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『フランケンシュタイン / 対決』の話。


「自分はスズメと同じだと思えばいい。私のことはみんなが知っていて、愛してくれていると。私はけっして無ではないと、自分に言い聞かせるんだ。あんたを創ったのは悪魔だが、あんたは生まれたばかりの赤ん坊のように無垢だ。望んで、求めて、そして願えば、夢がかなうと思わないか?」


ディーン・クーンツ 『フランケンシュタイン / 対決』

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 デュカリオンの絶望は深い。
 けっして人間にはなれない妖怪人間のように、フランケンシュタインの怪物たちもまた、人間にはなれない。そのうえ哀しいことに、彼らは、もともと人間を超えるものとして造られている。

 クーンツの話からそれるが、いま読み終えたところなので、この作品からも引用しておきたい。

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「そんな凄い人が、何でバイク乗るの?」
 速く走ればいいと思う。
「お約束なんだよお約束。まあ、速く走る改造はされてないんだきっと。跳んだり蹴ったりだ」
「改造なん? 人やろ」
「改造ニンゲン」
「は? 外科的なもんなん? それって無意味と違う?」
 無意味だねえと美緒は笑った。

Loups=Garous2

京極夏彦
『ルー=ガルー2 インクブス×スクブス 相容れぬ夢魔』

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 なにが驚いたって、十年経ってちゃんと「続編」だったことに驚いた。
 前作ありきなので、揃えて読んでください。よかった。

Loups=Garous

 販促帯に毒がどうのと書いてありますが、いや『ルー=ガルー2』は、このセリフで売るべきだと思う。

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「行け。二人だから孤独じゃないけどヒーローは一号とか二号とかいるんだよ!」


京極夏彦
『ルー=ガルー2 インクブス×スクブス 相容れぬ夢魔』

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 深いよ。仮面ライダー好きにとっては、唸ってしまう14歳少女のセリフ。

 改造ニンゲンは無意味だ。 
 だって、改造したらヒトじゃないから。
 たとえどんなにものすごい超人だって、この世でたったひとりだったら。それは困る。ことあるごとに想い出してしまうが、キカイダーが、みんなと旅行に行って、みんなは改造人間キカイダーのことを愛すべき仲間だと思ってくれているのだが、旅館で和気あいあいと食事をはじめたら、キカイダーはおなかをぱかっと(物理的に本当に)開けて、そこにある給油口へオイルを注ぎ始めてみんなドン引き。気づいたキカイダーも涙顔。あのシーンは、改造人間の悲哀を幼い私の心にくさび打ってしまった。

(まったく私の記憶による情報なので、実際にそのシーンがキカイダーの作中にあるかは確約できない。『人造人間キカイダー』の放映開始時に私はまだ生まれてもいなかったので、観たとすればなんどめかの再放送であり、他のヒーローものと記憶がごっちゃになっている可能性はある)

KIKAIDER

 私の妻は背が低い。
 その父は、娘よりも背が低い。
 その義父が先日、引越祝いだ布団でも買ってやろうタクミとやってきて、いっしょに買い物に行ったのだが。布団などよりも、自分の服を多量に買っていた。たまたま訪れたその量販店には、紳士服の小さいサイズコーナーがあったのだ。

「見つけたときに買わないと、着るものないんや」

 人類のなかでさえ、ちょっと平均値からはずれただけで、そのように不便なのである。ユニクロのLサイズがジャストフィットな私などは、ずいぶん生きやすいということになる。

 美緒は、たぶん仮面ライダーはキックに特化しているからバイクに乗る必要があるのだろうと推測しているが、去年の正月に転んでリアルにバイクのその部品を買い替えた私は断言できる。人類向けのオートバイを、仮面ライダーのキック力でシフトチェンジしたらレバーが折れる。ヒーローは、サイズうんぬんよりも、生地にこだわらないと、ユニクロのジーンズではひと暴れしたらボロ切れを腰に巻いているだけの姿になるはず。

 どんなにすぐれた身体でも、ガソリンで動くというのは大変だ。
 おなかのハッチを開けて給油するヒト型生命体という描写は、私の亡くなった祖父が胃瘻(胃に直接栄養剤を注入する投入用コックを外科的に装着する施術)を施されてから、けっきょく病院のベッドで寝たきりで逝ったのを想い出させる。もうこっちの会話も聞こえていない祖父をかこんで、人工呼吸器のシューハーいう音を聞きながら、サイボーグじいちゃんだ、と思ったのは、私ひとりではなかった。あの胃瘻を決めたときが分岐点だったねと、通夜にみんなでうなずいた。改造人間は、ひとりでは生きられないから、受け入れてくれる施設もぐっと減るし、人間用に作られた我が家に戻ることも難しくなる。

