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『フランケンシュタイン / 支配』の話。



 警備主任のウェルナーは、コンクリートの床でさえ重さに耐えかねてたわむのではないかと思うほどの巨体の持ち主だった。まさに筋肉の塊のようだが、ウェイトリフティングや筋トレをしたわけではない。なにを食べようと、すぐれた代謝機能が彼の獣のような体を理想的な状態に維持しているのだ。
 鼻水が垂れるという欠陥はあったものの、その点は解決策を模索している最中だった。


ディーン・クーンツ 『フランケンシュタイン / 支配』

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 二冊目である。
 一冊目について以前に語ったが、それ以上につけたすことはない。
 そもそも三部作として構想された『クーンツのフランケンシュタイン』テレビドラマは残念だったけどノベルスでとりかえそうシリーズの、順当な二作目。最初は共著者がいたけれど、クーンツ先生自身の言う「通信簿で“友だちと仲よく遊ぶ”という項目に丸をつけてもらったことがない」という協調性のなさで相棒の書いた部分まで手直ししてけっきょく個人名で出すことになった二冊目。
 なにごともなければ、テレビ業界なんてクソだぜボギーと憤りながら三冊書いて、まあアイデアは形にしたし世界中で訳されて犬の餌代は稼げたからよしとするか、というディーン・クーンツのエンタメ方面遺伝子をフル稼動させ、ドラマをポシャらせた連中に実力を見せつけるだけの出来事に終わるはずだった『クーンツのフランケンシュタイン』起承転結のまさに「承」。三冊目で「転」と「結」がまとめてやってくるのだろうと予測させる安心の読書体験。初めてのクーンツ体験ならともかく、食べるだけで筋肉が育つかわりにいつでも鼻水が垂れていてティッシュボックスが手放せないアンドロイドを筆頭に、おかしなキャラの乱れ撃ちで、本来おかしなところのないふつうの人間なはずのキャラたちの会話までヒップホップなビートになっている、そのがっこんがっこん具合は、クーンツに慣れた者にとってはむしろ微笑むべき急流すべりの上がるところ。クーンツ師、今回もハメ外すほど
テンション高く書いておりますなあ。そんなはずだった。

 はずだったのに。

 詳しいことは前にもさんざん書いたから、それを読んでいただきたい。
 リンクを貼るのも面倒なので、検索してください。

 つまるところ、この『フランケンシュタイン / 支配』は、それ以前に書かれた『クーンツのフランケンシュタイン』ということになってしまったのだ。

 トリクシーが逝った。

Koontz

 確執のあった父が逝ったときにも、ディーン・R・クーンツと名乗っていたクーンツは自身の名から父親レイの頭文字だった「R」をとり、あきらかに作風が変わった。
 しかし、はじめて飼った犬が逝ったとき、クーンツはトリクシーの「T」を名前に加えたりはしなかったが、あのときよりも激烈に作風どころか人生の方向さえ変えた。

 そして『クーンツのフランケンシュタイン』は、三部作どころか、現在五冊目が出版されている。さらなる続刊の契約もあるらしい。だれかの鼻をあかしたり、日々の家族の糧を得るためや、まして憤りのはけ口に技術を見せつけるような執筆は、いまのクーンツの人生にはない。あれ以後は、すべての作品が、

「どうだい、トリクシー?」

 お前が育ててくれた作家ディーン・クーンツの新刊は。
 そう問うために、書かれている。

 この二冊目は、だから、もとはテレビドラマのためのプロットだったキャラてんこもりな「承」でありながら、いまになってみれば、それ以前のクーンツの終末から生まれた一冊。   

 父と息子。
 クーンツについて語るとき、避けられないテーマが、そこには描かれている。まだ愛する愛犬娘はぬくもりをもってそばにいた。だから、クーンツにとっては「まだ」父親こそが、心に占める最大の影だった。かつてのインタビューでの発言は、実際には「できなかった」妻へのいたわりから出たものかもしれないが、それでも自分の父親の劣性遺伝子におびえて「子供をつくらなかった」などというのは、愛と正義の人らしからぬ、本音の漏れたものだったのだろうと、ファンはいまでも思っている。

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「しかし、考えてみると、やつらの生殖方法は野蛮だし効率も悪いよな。培養水槽のほうがはるかに優れてるよ。清潔だし、いろんな調整もできるし」
「培養水槽で赤ちゃんはつくれないわ」
「培養水槽でつくられるのは役に立つおとなだ。みんな、ただちに社会のために働ける状態で生まれてくるんだから、きわめて効率的じゃないか」
「私は赤ちゃんのほうが好きなの」と、シンディは言い張った。
「それはよくないことだ」とベニーが諫めた。


