最近の記事

スポンサードリンク

月別アーカイブ

『私の宇宙』の話。



 黎明期のパソコンなんてのは、そうたいしたことができるわけでもなかったのだけれど、プログラミングをおぼえはじめたころ、だれでも教材としていちどは使うライフゲームを私も一生懸命作ったものだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『ライフゲーム』のこと。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 たとえば、手頃なサイズのこんなのをちょっと触ってみて欲しい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『John Conway's Game of Life』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 いくつか適当にドットを打って、スタートすれば、ジェネレーションを重ねるにつれて、ルールに沿った生命のいとなみが模される。

 私はもっと大きなサイズを動かせるソフトをときどき、起動させてみることがある。綺麗な大画面に、ドットが踊る様子は、指さし確認で画面上のドットがぜんぶ数えられたころとは、別のシミュレーションソフトを見ているみたいな気がする。



 死んで動かなくなった集団は墓標となり、どこまでも進んでいく孤独者はどこにも行きつかない。そのゲームをなんどか繰り返すと、なにか虚しさがこみあげてくる。生命とは動かなくなるまで動き続けるだけのことかと信じてしまうのだ。

 でもまって。

 ライフゲームは、これだけ世界中で愛好者がいて、拡張されたソフトも星の数ほど生まれたというのに、そこから別のなにかが生まれたという話は聞かない。生命の進化を模したゲームなら、それは動かし続ければやがて進化を遂げなければ嘘である。でも、当たり前だけれど、画面からなにかが出てくる気配はないし、踊るドットたちが、唐突に迷ったかのような逡巡の舞いをみせることもない。

 厳密なルールのもとで動くから。
 そのルールが単純だから。
 だからなにも生まれないのだろうか?
 でも、ルールが複雑化したところで、生命が出遭って争うか抱きあうかして次世代を生んで死ぬのは絶対で、そのくりかえしのなかで出遭わなければ動かなくなるし、抱かなければ争いになって滅び、増えすぎてもまた動けなくなるというのは、けっきょくのところ単純化されたライフゲームのルールとなんら変わらない。

 変わらないのに、いろんなイキモノがいる。
 ニンゲンもいる。

 たぶんそういうことになったのは、なにかあったからなのだ。
 傷、だったり。
 歪み、だったり。
 変わらざるをえない、壁、だったり。

ルール。

● 誕生
● 維持
● 死滅

 それをいくら複雑化させたところで、変わることはない。
 ならば、私はなぜここにいるのか。
 どうして、ルールにのっとって生まれるかそのまままか死に絶えるかせずに、その途中でグダグダと考えていたりするヒトなのか。
 なにかあったのだろう。
 いつか、ずいぶん昔に。

 突然変異が進化をうながす。
 のだとすれば、外的要因があったから変異は起きるのであって、整然とマスゲームをくりかえすゲームオブライフな点々たちへ、どかんと降ってきたそれこそが知的生命体のみなもとだ。神のフライングボディアタックと呼べなくもないが、ただたんに床が崩れてまっさかさまとかいう事故だと考えるのが適切だろう。意志ある生命が生まれるのに、別の意志ある生命体の意志が関与しているなどと考え出しては、話がややこしすぎていけない。

 ともあれ、変異したにせよ、ライフゲームが終わったわけではない。私が考えているのも「維持」のあいだにおこなっていることで、それは天の巨人からの視点ならば、なんだかうごめいているドットが瞬いているけれどLEDバックライトが切れかかっているのだろうか四万時間の寿命などというのは嘘か、といったくらいのことなのかもしれない。

 ──そんなことを。
 イーガンの短編集を読みながら思った。
 今回のは、そういう話が多いのだ。
 宇宙について考えさせられてしまった。

 長編『ディアスポラ』の一部がもとは短編だったという。その一篇『ワンの絨毯』が、いちばんの楽しみだったのだけれど。期待以上だった。むしろ、これは短編で読むべきものだと感じた。オチがわかっている状態で読んでさえまた「おぉ」と唸ってしまうくらいだから、もしも『ディアスポラ』を未読のかたがおられれば、ぜひとも『ワンの絨毯』を先に読んで欲しい。一回読んでわからなかったら、わかるまで読みかえして欲しい。わからないのは、知識がないからではない。イーガンは、わからない者にもわかるように書いている。その世界が、炸裂するビッグバンのように理解できたとき、あなたは生涯、サイエンスフィクションというジャンルから逃れられなくなる。
 あまたの受賞歴を書きたてるまでもなく『ワンの絨毯』の完成度はえらいことである。最後の数行の問いかけは、別に目新しい思想でもないのだが、その短編の最後に問われると……