 みんなが知っていて、愛してくれている。
 祖父はスズメだったが、愛されるあまり、孫の顔がわからなくなってなお、おなかいっぱいの栄養を与えられていた。
 私たちも、かなりのフランケンシュタイン博士である。
 終末のサイボーグじいちゃんは、ほとんど無に近かった。

 世界は、ヒトが造ったものである。
 だから、超人といえど、ヒトの形をはみ出すと、生きづらい。
 一号と二号くらいでは、孤独ではないにせよ、選択肢はない。
 われを忘れて腕に力を込めてしまった彼は、抱いた彼女の腰骨を砕け散らすだろう。
 となれば、本郷猛は一文字隼人を抱くしかない。

 冒頭引用のデュカリオンのセリフは、ひとりぼっちで孤独で、自分は無から生まれて無へ向かうだけの存在だとなげくフランケンシュタイン博士の創造物へと向けられたものである。彼女(と呼べるかどうかもさだかではない脳だけの姿なのだが)は、創造主によって自殺を禁じられているため、デュカリオンに殺してくれと請うこともできない。

 だからデュカリオンは察してやる。
 彼女自身では、夢見ることもできていない夢を実現してやる。
 その手を汚して。

 デュカリオンは、クーンツ作品のなかでも圧倒的に異質な描写をされている。愛と正義の人ディーン・クーンツは、ヒーローにそんな行為をさせたがらなかった。しかし、この連作『フランケンシュタイン』では、まっすぐに、それを書いている。

 ヒーローが、哀しき人造人間にあたえられるものがあるとすれば、それは「人間らしさ」であり、そのすべてをフランケンシュタイン博士に禁じられて生まれてきた彼らに、唯一とどけられるのは、神があたえたもうた平等なる「死」だけであると。

 クーンツの『フランケンシュタイン』は、テレビシリーズ用の脚本から派生した、三部作として書きはじめられた。実際には、三部作の好評によって契約が更新され、いまもシリーズは続刊中である。
 しかし、最初の結末は、ここにある。

 すべては唐突だ。

 三冊目にして現れる、あきらかに映画『ロード・オブ・ザ・リング』のスメアゴルに着想を得たものと思われるグレムリンじみた生物ジョッコは、しかし作中のだれよりも「人間らしさ」を持っていて、この三部作をまとめる存在になった。

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 ジョッコには、なるべく考えたくないことがあった。それは、自分にはなぜ同類の仲間がいないのか、自分だけがなぜこんな姿をしているのかということで、考えると悲しくなった。
 それでも考えた。考えないわけにはいかなかった。頭のなかがぐるぐるまわったりひっくり返ったりしても、考えた。
 オチンチンがないのは、たぶんそのせいだろう。同類の仲間がいなければ生殖器は必要ない。


ディーン・クーンツ 『フランケンシュタイン / 対決』

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 ジョッコは、自分の「オシッコを出す管」を、スウーズルと名付けている。くるくる巻いてしまっておけるので便利だが、そんな形ではマスターベーションもままならないし、そもそも人間用のトイレで用を足すのもむずかしい。

 それだけのことでも、ひどく哀しい。

 だが、それは、ジョッコが不確定要素の暴走の果てに、フランケンシュタイン博士の意志とは無関係なところで誕生した生物だからである。
 博士は、創造主の自覚をもっている。
 ジョッコのような哀しい生き物をわざわざ造ろうとしているわけではない。

 彼が生みだそうとするのは「新人種」である。
 ひとりふたりではない。
 いずれ、旧人類のすべてを新人類に置きかえる。
 そうでなくては意味がない。
 人の世に、改造人間ひとりでは無意味なのである。

 もちろん、世の曲がったことを独自のユーモアで作品そのものに変えてしまうクーンツ・タッチは三部作のラストで加速し、最初からわかっていたことだが、読者はフランケンシュタイン博士の真剣な狂気に唖然とさせられる。

