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『運命石の扉に選択は無し』の話。



なにをどうしようが
どんな方法をとろうが
死んでしまう
これじゃあ
まるで運命じゃないか
そうか、これこそ……

STEINS;GATE

TVアニメーション『STEINS;GATE』

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STEINS;GATE
STEINS;GATE

 いよいよアニメも佳境に入ってきた、言わずと知れたXbox360のヒット作『STEINS;GATE(シュタインズゲート)』。

 そうか、これこそ。

 そう言ったあと、彼は自分で自分の言葉を否定し続けるが、それでも過去をなんどくりかえしても、訪れる死に変更がないことは彼自身がよく知っている。現在とは唯一無二のものであり、過去をやりなおせたところで、同じところに至るのだ。

 ということを、ドラマチックに語られるので、ああそうなのか運命というものは存在しているのだなあとフィクションの魔力で信じ込まされてしまいそうだが……

 鳳凰院凶真さまや、クリスティーナ、まゆしぃ、などの傑出したキャラクターたちを愛でることに飽きたらず、そのあたりの並行世界と自由意志の概念のあれこれに『STEINS;GATE』で触れて、ああなんか不思議な考えかたがいろいろであたまがふわふわする、という知恵麻薬に溺れる快感に目覚めたかたがいらっしゃったなら、いっしょにそのあたりをふわふわしてみたい。

 さて。
 『STEINS;GATE』。
 信じ込まされてしまいそうだが、と書いたからには、私はそのあたりのくだりで「私のとは違う」と思ってしまった宗派の一員であり、そんな私がなにが違うと思ったかといえば。

 ヒトの死は、世界にとって、そんなに重要な出来事か。

 というところ。もちろん死は怖い。死はひどいし、ヒトだってサイだって、身内が死ねば哀しくてどうしようもなくなってしまう。

 でも、ナメクジだって、バクテリアだって死はあるわけで。

 愛するだれかの死を回避するために、タイムマシンを使って過去をなんどもやりなおしたが、その死を避けられない。だけれど『STEINS;GATE』では、状況は毎回変わっている。銃で撃たれたヒトが、今度は車に轢かれ、電車にはねられ、なんどくりかえしてもくりかえしても……死ぬのだけれど。冷静に考えてみれば、「死にかた」が違うのは、世界線(というのは、大ざっぱに表現すれば並行宇宙にいっぱいあるいろいろな「現在」の立ち位置のこと)がわずかしかずらせなかったというには、あまりに大きな違いである。密室で銃で撃たれるケースがかえっていちばん波風立たなそうでさえある。いっぽう、たとえばタクシーの後部座席で乗客が、隣に走ってきたバイクから窓越しに拳銃で撃たれて死んだ、なんていうのは。

 そりゃあ、ドラマチックに「また死んだ。変わらなかった。もういちど過去へ。今度は救うんだ」と熱くなっている一人称の主人公にとっては「変わらなかった死」かもしれないけれど。その世界線に取り残されたタクシーの運転手にとっては、間違いなく人生が大きく変わってしまう出来事である。ツレが死んだのにもうひとりの客はどこかに行ってしまい、窓ガラスは割れ、後部座席に屍体。警察がやってくる。運転手は疑われはしなくても、何度も警察に呼ばれることになるだろうし、個人タクシーなら殺人では保険もなかなかおりないし、血に汚れた車で客を拾う気には、もうなれないかもしれない。

 死が死であるから、死にかたが変わっても過去を改変できなかったなどというのは、主人公の一人称視点のなかだけでの話である。世界の在りかたからするならば、ヒトひとりの死という結末は、ヒトひとりの結末にすぎず、全体の結末では、むろんない。世界は続いていくのだ。それなのに、そこに波風を立てられては困る。あっちの現在では電車に乗って普通に学校に行った彼女が、こっちの現在では轢かれてミンチになった屍体を目撃したなどというのは、大変にゆゆしき違いとなってしまうのです……神の視点からするならば。

 以前に、Xbox360の兄貴分ともいえるセガサターンの『街』にからめて、並行世界について書いたことがあった。

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『シュレーディンガーの猫』のこと。

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 その視点で行くと、神とは私である。
 だとしたら。私が神で主人公で、その一人称視点のなかだけでの話だとするならば。これはしかし、それが世界のすべてだと言ってしまっても良い。私がタクシーを降りてまた別の世界線に行けば、私にとっての血に汚れた後部座席は消えてなくなる。でも、いったん見てしまったのだから、あとに残した世界線も確定されて残るんじゃないのと思われるかもしれないが、それは残されたタクシー運転手の物語であって、私のではない。なんて自己チューな?
 なにを言うか我は神ぞ。