ディーン・クーンツ 『フランケンシュタイン / 支配』

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 父なる創造主、かつてのフランケンシュタイン博士にしていまは名を変えヴィクターに造られた新人種たちは、セックスを奨励されているが生殖能力はない。培養水槽で生まれて「社会に役に立つ」というのは、つまりはいつか旧人種を滅ぼしてヴィクター様を頂点とする新人種の世とするための社会奉仕であり、おもな任務は、殺した旧人種になりかわってなにげなく暮らしつつそのときを待つことである。
 そんななかで、シンディとベニーは、暗殺という特殊任務に就くエリートだ。しかし、シンディは無類の赤ん坊好きで、最近では少々頭のネジがゆるみすぎて、セックスすれば自分も子供が産めると信じている。

 そんな相棒にうんざりしはじめているベニーは、想う。

 旧人種を滅ぼして世界を支配する意味ってなんだ?

 もちろん、そういう哲学的なことを考えるように造られていないベニーは、頭を振って、ファーザーの命じるままに旧人種を殺すことに悦びを見いだすのだけれど。

 少年期のクーンツが、貧しさのなかで、支配者である父親の気に入るように培養水槽で完成して生まれてきたかったと願ったことがあったかどうかは、知らない。でも、生まれたときから大人で、こんな家を出て、社会で働けるならどんなにラクかと思っていたのは確かだ。インタビューで回想するクーンツは、いつだって成功を夢見ているが、成功してこんなふうではない自分の家族を持ちたいなどとは考えていない。
 若き日のクーンツの野望は、向上心に見えるが、逃げたい一心だったともとれる。

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 キッチンの入口に達したとたん、アーニーが幸せなのはこの女がいるからではないかという思いが頭をよぎった。幸せを味わうには、体のなかで子供を育てて、子供を自分のことと同じぐらい大事にしてくれる母親が必要なのかもしれないという思いが。


ディーン・クーンツ 『フランケンシュタイン / 支配』

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 ヴィクターのもとを逃れたランドル6もまた、家族にあこがれる。
 しかしそのあこがれは、自分が子宮のぬくもりを知らず、創造主はいても父も母もいないという境遇だから「幸せ」なるものが手に入らないのではないかという、いわば逃げだ。自身の外に理由を見いだすと、けっして幸せになれないというのは『犬が教えてくれた幸せになるヒント』に詳しい。

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共和党にも民主党にも腹をたてちゃだめ。
隣人、友人、母さん、父さんにも。
たとえ何か理由があったとしても、だめ。

Koontz

 トリクシー・クーンツ
 『犬が教えてくれた幸せになるヒント -Bliss to You-』

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 白と緑のものしか食べられないランドル6。
 なぜならたくさんの色があると混乱するからであって、幸せになれない自閉症の超新人種である彼は、それがわかっていながら刺激的すぎる外界へと逃げだし、もちろんパニックに陥る。陥るのだが、勇気を出して緑色のつぶつぶが混じった茶色いアイスクリームを食べたとき、彼は悟る。

 衝撃的なおいしさだ。
 ミントの粒をよりどころにしながら、はじめてたべた茶色いチョコレートアイスは、ランドル6の外界への怯えを取り去り、彼は行きすぎて、安らぎさえ感じるようになる。
 ここはぼくの家。
 そして、ママが必要。

 クーンツファンにとって、このくだりは、小説というものに人生の救いを見いだしたクーンツと、クーンツを育てた妻ガーダの存在にダブって読める。

 人生なんて偶然ひとつで善きも悪きも転がるもので。
 なにかに出遭ってひらめいて救われることだってあるもので。
 こここそが、ディーン・クーンツが怪物の物語を焼きなおす意義である。

 怪物さえ、一歩を踏み出し、希望を見いだす。
 それは結果としてヒトの側から見れば、とち狂った怪物がぼくのママを奪いに来るといった悲劇になってしまうのだが。

 若き日のクーンツの言動には、過剰にエンターテインメント小説家である自身への自負があふれていて、そのことは逆にまわりから見れば、なにも本人がそんな声高に言わなくても、エンタメ作家だからなんて言ってバカにするのは売れない文学界のやっかみ連中だけなのに、と映っていた。
 自由闊達なスタイルこそが真骨頂なのに、ときに堅苦しくエンタメ小説の作法について語ったりしはじめる……いや、けっこう好き勝手に書いてるでしょ、なにを高尚ぶってんの、とファンは苦笑いする。
 クーンツが過去に売れたい一心で書きまくったポルノ小説群を、自身で買い戻しては歴史から封印しているというのは有名な話である。

 おそらく、クーンツ自身も自覚はあったのだ。

 逃げるために小説を書きはじめた。
 妻に食わせてもらいながら恥知らずな真似もした。
 子供は産まず、犬も自分には飼えないと信じていた。

 なんらかの、症、と表していい過剰さがクーンツにはある。
 世界で読まれるもはや使い切れないほどの金を稼いだベストセラー作家になったいまでさえ、自分を卑下することを得意にしている。友だちと仲よく遊べない資質も変わらず、犬の名を借りて語るのは、なぜもっと謙虚になれないんだ、感謝せよ、感謝せよ、感謝せよ!

