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『ころもがえ。おひっこし』のこと。


 僕は、生まれつき変なのだろうか。
 気が狂っているのだろうか。
 でも、生きている。
 この世界から、なぜだか、生きるのを許されているようだ。
 社会人としてはおかしくても、一個の名もない生物としては正常なのかもしれない。
 生きているということは……生き残る能力があるからだ。

ueda sayuri


 上田早夕里 『小鳥の墓』

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 たとえばドジっ娘なんていうのも、おっとりした萌え属性のひとつに数えられるけれど、ふつうの狂っていないヒトならばバイト先で日に五回も客の股間にコーヒーをぶちまけてアッチチチッあ、すいませんお客さまと駆けよった脚がもつれて制服のスカートはめくれ上がり、そのまま転がって入り口の自動ドアが開いたところに店長が戻ってきて、おまえまたかよ、なんて顔をされたら、生きていけない。

 しかし、それをなんどくりかえそうと、わざとやっているのではないことがきちんと相手に伝わり、かえって同情までさそって愛されてしまうのだとしたら、そのドジっ娘は、世界から生きることを許された娘なのである。

 こうも言える。

 生まれつき変であるか。
 生まれてから変になったのか。
 なにかが足りていないか。
 なにかが過剰すぎるのか。
 矯正できない嗜好や癖。
 存在感のなさ。
 それらの要素は、そのヒトの暮らす社会における立場を変えはする。
 だが、世界とは普遍のものではなく、観測者の視線によって確定されるものだから、けっきょくは、本人がなにを見て、どう受けとめるかということによってその姿は揺らぐ。

 世界を観測してしまうという愚かしい視線を放ってしまった時点で、そのヒトは生き物としてみずから生きづらい道を選んだことになり、死に近づく。

 隣の家の子どころか、自分の家以外の、圧倒的多数の家の子は、自分よりもずっと立派な誕生日プレゼントをもらっているのだと知らなければ、その子はママからもらったビー玉ひとつに至福を感じ続けることができたのに。
 それを知らずにいることはむずかしい。
 無理やり、知らされてしまうものでもある。
 社会というものは、避けて通れないから、本当に引きこもろうと思えば絶海の孤島にでも移り住むしかなく、しかし、それを選択したときにはすでに、そのヒトは世界を観測したから逃げ出すのであって、ということはすなわちどこに逃げても世界はもう消えない。
 視てしまったから。
 本気で逃げるなら、自分のほうが世界から消えるしかないのだと、三秒後には気づくだろう。

 よく、歴史の評価は後世がする、みたいなことが言われる。
 という考えかたでいくと、私が今日も生きているというのは、すでに昨日にとっては後世のことなので、私の昨日までは、生物として生きる能力を発揮できた、まずまずの成功をおさめた日々だということになる。
 要所要所で、生きるための選択を間違えなかった。
 どう考えても悪手のような手を打った記憶もあるのだが、それも結果的には生きているのだから、生存本能のおみちびきだったことになる。
 
 あれも、一個の名もない生物としては、やらざるをえなかったことなのだろう、きっと。間違いなく相手を傷つけた、社会的には最悪の行為でも、それで自分が生きているという今日があるのだから、生物としてはおりこうさんなので、そこに後悔だとか反省だとか思いはじめるのは、社会のために個を捨てて死ぬということ。

 恋愛。
 あれも、生物の生存本能ということで考えると、強い子孫を残すために「あらすてき」と感じたり「こいつ捨てるしかねえ」と決断したりするものだったが、昨今では結婚とか出産を前提にしない恋愛のほうが世には多いわけで、同性愛なんかも正常の範疇に入るということを、否定するヒトのほうが少数派。
 ということは。
 いまの世界で、ヒトはなにを恋愛相手に求めているのか。
 生存本能がなくなったとは思えないし、かといって恋愛がだれもにとって人生の一大事ではなく、ただの遊びに成り下がったということでもないと、占いサイトの多さをみれば確信できる。

 強い遺伝子を求めて恋をするのではない。
 しかし恋はする。
 だとすると、必要とされているのは、恋そのものだ。
 恋愛というそれそのものが、自己の生存のために必要不可欠だから、ヒトは繁殖と切り離しても、いまだにお相手をさがしもとめるのだと思われる。

 だがこれも、どうもさっき書いた方程式のうえで、多数派になっていった生存方法であるような気がしてならない。

 すなわち、恋愛しているだれかさんたちが結果として生き残ったから、次の世代は種として、恋愛すれば生き残れると判断するようになった。
 生物なんていうのは、たぶんそれくらいのものであるはずだ。