 私は夢を見た。
 悪夢だった。
 宇宙というよくわからないもの。
 その姿を具体的に考えつづけてしまうと、ヒトは恐慌状態に陥る。
 起きているうちは理性でおさえていたのが、眠ったら夢になって襲いかかってきたのだ。

 心からこの一冊をお薦めしたいのだけれど、着想に重きをおくSF作品では、肝心なところを語るとネタバレになるので、ヒトに薦めるのはとてもむずかしい。
 たとえば『クリスタルの夜』の設定くらいはいいだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 連中は人間と対等な存在ではない。いまはまだ。
 そして、もしダニエルがためらいを覚えるようになったら、いつまで経っても対等になることはないのだ。


 グレッグ・イーガン 『クリスタルの夜』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 いまよりもっと容量が大きくて、速くて、ライフゲームに神のフライングボディアタックをかましておきる突然変異のその先まで計算できるコンピュータが完成したから、ダニエルは、はじめてしまった。
 超ライフゲームである。
 たぶんこれは、将来起こらないわけがない出来事だとだれでも気づく。ファミコン世代の私はライフゲームにさえ感動したものだが、そこから四半世紀もたたないうちに、自宅でCG映画が作れることになってしまったのだし。

 で、超絶速いパソコンのなかで、超速で進化するライフゲームを走らせる。突然変異の進化もありなので、ダニエルはためらってはいけない。人間と同等の知的生命体にまで進化させたいのだから。そりゃあもう、アダムとイブを残して全生命体抹殺とか、宇宙怪獣襲来とか、良い感じに進化しそうなのを見つくろってさらに厳しい環境に放りこむとか。でも、そうしないと進化しないことを私たちは知っている。神の思し召しなんかではなく、地が割れるただの事故のくりかえしのなかで、犠牲に犠牲を重ねてヒトはヒトになりえたのだ。

 が、まあ、その続きは読んでいただくとしよう。
 バレでもなんでもなく、そこではダニエルが苦悩するターンがやってくる。
 ライフゲームのドットを殺すのは罪ですか?
 ていうか命ってなに?
 次の新作RPGでは、街の人たちが勝手に学習して人間っぽい動きをしてくれるよ、なんていうのはいま現在すでに実現していることなのですが。その街の人を育てて、あげく私はゲームをクリアしたら二度と起動させることもない。起動させないなら、街の人にとってなんでもないことだろうか。

 でも、いま、ぶちっとこの私の宇宙の電源が切られたら……

 宇宙は風船のようなものだという。
 いまも膨張していることは証明済みらしい。
 ふーん。て。
 いや、膨張って。
 どこで?
 その宇宙たる風船は、どこに浮かんでいるわけ?
 と問うと、いや宇宙とは風船の表面であって、我々も星々もみんなそこにあるから膨張する宇宙の表面でそれぞれの距離は離れて行きつつあるのだよ、とか。
 はい? 表面、て!?
 じゃあ風船のなかは?
 宇宙の外は?
 なに、外とかなかとかないの?
 どうなってんのそれ。

 そしてますます思うのです。

 このメモリ宇宙。
 神のモニタ。
 なんであれそういう限界の先を想像できないのって。
 だって、偉い学者さんでさえ宇宙の外とかよくわからんとか平気でいうし。
 それこそが、証拠じゃないのん。

 ルールにのっとって、誕生と維持と死滅をくりかえす狭間でかすかにまたたいている。
 私はドットだ。
 点だ。
 点というのも、点と定義されてはじめて点なのであって、だれも見ていないのなら、ただ無為に走らされ続けている単純なシミュレーションソフトの計算結果の一瞬である。
 ここに在る、とかそういうものではない。
 在るようでないような仮想の点。
 そんなもんが、なにか考えるとかいうのは百歩ゆずってともかく、怒ったり悩んだり愛したり切なくて叫んだりとか、片腹痛い。

