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『リリス斬首、ねじまき少女、日本人』のこと。



Amaryllis2011

もう少しで咲くはずだった。
今年もアマリリス。
毎年鉢わけして、
増殖に増殖を重ねたひと鉢。
物干し台のそばに置いていた。
洗ったシーツを干していた
風のとても強い日でした。
それは私の目の前で起こったのです。
リリス斬首。
おうっ、おおおおうっ。
嗚咽を漏らせど、あとのまつり。
一年に、いちどの。
四枚の羽根の先に、一輪だけの。
リリスは咲く前に土のうえ。
ひろいあげ、見つめました。
土を払い、思いました。
つぼみのまま朽ちるのか。
私はそれを、見るべきか。
台所に行き、流水で洗い。
菱形の皿に、のせました。
あれ…ああ、なんだか。
きれい。
すごく、すき。
写真を撮りました。
そしてゴミ箱に捨てました。
皿のうえで朽ちゆくのを、
見つめたい私もいたのだけれど。
今年のリリスは、つぼみで咲いた。
それでいいのではないかなと。
ほかの鉢の咲いた姿も撮らず。
この一枚だけ。
なにか。
いまの私にしっくりくる。

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『リリスの増殖と孤独』の話。

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 それというのも、アマリリスの首が大きいから起こった悲劇。
 現代、アマリリスと呼ばれるのは、人為的に交配された品種改良につぐ品種改良の果てに生まれた花々のことであって、いまでもひっそり流通している原種アマリリスというのを目にしたことがあるかたならご存じの通り、そもそもこの花は、花弁こそびろんと垂れてはいるが、長い茎の先にクリオネにも見えるようなこぢんまりとした花を咲かせる生き物だった。

 それが品種改良……というのは、ヒトの側から見た視点で、実際に花にとって「良」い進化だったのかはともかく、ヒトは、アマリリスがもっと大きな花を咲かせ、もっとあでやかであればいいのにと願ったから、アマリリスはそんな姿になってしまった。

 原種のアマリリスは花に色もなく、薄緑色の花弁であったりする。それでも、高い山の中腹で咲いていれば、びろんとした小振りの花弁で、充分に虫たちにアピールすることができたのだろう。それが、いまのような姿になった……なったおかげで、アマリリスは世界中の家庭で育てられるようになったのだから、それもまた順当な変異だったのだよと、進化論者は言うに違いない。

 でも、我が家のリリスだって、株分けのみで増えている。
 花が枯れればタネができるが、それは球根に行くはずの栄養を吸いとってしまうから、手早くもぎとってしまうべしと花壇の作り方の教科書46ページ56行目には書いてある。つまるところ、現代のアマリリスに受粉は必要なく、だとしたら虫を呼ぶために咲くとされる花だって必要なく、大きな葉っぱだけで、地中でどんどん球根をクローン増殖させていけばいい。
 そうあるべきだ。
 それがリリスの側から見れば真の進化だろう。
 咲く必要など、みじんもない。

 それでも、彼女は咲く。
 咲かずにいられないのである。
 そう造られたから。

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「遺伝子に刻まれているんです。わたしたちは服従したがるんですよ。ほかのだれかに指示してほしがるんです。そうすることが必要なんです。魚にとって水が必要なように。服従こそがわたしたちが泳ぐ水なんです。ヤシモトさまがおっしゃったことは真実です。わたしたちは、日本人よりも日本人です。私たちはヒエラルキーのなかで奉仕しなければならないんです。彼女はご主人様を探さざるを得ないんです」


 パオロ・バチガルピ 『ねじまき少女』

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 造られた、服従せざるをえない少女というアンドロイド設定は、ジャパニメーションで使い古されたものだが『ねじまき少女』がヒューゴー賞とネヴュラ賞にローカス賞とキャンベル記念賞、コンプトン・クルック賞まで獲り、SF新時代の旗手とバチカルピが評されたのは、まさにその作品が奇をてらわない類型的なニッポンヲタク文化の美少女アンドロイド作法をもちいながら、きちんとSF文学作品として完成していたというところが大きいように思う。ぶっちゃけ、かたぶつSF文壇の方々は近年、その問題に頭を悩ませていたはずなのだ。

 そもそも、サイエンスフェィクションというジャンルこそが枠を取り外す試みをする、なんでもありの場だったはずなのに、それがいつのまにかヲタク文化などというものが世界を席巻して、羽根の生えた萌え美少女アンドロイドがご主人様のために戦うのを世界中の読者がだだと泣いて感動してマンガって、アニメって、いいものだわあ、と抱きしめている。それはまずい、というところに『ねじまき少女』が来た。