 逆説的には、恋をしていない先輩たちが明るく健康で生き生きと過ごしていたなら、後輩たちは、恋におぼれるなんて愚の骨頂と考えるようになる。優性遺伝子を求めることが生きることではなくなったいま、この、上から下への価値観の継承は、ヒトという種全体の視点を定めること、すなわち世界の観測の仕方を、親が子に外部遺伝子として伝えていっているようにも見える。

 変でも生きているんだし動物として正常、という割り切りかたをすると、気持ちよく他人を殴ることが生きるために不可欠だという種類のヒトは確かにいるし、そのヒトも、きっと暴力が生存に有利だとすりこまれる、前の世代からのなにかを摂取したのだ。暴力的で強くかっこよく生き生きとした先輩のように、自分もなりたくて、彼は他人を殴り倒すことをおぼえたのである。
 そこに迷いはなく、まっすぐ進むなら悩みもなくて幸せで充実した生涯をまっとうするはずだ。

 間接的に伝えられることもあるだろう。

 小説とか、マンガとか、映画とか。
 スポーツや、レースや、ゲームとか。
 世界をどうとらえるかという観測方法を自分の生存にとって有利なように確定させることこそが、ヒトという動物として前の世代から必須の継承事項。ならば肉体を作る遺伝子なんかよりも、そういったものこそが、よほど伝えている。

 影響を受けること。

 おれって生まれつき変?
 気が狂っている?

 そんなの、学があるやつしか思いつきもしないもの。
 すでになにかに影響されている。
 世界を観測する方向が定まっている。
 実はそれこそが、ドジっても凹まない、生きる能力というものだと思う。

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 更衣(ころもがえ)
 さらした肌が
 夏を召喚

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 職場のテレビ売り場でNHK教育をつけっぱなしにしているから、LED電球の新製品の棚を作りながら、数時間みっちり門前の小僧をやって。手話とかイタリア語は左の耳から入って肛門に抜けていくけれど(ちなみに私は大学で第二外国語にイタリア語を選んでものすごい勢いで単位を落としまくり、それによって卒業できなくなりかけたので一回生にまじってフランス語をやりなおしたという苦い経験から、イタリア語にいまでも食指が動かない。いや、イタリア語が嫌いなわけではなく、イタリア語を美大で教える女教師が、あまりにテンション高くて高飛車で、それがまたイタリア語とマッチしていて、二百点満点で私の好みからかけ離れ、教室によりつかなくなっただけ)、俳句とか詠まれた日には、仕事する手もとまります。

 チャンネル変えたい!
 しかし、あの地震の日以来、お客さまも即座に速報が見られるようにと、NHKをエンドレスでつけておけとの命がくだり、それはいまだに解除されないので、この先もしばらくは、人生で例のないほどNHKを摂取する毎日が続くのです。

 というわけで、ますます進化した全方位照射LED電球の棚を作り終えて、お弁当を食べて、キシリトールガム噛みながら読書して、ふたたび仕事にもどっても、まだぶつぶつと言っていた。

 更衣(ころもがえ)。

 こんな字を書くのですね。
 五月の季語らしい。
 ふうん。でも、ころもがえは、コートを出すときだってころもがえだと思うのだけれど。いやしかし、やっぱり脱ぐほうが情緒があるじゃないですか、ということなのだろうか。その方面にあかるくないのだが、いまでも、毎年、季語を決める賢者円卓会議などが開かれているのかしらん。

 で、ぶつぶつ俳句を詠むという風流な午後でした。
 基本的なルールがよくわかっていないので、出来はいまいちだと自分でもわかりながら、ここでそういうものにこだわりだすと、毎週NHKの俳句番組を録画する道へとはまっていくことが明確であり、そういう、ただでさえない時間をさらに削るような習慣を身につけることは、動物として生きるために愚かなので好きに詠む。

 いつも思うのです。
 まだ早いかなって思いながら、半袖になるじゃない。
 どこの女子校か知りませんが、毎年、白いセーラー服の高校の映像が、ひとあし早くころもがえしました、なんてニュースで流れるじゃない。
 それで、みんな、えーまだちょっとすずしいよ、と思いながらも、迎合することが袋だたきにあわず、動物として生き残るすべだと、さも恋するかのように半袖に着替えるじゃない。

 そういうことするから、夏が来るんですよ。

 考えてもみて。
 全員が、この国のひとり残らず全員が、まだコートを脱いでいないのに、それでも夏は来ますか? 来るわけがない。油断して、そろそろ夏が来るころあいかなと、脱いでさらした肌が、暑さを召還してしまうのです。