 もっと大きく出てもいい。

 私という観察者なしに、宇宙は存在しない。
 観察者になるには資格がいる。だから、ナメクジやバクテリアはもちろん、サイや、チンパンジーでさえ、彼らにとっての世界線などというものはないのである。彼らには、宇宙を宇宙と認識する知性がない。私のように、いま私は宇宙の中心で叫ぶ獣であると、自分の立ち位置を認識できたりしない。

 ところで。
 この話は、宇宙にとっては、朗報ではない。

 なぜなら、宇宙が存在するために、観察者は必要だからだ。
 宇宙に知性はない。知性を持つのはヒトであり、観察者たりえるのはヒトだけである。
 このシナリオで行くと、ここに人類がいるのだから宇宙にはほかにも多くの知的生命体が存在するはずだ、という議論は唾棄すべきものとなる。人類が生まれた、この奇跡のように恵まれた環境は、あまりにできすぎている。むしろ、こう考えたほうがいい。

 知性のない宇宙が、必要にかられて生みだした知的生命体がヒト。

 え? ああ、宇宙という存在が確定するために観察者が必要だから宇宙が観察者を生みだしたというのは、観察者よりも先に宇宙が確定されていないと不可能ではないか?

 いや、ご意見はもっともだが、その確定とやらを現在進行形の「未来」だけに作用するものだと考えてしまうところが、シュレーディンガー先生の古くさい思考の限界だという話もある。

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「きみは多世界解釈をいまだに信じているのか? あれは交流解釈によって粉砕されただろう」


ロバート・J・ソウヤー 『フラッシュフォワード』

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 『フラッシュフォワード』は、『STEINS;GATE』でふわふわしたヒトならば、ぜひ読んでほしい。大型ドラマ化もされた。原作からフラッシュフォワードのアイデアをおもに抜き出し、実に実にドラマチックにしあげてあったのに、第一シーズンで打ちきりになってしまったのは、非常に無念なことであった。個人的に好きだというひいき目を抜きにしても、かなり質の高いドラマに仕上がっていたのだが。『ダークエンジェル』とか『クーンツのフランケンシュタイン』(は、そもそもパイロット版で終了したけど)みたいに、なんでそこで終わるんだ、ならばオレが書く、とドラマ化に入れ込んでいたと聞くソウヤー先生が、続編を公式ノベライズしてくださることを願ってやみません。

 『フラッシュフォワード』というのは、フラッシュバックをもじった造語で、短い間だけ、未来の光景を見てしまうという現象のこと。
 ドラマでは、俳優がいるから仕方のないこともあって、半年後に設定されていた「人々の覗く未来」だけれど、やっぱり原作の二十一年後というスパンのほうが謎めいていて素敵。たとえば覗いた二分間だけの未来で、あなたは見ず知らずの相手と長年連れ添ったような生活をいとなんでいるとする。二十一年後にそうなら、その相手と出逢うのは近日中かもしれない。ところで私には、いまつきあっている相手がいる……その相手は、二十一年後の二分間に登場しない。

 いまつきあっている相手とは、別れてしまうの?
 こんなにうまくいっているのに?

 ここで、別れという発想が頭をよぎった事実は見過ごせない。私がそんなことを考えたのは、フラッシュフォワードで見た未来にそのひとがいなかったからで、別の相手と愛しあっていたからで……そう。そこは問題になる。未来を見たことで「現在」に余計な波風が立ち、その結果として未来が形成されるなら、そもそも覗いた未来は、未来を見たからできあがった未来だということだから、そんなのはおかしい……

 さっきの、観察者がいないのに確定された宇宙が観察者を生んだ、というのに似ている。

 これを解釈するために小説『フラッシュフォワード』の主人公ロイドは、シュレーディンガーの猫でおなじみコペンハーゲン解釈に対する代案としてジョン・グリーソン・クラマーの提唱した、交流解釈を信奉している。