 『サクラ大戦』を彷彿とさせる、曖昧模糊としながらなんとなく懐かしい時代設定だが、実は未来。

 いままさにこの国ではあの地震もあって関心の高まっている電気エネルギーの貯蓄という方法論として、確かドイツだったと記憶するが、SFではなく現実に電気エネルギーを位置エネルギーに変換して貯蔵する施設を造っている。それと同じ方法で『ねじまき少女』世界では、ゼンマイにエネルギーがため込まれている。とか。

 遺伝子改造された、ドアを通り抜ける見えたり見えなかったりするチェシャ猫と呼ばれる幽霊のような猫が、繁殖しすぎて困っている、とか。

 いかにもそれ日本の漫画からパクってきたんじゃないの、という設定が、てんこもりだが、設定詰めこみすぎの感はなく、整然と格調高い。そのあたりのサジ加減が、SF賞総なめという「いやまあ、いろいろ言いたいことはあるけれど、これは確かに今と未来を絶妙に描いて予測している今のSF作品なので、これに賞やっておかない手はない」という決断だったのではないかと。なんだかんだ言って、この作品が評価されたのは、ねじまき少女が日本製だということが大きい。

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「うそじゃありませんよ。さわってみたことがあるんです。チェシャ猫は実在する生き物だ。あなたやわたしとおなじようにね」
「あいつらは空っぽの船だよ、魂はない」
 ソムチャイは納得しないそぶりで、「日本製のもっとも奇怪なしろものだって、ある意味、生きているといえるかもしれない。死んだ家族が、ねじまきに生まれ変わったんじゃないかと思うと不安です。だれもがみんな収縮時代の幽霊になれるほど善人じゃありませんからね。なかには、日本の工場でねじまきに生まれ変わって働きづめに働く羽目になる者もいるでしょう。むかしとくらべると人口は激減してるんです。魂はどこへ行くんでしょうね。たぶん日本で、ねじまきに宿るのかも」 


 パオロ・バチガルピ 『ねじまき少女』

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 うちにはほかにエネルギーを生みだす方法がないんですよ、あなたたちは私たちに飢えろというのか、私たちの造った車に乗って帰り、私たちの造ったテレビを見ながら、私たちには電気をつかうなと? なんてことを言いながら原子力を使いこなす特権を得て、その魔法の光る石からエネルギーを吸い出す技術を着々と独占している、おい、あのニッポンという国のやってることがみんなは怖くないのかよ! ……いや、怖いのである。日本の内側にいるとあまり意識されないが、外からの視点で見れば、この国はやる気になればいつだって最強の兵器を造り出せるのに、あえてやらない無表情な善人だ。

 バチカルピの描く未来で、少子化のきわまった日本は、世界では倫理的問題から禁止されている人造人間の製造を、特権的に認められている。で、もちろん無表情な日本人は、得た特権をいいことに、こっそり人造人間「ねじまき」の軍事バージョンや、愛玩バージョンを造っている。外国にやってくる日本の要人が、肌のきれいなねじまきをつれているが、それを見てタイ人は思う。まあ、ねじまきは日本人のものだしな。あの国は、かつてひどい爆弾も落とされたし。狭い島国で、地震はしょっちゅう起こるし津波に沈みかけたし。

 エミコは、立て、と怒鳴られると、立ってしまう。
 犬の遺伝子が愛玩用ねじまきには組み込まれているという噂だ。 
 エミコは、主人に可愛がられていたが、タイで捨てられた。いまでは、タイのアングラなストリップ小屋でショーにつかわれている道具。結果として彼女はキレて、ご主人様を失い、新しいご主人様をさがす羽目になるのだけれど。そのあたりの描写が、バチガルピったらヲタク文化を取材するなら、エロ同人誌もちゃんと読み込むべきだなあという感じが純正日本人ヲタからしてみればある。日本の愛玩メイドは、肛門にシャンパンの瓶を出し入れされたくらいではキレたりしない。ちょっとエミコは、ねじまきとはいえ自虐的にすぎる。その救いのないキャラ設定こそが、魂のないねじまきを造りまくって少子化もなんのそので発展を続ける怪物国日本の生みだした造形物らしくて、世界の賞賛を得たのだとしたら、日本人として反省すべきところではあるのかもしれない。やっぱり日本人はヘラヘラ笑わずに、冷血でいてこそ世界の期待に応えるキャラ演技ができているということなのかも。