 世界中のヒトが平和を望んでいるのに、なぜ戦争はとめどなく続くのですか。
 ちゃんと望んでいないからでしょう。
 だれひとり例外なく望んでいるのに、戦争が起きるはずがない。

 話がそれました。
 非常に殴り書いていて、かなり破綻した今回になっていることは想像にかたくありませんが、だからそれですよ。たぶん私は、私という吉秒匠は、ときどきこのようにわけのわからないことをだらだらとしゃべることでいままで生き延びてきたので、それゆえ生きるために、これからもときどきわけのわからないことを書きはじめるのです。
 本能です。
 生存です。
 いや、なにげに本当に、愛されることが生きるために必要だから、隙をさらすという生存本能が、近ごろの人類にはそなわりつつある気がしてなりません。
 そういえば、資生堂の開発のヒトが、近ごろの男子はジェルとかワックスとか買わせると、一本で一年使えちゃって商売あがったりだから、霧できまっちゃうわけ? なんていう商品を開発したというような話をされていたようにぼんやりと記憶しています。

 男子に限らないんですけれど、世の経済状況が厳しくなると、ヒトは髪をがっちりかためたりするのをやめて、ふわっとだらっと、隙をみせるのだという。憶測ですけれど、それって言ってしまえば、こういうことなのではないかと思います。

 あぶなくないから。
 すきにして。

 世界が危険な場所になれば、ますますヒトは尖っていきそうな気がするのに、実際は逆にユルさを誇張しはじめる。すなおに考えて、警戒しあっていると距離が近づかないから、自分の側から隙をみせて距離を詰めようという生存本能でしょう。

 すきにして。

 目の前の相手が、おまえはガキか、と、つっこみたくなるようなそぶりを見せたら、それは意図的にさらされた隙なのです。あとはあなたが決めること。私が決めること。

 殴り書いている。
 しかも、生きるとか、愛だとか、恋だとか。
 すなおに考えて。
 私は、かなり愛を欲している状態のようです(笑)。

 春が終わってころもがえして夏もこようかというこの時期。
 実は転勤で、引越すことになりました。
 そんな遠くではない、というか、もう引越し先も決まっていて、光回線を申し込んでNTTからの電話待ちなのですが。

 今日も、電気ドリル片手に、家中のネジを抜いていた。
 何枚額かかっているんだ、あほほどネジ打ったなオレ、と自嘲しながら。
 引越し先でも、バイク停めるところが庭しかないから、玄関先にある階段をつぶす必要があって、ひさびさにプライベートで振動ドリルの出番だと意気込み、段差プレートだコンクリートアンカーだと、買いあさっている今日この頃です。

 それにしても、とにかく本です。
 ペプシコーラの1.5L×8の空きダンボールが、ちょうど本を詰めて扱いやすい大きさだと思い、詰めては部屋の片隅に積んでいっているのですが……そのダンボールで家が建ちそう。これをまた剥いて本棚にもどすことを考えるだけで動物として死にそうになりますが、だったら生存本能で本を買うのをやめるとかいうこともなく。

 たのしいのと不安とが、ごちゃまぜの状態。
 そんななかで、徒然書くとこうなる、という今回でした。
 そんなこんなで、新居のリフォームにかまけて、おそらくここも手抜きな更新が続くと思われますが、もっと弱くてもろいところをさらしつづけますから、忘れず愛でていて。それなくして、生きていけません。

 夏が来る前に終わらせたい。
 しかしかかってこないぞNTT。
 光回線もなくして生きていけません。

 気ばかり急いて、落ちつかない初夏です。
 でも、生きている。なぜだかだろうと、生きるのを許されているらしいから、隙を見せつつすきにやるから、すきにして。

 ん、いまのフレーズ、俳句っぽい。

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 更衣(ころもがえ)
 もっと隙みせ
 すきにして

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 ……なんか、中途半端に俳句やってる若いコ好きのおっさんが、飲み屋で即興するみたいな句、もしくはカチューシャつけたアイドルのためにおっさんが書き下ろした歌詞みたいになっておりますな……確かに、どっちのおっさんも、生物として強くはあるのだろうから、見習うべきなのでしょうが……いやちがう。私はそんな動物になりたいんじゃない。
 自重しよう。
 隙はみせても、軽くてはダメ。
 ぁ、また俳句っぽい。

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 更衣(ころもがえ)
 隙をみせるは
 計算づく

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 計算していないようにみせる計算が上手にできてこそ、生き残れるものかも。自分をがっつり客観視できるというのは、裏返せば余裕であり、心の軽くないことの証明。
 あたふたしない。
 わけのわからないブログ更新をしない。
 粛々と引越準備をすすめること。

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