 きっと、追い求めてしまう自分に、自分で言いきかせている言葉なのである。
 だから、無心に主人の幸せを願い、願うことで自分も幸せになっている頭の単純な動物を天使だと呼ばずにいられない。
 ダウン症候群の天使的人物を作中に登場させるのはやりすぎなんじゃないかと心配しても、クーンツは、心底あこがれてそれを描いている。
 もっと純粋に、もっと無垢に。

 愛娘犬トリクシーが弱り、逝ったあと、虚無になりながらもクーンツの言葉は迷いがなかった。トリクシーの公式サイトには、彼女は地上の天使で私たちを変えてくれた存在だと書いてある。追い求めたものを、彼は手に入れたのだ。すがれる存在、信じたくても信じきれなかった、それこそが創作の主題にさえなっていた、神などというあいまいなものではなく、自分を変えて、護り、いまも見続けている、天使。信じるに足るどころか、疑う余地さえない。

「どうだい、トリクシー?」

 呼びかけることのできる実在の天使を得たあとのディーン・クーンツは、これからよりいっそうの深みに挑んでいく。怖れはなくなった。だからこそ、当初の思い悩んだ迷走ぶりとは裏腹に、狂気の父親に生みだされた怪物の物語が、三作目からクーンツ独自のシリーズとして書き継いでいかれることになったのに違いない。

 ドラマのために描かれた。
 当初は共著でクレジットされていた。
 二冊目『フランケンシュタイン / 支配』には、だから、まだ怖れているディーン・クーンツがいる。のがれられない、描かずに避けては通れない、父と息子の物語。映像化スタッフという他人の手をたずさえれば、やれるかもとはじめたが、けっきょくまたひとりで向かいあうことになった。

 もうすぐ、大きな喪失と天使の世界が待っていることは、知らない。
 たったひとりで、精神よりも技術を頼りに、なんとか無垢なる怪物たちと迷えるヒトの姿を描こうとする、媚びるようでさえある必死のクーンツが、ここにいる。

 こんなふうに読んでしまうのは、長いあいだ彼を追い続けて、その人生と作品を見比べることがクセになってしまった一部のクーンツ信者だけなのかもしれない。けれど、そういう読みかたをしてしまったからこそ、私は、この時期のクーンツを、愛しく思う。

 もがきながら血を流すように曲を作って売っていたころには共感できたし熱狂できたけれど、メジャーになって年喰って技術でごまかすことさえなくなって達観したように流暢な歌を奏でるようになったロック歌手を聴かなくなった経験がなんどかある。

 ディーン・クーンツが、そうならないことを祈りながら読んだ。
 ここにはむしろ、がむしゃらにシャウトしている彼が見える。
 子供はあきらめ、犬は飼えたけれど、まだ達観の天使には逢っていない。
 出自に誇りをもてず、偉大な映像化の原作者と呼ばれたい、過去の名作の力まで借りてなにかを観客に向かってほとばしらせている。
 作家としての青春が、終わっていない。

 またも映像化に裏切られたことで「こっちを見ろ! これを読め!」という絶叫が、ひさかたぶりに行間にあふれてしたたっている。
 
 ここにいるディーン・クーンツが、私は好きです。
 そして、未来を怖れます。
 天使をたずさえて。
 彼には怖れを笑うのではなく、格闘する道を選んでもらいたい。
 多くの作家が、棺桶の前に、どこかに納まってしまうものだが。
 裏切って。

Koontz



(風に聞くところでは、近々『オッド・トーマス』の続刊もあるという。滞っていたシリーズをさくさく量産する勢いの師に、うれしいような怖いような……饒舌になると我を忘れる癖があるからなあ。客を置いていかない範囲でテンション高めにますますの活躍を願うばかり。引越してクーンツ専用棚を作ったのですが、大きい棚の半分開けて待っているのが、この発刊ペースなら、どんどん埋まっていきそうです。日本でも、フランケンシュタイン映画化(前に書きましたが、ドラマはポシャったが大型映画化が決まっています)で、クーンツ人気にさらなる火がつくことを期待してやみません)



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