 こういうものだ。

 すべての存在は「提示波」なる実体の波動を発散していて、その波動は宇宙のあらゆる場所と時間に放たれている。提示波がヒトの目にふれると、その目は「確認波」を発散する。確認波もまた実体の波動であり、宇宙のあらゆる場所と時間に放たれる。提示波と確認波は、互いに互いを相殺してほとんどの場所でなかったことになるけれど、唯一、「提示波の発散源」と「確認波の発散源」とのまっすぐな経路の上においてだけ互いを強めあう。
 これを「量子交流」と呼ぶ。

 はたして、起こったことはコペンハーゲン解釈と同じである。

 観察者は箱の中の死んだ猫を見る。

 「提示波の発散源」=死んだ猫。
 「確認波の発散源」=私の目。

 猫の死んだ現在は確定される。

 が、交流解釈ではのみならず、量子交流によって、未来も過去も確定されている。宇宙のあらゆる場所と時間に放出される波動の作用である。

 いや、むしろ、クラマーが提唱したのは「未来や過去も」ということではない。量子交流は、時間の流れとは無関係におこるのだということだ。

 これを端的にいうとどういうことか。

「死んだ猫を見たならば猫は死んでいる」

 それだけだ。
 宇宙は枝分かれしない。
 それ以外の現実はない。
 いま、ここに死んでいる猫を観察者は見た。
 ならば死んだ猫のいるこの宇宙は、そういうふうになったのだ。
 「なった」のは「いま」だと考えてしまいそうになるが、そうではない、時間とは無関係である。無関係に、それは確定された事項になる。

 猫は死んでいた。
 猫は死んでいる。
 それ以外の現実はないということを言いかえれば、

「未来もすでに決まっている」

 とも表せる。

 量子交流はすべてをあますところなく確定させる。

 過去は決まっている。
 未来は決まっている。
 決まっている現在を、いま見ている。

 主人公ロイドは言いきる。

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「あなたは昨日たくさんの決断をくだしましたが、それらは動かしがたいものです。いくつかの決断をどんなに深く悔やんだとしても、それを変更する手段はありません。あなたは明日もたくさんの決断をくだすでしょう。なにもちがいはありません。あなたは自由意志があると思っていますが、そんなことはないのです」


ロバート・J・ソウヤー 『フラッシュフォワード』

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 もちろん、ロイドの過去には哀しいことがあった。
 それが、この解釈では赦されるというところが、フィクションの魔力でもあろう。
 だが現実に、この「世界線は分岐したりしない」という考えかたによって、古くから救われてきた人たちは多い。

 すべては神の意志。

 宇宙を確定させているのはヒトであり私であるという理論から発せられた言葉なのに、うらはらにそこでは神の存在が見え隠れする。

 決定権はこっちにある。
 だが、死んだ猫を見ないでいることはできないのだ。
 死んだ猫は箱を開ければかならずそこにいる。
 なぜなら、現在とはすでに確定している未来の一部なのだから。

 私はいま、ラストシーンの決まった映画の中盤で、熱演する俳優だ。
 いまはつらいが、ラストシーンは約束されている。
 かっこいいやつが。
 たぶん。
 そのための努力は、必要ならするだろうし、しなくてもいいのかもしれない。それもすでに決まっていることだから、私が悩むところではない。
 あれもこれもすべて、運命だったのだ。
 
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「どうかしら。よくわからない。だって、なにもかも決まっているのなら、生き続けることになんの意味があるの?」
「結末がすでに決まっている本を読むことに意味はないのかい?」


ロバート・J・ソウヤー 『フラッシュフォワード』

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 もちろん意味はある。
 私はプロレスファンである。多くのプロレスファンは、どんでん返しよりも、勧善懲悪なシナリオを好む。BL好きや、アクション映画フリークだってそうだろう。気分の悪いラストなど求めていない。すばらしい最後に向かって、私たちは生き続けることを望む。その途中の時間は至福のものだ。

 ほら、いま見た。
 それが過去を決めた。
 あなたの未来も決めている。
 人生はそのくりかえし。

 考えこむことはない。
 すべて決まっているのだから。
 おだやかに、次の確認波を目から放出するだけである。
 ああ神よ。
 私はしあわせです。

FlashForward

 ちなみに小説『フラッシュフォワード』のラストシーンは、激しく壮大なことになります。この話、どう終わらせるんだというのを、ソウヤー先生はねじ伏せてくれる。
 良い小説なのです。
 未読のかたはぜひ、ふわふわしてください。


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