、なんというかそのアニメ化で売れるラノベのようなもので、このお話は舞台あっての熱をもって読んだほうがおもしろいということに異論のある人はいないであろう。と、書くと、中島小説があれなのかというようなふうに聞こえてしまうかも知れませんがそれはそうではなく。
 舞台劇が、奇跡のように高められているのです。

 仮面ライダーしかり。
 脚本のすばらしさはそれはそれとしてあくまで原材料。特に中島脚本のようなものは「天真爛漫でありながら憂いを抱く姫」を魅せられる女優がいるのか、とか「ふてくされた顔がキュートな荒くれ者」がハマる男優がいるのか、とか、それが大事。
 正義と悪。
 愛と友情と嫉妬と闘争。
 単純化。
 直球。
 おやくそく。
 しかしてそれらを真正面から演じる覚悟と技術をあわせ持つスタッフ・キャストがチームを組んだとき、直球は直球であるがゆえに当たると痛い。

 これを当てに行くというのは、猛者だ。
 なにこの話、だれでも思いつくし。
 そう言われる覚悟もいる。
 勢いで魅せているだけ、という評に対し、たぶん、それを書いたヒトは「勢いで魅せてくれましたねえ」と顔をほころばせて演者たちを誉めるだろう。それは想像ではなく、ひどいキャストで演じられていたら、グダグダにだってできる脚本だということは、観ればわかる。演出のテンポの悪さで、空前の駄作にだってなりうるホンだと。

 でもそれをやりきった。
 信じる直球を指示したヒトと、投げたヒト、全員の頭をスゲえなあ、と、ぐりぐりしたい。

 要は、チームだ。
 まさにフォーゼが描いている。
 友だち集めて仮面ライダー部の雰囲気は楽しくなる。
 それがそのまま演劇というものである。

 と、私は観ていて思ったので、あなたが仮面ライダーフォーゼのB級なノリでも直球にずどんとやられたなら、レンタルビデオショップで借りてでいいので『劇団☆新感線』とか観てみてほしい。で、仮面ライダーの脚本家さんの書いたホンで演じられる傑作舞台を観て、それもまたおもしろくてすごかったと感じたあなたが、もっとほかになにかないのかと私に訊くなら、マッスルを奨めたい。

 多くのひとが知っているだろう時代のあだ花「ファイティングオペラ」ハッスルという団体があった。そのパロディーとしてはじまりながら、プロレスファンに「プロレスってなんだろう」と真剣に考えさせた度合いでは本家をはるかに凌駕する、マッスル。

 いまは一児のパパで板金職人マッスル坂井が旗揚げし、第10回「マッスルハウス」興行で自身のプロレスラー引退とともに幕を引いた、そこでおこなわれていたこともの。
 
muscle

 プロレスには脚本がある。
 そこを突き詰めていくと、愛でも友情でも憎しみでも誤解でもいいが、観るものの共感を呼び、心を揺さぶる出演者の感情と感情のぶつかりあいがあって、最終的にノレる音楽がかかって必殺技が決まる、という演劇だととらえることもできる。
 それはつまり、仮面ライダーそのものである。

 平成ライダーシリーズにおいて、もはやタブーではなくなったことをフォーゼも展開している。すなわち、悪の怪人が現れるにせよ、仮面ライダーに倒されない回もある、という物語の魅せかた。二話完結もおやくそくになり、そのことは逆に、前半のラストで決まって戦闘シーンを入れるというおやくそくを廃れさせ、アクションシーンありきではない自由度において脚本の幅が広がり、結果、平成ライダーはマニア以外の大人視聴者にも楽しめるSF一時間ドラマとして確立したのである。

 仮面ライダーだと、ファンも納得しやすい。
 仮面ライダーは、仮面ライダーがそこにいるかぎり、ウルトラマンではない。
 哲学的な響きだが、そいういうこと。

 では、プロレスでは、どうか。

 プロレスは脚本がすべてだというところを突き詰めていくと、楽屋にまで中継カメラを持ち込み、駐車場でケンカする親友同士や、ソファーの上でいちゃつく男子レスラーと女子レスラー、などという描写を持ち込んだほうがドラマ性は上がるに決まっている。それを実際にやって世界を牛耳った某アメリカンプロレス団体は、いまでは一般紙で試合の結果ではなく人物相関図が掲載されるようになっている。試合? そんなのどうでもいいから、あいつの浮気に彼女がキレてた件の続きはどうなったの?