 博士は、旧人類をこの世から消すための、旧人種抹殺生物も多々造っているが、そのなかでも知能は低く凶暴性の高い、まさしく生ける旧人種抹殺機である怪物に、シリーズ三冊目にして悩まされることになる。
 だってフランケンシュタイン博士は、旧人種なのである。
 自分を改造して、改造人間になり、不老長寿なことになって研究を続けてはいるが、しょせん外科的なこと。
 そう。無意味。

 改造されても、ヒトはヒト。
 それなのに改造されたぶん、少数派になって不便になる。
 それは多少強いとか、長く生きられるとか、そんなことを凌駕した不便だ。
 まして、博士自身が世界をそう作りかえようと画策している。

 旧人種全滅すべし。

 全滅させられる旧人種のなかで、博士はたったひとりの改造人間。
 夢のなかで博士は、新人種の王になっているが、それは裏返せば、たとえ新世界がおとずれ、この世が新人種のものになっても、そこで博士は孤独な王ということである。
 動体視力のいい新人種のために、テレビは数十倍速で放送されるだろう。
 博士は、目を改造する?
 なんという哀しいお話。

 そんなこんなでクーンツは、ジョッコのほかにも唐突すぎるキャラクターを登場させ、むちゃくちゃな話を、むちゃくちゃにまとめあげてしまう。今回のむちゃくちゃさは、あの『心の昏き川』の<ゴジラ>を軽く越えた。まあ、もとがフランケンシュタインですから。そこにクーンツ・タッチをもちこんだらもう、そうなるのは目に見えていたというかなんというか。そしてまた、私はそれをためらわずにやってしまえる師をあがめるのです。

 小説作法の話をするなら、近年、ディーン・クーンツがあのベストセラー『ベストセラー小説の書き方』の方法論は古くなったと公言していて、だったらこれからのエンタメ小説とはどう書かれるべきなのかというクーンツなりの答えのいくつかが、本作では散見される。

koontz

 たとえば。

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 階段をおりて店を出ていくときに、いっぱい買いすぎて右手をデザート・イーグルに添えておけないことに気がついたが、なにごともなく無事に車に戻った。だが、危険は数分後に彼女たちを待ち受けていた。


ディーン・クーンツ 『フランケンシュタイン / 対決』

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 または、

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 ジャネットはヒョウのように優雅で力強くて、しかもひそやかな足取りで居間を出た。バッキーは、ポーチに面したフレンチドアが開いたままになっていることなど完全に忘れて、いそいそとジャネットのあとにつづいた。


ディーン・クーンツ 『フランケンシュタイン / 対決』

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 そんな描写。
 これらの書き方は、かつてのクーンツが絶対にやるなと説いていたものである。
 三人称であっても、視点はその章の登場人物のものでなくてはならず、そこに作者の視点が入ると読者はとたんに「さめる」と強くクーンツは力説していた。
 にもかかわらず。

 危険が待ち受けていることを。
 ドアを開けたままにしているのを。
 知っているのは作者だけないのに描いちゃダメなのでは?

 従順で抑制の効いた敬虔なるクーンツ先生の信奉者たる私などは、師がタブーを平気で犯していることにパニックになりそうになる。だが、師が錯乱してそれを書いたのでないかぎり、これは、新たなひとつの教えだ。
 そうだあの教えは古くなったのである。
 しかし『ベストセラー小説の書き方』の改訂版が出る気配はないので、だとすれば、私は、みずから、それらの文章を読みかえねばならない。

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 小説が芸術の一形態として成長してきた初期の段階には、作家は物語の途中で、テーマを強調したり、これからの話の展開を露骨に予告するために、直接読者に語りかけることが許されていた。しかし現代の読者は洗練されているから、そんな押しつけを我慢してくれない。作家が読者に直接話しかけた瞬間に、読者は目の前にあるのが物語でしかないことに気づく。気づいてしまえば魔法からすっかりさめてしまう。もし君が窮地におちいり、どうしても予告しなければならなくなった場合には、必ず登場人物をとおして、彼らの声で語らせることだ。つまり神の声として君自身が顔を出してはいけないのである。 


ディーン・クーンツ 『ベストセラー小説の書き方』

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 なんどもくりかえし語られる、最重要注意点である「神になるな」。
 その教えを師みずからが無視した以上、私はこの文章を、こう読みかえるしかない。

 すなわち。
 『ベストセラー小説の書き方』で語られる「現代」はすでに過去となり、いま私たちの生きるこの世は「未来」である。
 そして「未来」の読者は、さらに洗練されている。