 で、アマリリスのように。
 非道な日本人は、愛玩用ねじまきの肌をすべすべな陶器のごとく見えるように……もちろん、さわり心地もいいように……毛穴を極端に小さく造ってしまった。おかげで、日本でエアコンの効いた部屋で飼われていたころには問題ではなかったものの、タイでバロックに寝るようになったエミコは絶えずオーバーヒート気味。

 死ぬまで暑い造られたねじまき。
 造ったのも、暑い国に捨てていったのも、日本人。
 世界が絶賛。
 これがSFの未来。
 予言された以上、期待に応えなくてはならない。
 いや、応える努力はしなくてもいいかも、という気もします。
 技術的に、それができるようになったなら。
 アマリリスのように、ヒトを品種改良して、好きなようにデザインできるとしたら。
 華々しい大きな花を咲かせて愛でたいなどと日本人は思うだろうか。
 アマリリスの極彩色化は、いかにも欧米的な趣味じゃない?
 最初から私たちにまかせてくれたら、きっと淡いピンクで小さな花をつけるアマリリスを造ったはずだ。私なら、そう造る。いや、むしろ、花など咲かないように造る。だって、彼女が咲くのは、たんに私に見せるためだけなので、だったら、そんなところに回すエネルギーも、球根に回してもらいたい。私は、彼女が満足するように彼女を造るだろう。

 だからきっと、猫ではなくて犬の遺伝子をくわえる。
 肛門にシャンパンの瓶を出し入れされてよろこぶ遺伝子があれば、それも組み込む。
 立て、と言われて、反射的に立つようにそもそも造っておけば、命令されることが彼女のよろこびになるのだから、そう造らない意味がわからない。

 昨年度のSF賞を総なめ。
 『ねじまき少女』に、世界が暗に日本へ期待していることを読む。
 ええ、大丈夫、我々はそういう生き物です。
 安心してください。
 悪ではありません。
 ただ、追い求めているだけ。
 できることはやる。
 信じている道を行く者に倫理を説くのは愚行です。
 
 我々は、すべてのものに魂が宿っていると信じています。
 アマリリスにも、ねじまきにも。
 二次元の美少女や、架空の同性愛者たちにも。
 無限の愛はすべてを可能にするのです。
 あなたがたが怖れようと、私たちは無表情にそれをやってのける。
 少子化?
 どこかから連れてくればいいんでしょう?
 なんなら造りますよマジで。
 決して追いつめないでください。私たちにできないことはない。ついにサイエンスフィクションで世界の中心に存在する謎の巨大帝国として描かれるようになった日本国はフィクションではない。

 たぶん、本気で怖かったのね。
 しらないうちに愛玩用ねじまきとかジジツ造ってそうだもんジャパニーズ。
 そういう反応での受賞ラッシュだったんだろうなあ、と。
 読みながら複雑な気持ちになったのでした。
 ものすごく雰囲気はいいけれど、とてつもなく革新的ということでもなくて、むしろお約束的展開。やっぱり雰囲気、世界がもっていた漠然とした恐怖心を共感させた荒廃の未来観。
 そこに日本人が描かれていたからだと思うのです。
 SFの未来とは日本人の造ったエロねじまき少女火照り気味。
 エロくて怖くて手先も器用だなんて。
 そんなに褒められたら、私たち照れてしまうわ。

The Windup GirlThe Windup Girl

(いえね、どうにも白い皿の上の斬首されたアマリリス嬢の姿が、邦訳『ねじまき少女』表紙の鈴木康士イラストを連想してしまって……小説の中のねじまき少女は、こんなにしどけなく可憐な感じではないのですけれど、どうにもこのイラストにはうなずかせられるところがあります……いまでも、世界は日本女性に一種の幻想を視ているのです。先進国といわれるその国に、もうサムライはいないのに無口で三歩下がって主人のあとを行くことを美徳とし、実践する女性はまだ存在している。きっと彼らはそれも、怖い、のです。窮地に陥りつつある世界で独特のスタイルを迷いなく続けられるのは、強者か狂者だけだから)

Yasushi Suzuki

(ちなみに原著のカバーイラストは、少女の姿さえなく怪物象メゴドントが行く未来タイの風景。どう考えても売りであるはずの発熱エロアンドロイド美少女を描かないところが、SF界の苦悩を表しています。ジャパニメーションを感じさせると手を引く層が確実にいるのでしょう。そういう意味では、そういったハードでコアでマニアで通なSF読みなんてこの国にはたいした数いねえんだから迷わず美少女描いておけ、という自虐的なこの国の出版業界の姿も表しているのかもしれません。でもまあ、良い判断だと思います(笑))

The Windup Girl


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