 みんながそっちに興味があるのなら、プロレスラー同士の恋愛を描いて、試合はドラマをダレさせるから、やんなくてもいいんじゃない?

 マッスルハウスでは、リングが設営されない回もあった。
 「プロレスのリングの上でおこなわれることはすべてプロレスである」
 それはジャイアントな馬場御大の言葉だが、マッスルにおいては、そもそも旗揚げしているマッスル坂井が名前の割にマッスルでさえなく、本職は映像作家だという小太りな男である。リングさえあったりなかったり。脚本があるということを隠そうともしない物語構成なので、必然的にきっちり試合する時間は減っていくのだが、それが観客動員数を上げるということを証明してしまうのだからタチが悪い。マッスルから派生した(という関係性で正しいのかどうかよくわからないが)新北京プロレスにいたっては、プロレスの興行なのに人が死ぬし、爆発するし、踏みつぶされる(天をつく巨人が現れたりするのである)。

 異端を確信犯的に演じながら、毎回、王道の現役大物プロレスラーが参戦することでも客を呼んだ。出てくる大物レスラーは、ビンタ一発で退場したりもするのだが、演出がしっかりしていればそれで満腹になれるのだと気づかせてくれたのもマッスルだった。
 ファンは増えに増えた。
 しかし、結婚して子供が生まれたから板金職人になると言って、終わった。
 終わったので、いまになって考えている。 

 あれは、プロレスだったのかと。
 いや、プロレスとして観ていたから、それは間違いもなくプロレスで、でも、おぼえているのは試合ではない。おぼえているのは、笑ったり泣いたりしていた自分だ。舞台で叫ばれたひとことだけが記憶に残っている、という回が多かった。

 そのあたりも仮面ライダーに似ている。

 マッスルの興行の映像化は、レンタルビデオショップに行っても並んではいなくて、団体の直販だけなのだけれど、それもいまだに品切れ再入荷待ちが続いている状態なので、とてもライトなユーザーさんにお勧めできるものではない。マッスルハウスの第11回は、マッスル坂井の息子がプロレスラーになったら開催されるらしいが、もちろんそんなものを「待っていようぜ!」と勧める気もない。

 なので、あなたには、DDTプロレスリングを勧めたい。
 先日「マッスルはDDTで生きている」と言った人もいたので。
 私も、それは確かにそうだなあ、と思ったので。

 現在、マッスル所属だった選手のほとんどは、DDTプロレスリングの所属である。選手だけなら、そこで逢える。しかし、がっつりプロレス団体DDTであるので、マッスルの頃のようにプロレス無しで演劇が繰りひろげられることはない。

 それでも。
 観ている側は期待する。
 巨人出てこないかな。
 ロボは?
 黒魔術師は?
 だれも死なないの?

 まったくそんなことはもうやっていないのに、期待されるからイヤんなったのか、ついに先日、元マッスル選手同士で、こんなセリフが演じられた。

「マッスルの亡霊を消し去る!!」

 がっつりプロレスやってるってことを世に知らしめるのだ、という叫びだと思うのだが、それでも観ている私はまだ思う。そういうことをわざわざ言いだしたってことは、裏返しの客をあざむく脚本が用意されていて……いよいよマッスル演劇復活か?

 て、言っていたら、本当に武道館でマッスルが観られるみたいなことに。

 マッスルがパロディーしたハッスルの後継団体スマッシュはリアルに電撃解散してこの先どうなるのかと目が離せないし、いや、これ、なに書いているか今回グダグダなんですけれど、要はそういうことが言いたい。

 ザコ戦闘員とか、劇中劇とか、忘れられかけていた古き良き仮面ライダー演出を蘇らせながら、現れる登場人物たちすべてと友情を育むという展開によって、週を重ねるごとに舞台上の人数が増えていき、にぎやかに華々しくなっていくオペラの手法を大河ドラマに組み込む、その野心的にして実は演劇の王道である宇宙世紀の仮面ライダーフォーゼに、ドリフのコントみたいだなあと感じながらも心ふるわせ、握りこぶし作ったり、ときにはうるりとまできてしまったあなた。

 プロレスを観るべきです。
 観客のために必要以上に肉体を鍛えときに心を病むまでに演じることに人生を消費する、真の演劇人=プロレスラーたちががそこにはいて、最終回のこない熱いドラマがずっと続いている。
 どこの団体でもいい。
 しかし、私はそもそもジャイアント馬場全日本からプロレスを観はじめた系譜のファンなので、故三沢光晴がひきいた団体プロレスリング・ノアが好き。そのノアが三沢没後、苦境によって社員選手をパートタイマーに切りかえるというリストラ策に出た結果、フリーの身になった全日本育ちの選手たちが、いまぞくぞくと上がりはじめている。そういう事情もあって、DDTプロレスリングをオススメしたい。
 私の大好きな地味目のクラシックレスリングを得意とするノア戦士たちに、演じる場を与えてくれた高木三四郎社長にブラボーと叫びたい。ていうか叫ぶ。