 もはや、読者は予告を押しつけなどと感じないのだ。
 達観しているので、その気にさせてやる必要などないのである。

 だいたい、3Dの飛び出す映像で描かれる映画を観て「これは物語なんだ」と気づかない客などいない。しかし、いまや3D上映は当たり前のものとなっている。つまり、観客はあきらかに嘘くさい演出があったとしても、興奮できるならそちらを選ぶのであり、その後に感動的なシーンがあれば、涙だって流せるのである。
 さめたりはしない。
 
 『ルー=ガルー2』のなかで、美緒が「過去のヒトは画面から出てきたヒーローの着ぐるみショーに興奮できたんだ」それはなんてレベルが高いことだ、と感心しているシーンがある。思えば、二十世紀には、プロレスが八百長かどうかで激論が交わされたりもした。しかし二十一世紀のいま、そんなことを真顔で話し出したら失笑されるだけである。嘘かどうか? いや、どっちであろうとも──むしろ嘘であっても、上手な物語を語ってくれれば金を払うと観客は考えている。

 これが洗練だ。
 とすれば。
 古くなった聖書の読みかえを、まとめればこういうことになる。

 もっと煽れ。
 予告して盛り上げ、予告なく新キャラを投入しろ。
 キャラの立ったふたりの軽妙だが内容のないやりとりに時間を割き、中盤で山場があるように匂わせながらスカしてラストまでひっぱり、そのうえで伏線などなしに驚愕の大団円を突きつけろ。
 どんなに突飛でも読者はさめない。
 なぜならここは洗練された「未来」だからである。

 この国にも好例がある。

to love 
 
 いわゆる萌えは、一時期、わびさびの道にも通じる奥深いものだとされていたが、ここにきて、萌え美少女ラブコメの代名詞といえる週刊少年ジャンプ連載作が『To LOVEる ダークネス』として続編を発刊し、とても人気だ。内容は、ラブコメというよりかは、露出と接触に重きをおいた、直球のエロである。しかしこれをもって、作者は神と呼ばれている。

 萌えたい客に、一ページ目でパンチラを提供し、二ページ目で服をぜんぶ剥ぐ。
 それがいまのエンタメの物語作法であり、サービス。
 唐突すぎる展開に読者はさめるだろうか?
 いや、大絶賛だ。

 作者は神で良い。

 だからクーンツは、予告する。
 次の大会の対戦カードを数か月前から煽って魅せるプロレス興行の演出そのものに、予告しておいて、ひっくり返す。ひっくり返すが、最後のカタルシスだけはまもる。ダレそうなところには奇妙な生き物を投入し、主人公の意外すぎる一面をさらけ出し、悪にも愛すべき間抜けさを与え、奇跡だって惜しみなく起こす。
 
 そして三部作で完結のはずだった『クーンツのフランケンシュタイン』は、売れに売れて契約更改で続刊決定。
 読者はさめなかった。
 ポシャったドラマのスタッフにざまあみろとクーンツは笑い、映画化も決まった。

 『フランケンシュタイン / 対決』のなかで、物語は『オッド・トーマス』のシリーズと同じ世界の出来事であることが明喩されている。

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『オッド・トーマスの霊感』の話。

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 しかも、それがとっておきの大サービスであることを、クーンツ自身がわかって折り込んでいる書き方で。
 事実読者は……私は、大興奮。 

 神になるな、と、かつてのクーンツは言った。
 けれども。
 未来の洗練されつくして退屈きわまった読者たちは、エンタメ小説界の帝王に、新たな注文をつけはじめた。

 神よ、もっと、私をもてあそんでください。

 それこそが、出せば売れると確定している改訂版『ベストセラー小説の書き方』を、ディーン・クーンツが出版できない理由なのかもしれない。

 教えよう!
 エンタメとは、作者たる神が、観客たる小羊どもへと、退屈を感じるヒマもないほど突飛で直球で激しい興奮を与えつづけ、もてあそぶプレイである。 

 書けないけれど、そう思いはじめていることが読みとれる。
 『オッド・トーマス』と『フランケンシュタイン』の両シリーズによって、ディーン・クーンツは「未来」の作家になった。
 王であり神。
 愛と正義の人。
 クソベテランのくせに、終わるどころか、まだここからはじまるのだ。
 でかい背中にもほどがある。
 ……ついてゆかずにいられない。

koontz

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『ディーン・クーンツの哀しいデュカリオン、あるいは原題のフランケンシュタイン』の話。

『フランケンシュタイン / 支配』の話。

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