 こんな複雑な世界が、シミュレーションのわけがない?
 でも、こんな複雑な、と思ってしまう時点で、かなり私の想像の限界点って低いと思う。
 歴代の人類たちも、せいぜい神とか宇宙人とか。
 いやそうじゃなくてさ。
 メモリ宇宙の外の観察者っていうのは……
 ああだめだ、観察「者」とか、視点とか言いだしたら負けている。
 そうじゃない、ちゃんとしたそういうのが想像もできないって、ほらやっぱりここは走らされているプログラムのなかってことなんじゃないのか。 

 って泣きたくなる。
 ここはまぎれもなく私の宇宙。
 でも宇宙って、すべてを含んで宇宙というらしい。
 宇宙の一部が私。膨張しているのに外もなかもない、つまりはぜんぜんよくわかっていない宇宙の一部だなんて、私とはなんと謎な存在。
 遺伝子とかゲノムとかいったって、RPGの古文書みたいなもの。
 伝説の剣が抜けたらその世界は大騒ぎだけど、しょせんモニタのなかのこと。
 いま目の前に見えているあなたも、私と同じ宇宙の一部。
 ここにあるのかどうかも判然としないドットだ。
 ドットに萌えるとか腹立つとかありえんし、マジで。

 グレッグ・イーガン読むと、しばらくはそんな感じ。
 おすすめ。
 
Greg Egan
 
 彼の公式サイトは、時間を忘れます。
 心がやさぐれたときなどに訪れるとよい。

 たとえば今回の短編集の表題作『プランク・ダイヴ』のページ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『The Planck Dive - Cordelia's Tour』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 だんだん近づいていったらブラックホールはどう見えるか。とか。
 ページの上のほうにJAVAのアプリがあるんですが、これで星の数めっちゃ増やしてブラックホールツアーに向かうと、きれいとかそういうこと以上に、宇宙に現実に虚無があるっつーのはどういうことだと考えてしまう。作中では、ツアーの参加者たちはコピーされた人間で、本体は生きているんですけれど、コピーの体験を本体が共有できるわけではないので、だったら虚無に飛び込んだコピーの意識のほうが、きっとなにかをつかんで高尚な次元に行ってしまうのではないかなあ、なんて。
 それもまた、ライフゲームのドットを殺す罪の話に似ています。

 私はコピーなんだからつまんない世界でだらだら生きるより、ブラックホールに飛び込んで見たことのない光景を見て死ぬわ。でも、そのコピーもコピーでそんなこと考えられる本体の私と同じくらいに賢いのだからいっこの知的生命体といえるはずで。だったら死んでいいのか。自分だからいいのか。いや自分でもダメだろう。でもそもそも自分でやれない体験をやるのに作ったコピーなのに制限があるというのも意味がなく、コピーはいまでも考え続けているけれど、生きた人間ではないからライフゲームのドットのようなもので、好きにしてよいのかも。
 いや。いやいや。

 なんだかんだと。
 8ビットのマイコンでライフゲーム作って見入っていたときもそれはそれで感動だったけれど、二十一世紀に生きて、ライフゲームのドットの生存権利について考えるなんて、夢にも思わなかった。
 ある意味、進化は間違いなくしている。
 無駄なこと考えられるようになったというのは人類の余裕だと信じたい。
 いやほんとに誇張ではなくて、あと何十年か生きていたら、家庭用ゲーム機で走るゲームだって、いまの私には想像もつかないことになっているにちがいなくて、それってどんなのだろうと考えたっていまの私にわからないから未来なんだけれど、宇宙の一部たる私が時間の前後まで想像しているということは、たぶん、そんなもんを越えた三次元、四次元のまた先があるので、やっぱり未来はわからないのでたのしみなのである。
 そのたのしみだけで、生きるに充分あたいする。

 生きていてよかった。
 生きつづけよう。
 どうせドットだし。
 膨張する宇宙がぱんっとはじけるところまでは生きられないだろうけど。
 ブラックホールの向こう側が見られるなら、ダイヴしてもいい。
 しているんだと思う、このドットの人生。
 進行方向はルールが決めるが、見るのは私だ。
 私の宇宙を、たのしめるだけ、たのしむのである。
 仮想でもコピーでも、感じている本人には、それが宇宙。
 ここが私の宇宙。
 居心地は悪くない。

TRACKBACK http://yoshinogi.blog42.fc2.com/tb.php/411-af281fbe