 なんにせよ、最近の仮面ライダーを観ていて思ったことのように書いていますが、前々からずっとそう思っていること。

 ちょっと笑って、ちょっと泣いて、戦って。
 広がっていく物語が好きで、でも主人公は成長するよりもキャラを固めていつでも変わらずいて欲しい……そういうヒーローものが好きなひとは、プロレス観はじめたら、それで人生のなにがしかが変わるくらいに得るものがある。
 単純に、たのしむこともできると思う。
 テレビの地上波放送がなくなって、積極的に観る気がないと目にすることさえなくなってしまったから、別になにがあるってわけでもないんだけど、こうやってプロレス好きは、ちょくちょく口に出すべきだと考えている。

「プロレスがいつも期待にこたえる結末を用意してくれると思うのは間違いだ」
 と、先日のSMASH.25でTAJIRIが言った。
 せっかく二年でファンも育ってきたのに、解散なんてという場面で。
 しかし困ったことに夢を売る舞台にも金はかかる。
 世知辛くてヒーローもふてくされざるをえないときもある。
 そのセリフのあとで、彼は言葉を継いだ。

「でも、期待にこたえる結末を用意しようとした姿を観てもらえたら」

 それこそが魅せたいものであると。
 演じる者がいて、脚本を書く者がいて、演出をする者がいて、観る者がいる。
 仮面ライダーフォーゼの企画会議で、人々は、古くからの仮面ライダーファンが離れないか血の汗を流して苦悩しただろう。その結果を、古くからのラーダーファンである私はときどき苦笑もしながら、おおむね勇気に拍手して、たのしんでいる。
 ちょうど、仮面ライダーと日本のプロレスは似た位置にある。
 正義が悪を倒せば沸いた昭和初期に生まれ、ファンを育て続け、国も育ち、いつしかこの国に敵などという存在はいなくなった。

 ただ、純粋にたのしもうと観る者へ、戦う図式でなにかを伝えるという行為はとても難しい。あらゆる試行錯誤はしつくして、それでも観客を呼ぶための次の一手。フォーゼは仮面ライダーと呼べるのか? マッスルはプロレスなのか? そう言って観なくなる者も確実に存在する。でも、それでも次の弾。まだその席に座って舞台に目を向けたことのないヒトへ。届く弾。

 深化しなくちゃいけない。
 しかし、獲得したいのはライトユーザー。
 そのジレンマのなかで、仮面ライダーも、プロレスも、いま、すごくバランスのとれた、いいアンバイだと私は感じるのです。



DDTプロレスリング公式サイト

 だから逆に、あなたが演劇寄りのプロレス好きなら、今年の仮面ライダー、めっちゃツボにはまるとお知らせ。あなたが知っている仮面ライダーとは違う感じかもしれないけれど、行き過ぎながら守ってる。にやにやしながら観ちゃいますから、観てみて。

fourze

 あーあと話のついでに。
 ももいろクローバーZも、プロレス好きのくせに観ていないなら観ておくべき。
 最近、すっかり武藤敬司公認の弟子となったことを武器にして、あのプロレス会場で魅せたグレート・クローバーZの衣装でクリスマスライブ踊ったりもしています。これもにやにやしちゃいます。で、なんでだか、彼女たちを観ていると涙がこぼれるのもプロレス的。
 

momokuro

 結論。必死って大事。
 でも重くない。軽くあるための過剰な鍛錬に歓声が沸く。
 やりつくしたあとにこそ、次が見えてくる。瞬間を演じる本気こそを魅せるプロレス劇的なものが、あれこれ最近成熟してきたなあと感じるのは、たぶんはじまっているのです、次のカタチが。

 定義:
 プロレス劇 =
 真実を装飾することで説得力を増し娯楽として成立させたもの。

 プロレス劇化とは、たんに集客のためのショーアップを指す場合もあるが「真実を受け入れやすい形に変化させる」行為も指す。意識的、無意識的を問わず、直視できないことを忘却や無視ではなく、加工することで見つめ、再認識をもってそれを受け入れる。端的に言えば「癒し」の効果が、そこにはある。








     

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