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『ディーン・クーンツの哀しいデュカリオン、あるいは原題のフランケンシュタイン』の話。



FRANKENSTEIN

(最初におことわりしておきます。私、吉秒匠は『デュカリオン』原作者であるディーン・クーンツに偏愛の念を抱いております。以下はその前提のもとに書かれた、まったく公平さを欠く記述であり、これを参考にいかなる作品の是非も判断なされませんようお願い申し上げます)

 Frankensteinのwikiにも、『ヴァンヘルシング』は派生作品として載っているが、この『デュカリオン』は原題がそれそのものずばりの『FRANKENSTEIN』であるにもかかわらず載っていない。それくらい、みんなで見なかったふりを決めこんだ作品であるのだけれど、その設定たるや、そもそものメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』という小説が脚色はあったものの事実に基づいた作品だった、というところから組み立てられているという、いわば系譜をなぞった正統派の派生作品なのであった。

 私の手もとにあるDVDは、紙パッケージに入った日本語版の初回限定仕様で、特典として本国での予告映像などが収録されている。
 そこでの売り文句は、こういったものだ。

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WHAT IF A SCIENTIST COULD CREATE A HUMAN BEING?

WHAT IF HIS CREATION COULD NOT BE CONTROLLED?

COULD WE LIVE WITH THE CONSEQUENCES?

(科学者が人間を創れるとしたら?

 彼の創造物がコントロールできないとしたら?

 私たちはそれを受け入れられるとでも?)

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※例によって邦訳は吉秒意訳であって公式のものではありません。

 壮大なテーマである。
 エンタメ的には、期待も膨らむ書きかただ。
 コントロールできない人造人間?
 なになに? 腕からミサイルとか出すの?

 ……残念ながら『デュカリオン』に、そんなアンドロイドは出てこない。
 暴走した人造人間は、殺人鬼として警察に追われている。
 つまり、警察の目にも、その犯行は狂気を宿してはいるものの、ふつうの人間の凶行だと映っているということである。
 連続殺人鬼は「外科医」と呼ばれている。
 被害者を切り裂いて、身体の内部を調べるから。
 そして、デュカリオンはいうまでもなく外科医を追い詰める正義の人造人間だ。

 さて、この『デュカリオン』。
 キャスト・スタッフの記述がものすごいので、まずはそれを書きだしてみる。

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出演
ヴァンサン・ペレーズ
「クイーン・オブ・ザ・ヴァンパイア」
トーマス・クレッチマン
「戦場のピアニスト」
パーカー・ポージー
「ブレイド3」
アダム・ゴールドバーグ
「プライベート・ライアン」
マイケル・マドセン
「キル・ビル」シリーズ

監督
マーカス・二スペル
「テキサス・チェーンソー」

製作総指揮
マーティン・スコセッシ
「アビエイター」「ギャング・オブ・ニューヨーク」
ディーン・R・クーンツ
「生存者」
トニー・クランツ
「24」シリーズ 
ジョン・シーバン
「X-File」シリーズ

原作
ディーン・R・クーンツ
「処刑ハンター」「生存者」

音楽
アンジェロ・バダラメンティ
「ザ・ビーチ」

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 もうなんかあきらかに、経歴作としてあげられているのがクーンツだけ『処刑ハンター』とか、テレビドラマのDVD化作品とか、失笑をさそう記述なのですが……しかしこれは広報担当がアンチクーンツというわけではなく、だったらほかにあげられるものがあるのかといえば『ファントム』とか『ブッラク・リバー』とか。ファンとしては哀しくなってくるクーンツ先生の映像化不遇は正真正銘事実の歴史なのです。

PHANTOMSPHANTOMS

BLACK RIVER

(『ブラック・リバー』については、ディーン・クーンツ公式サイトの
 『Facts for Collectors « Dean Koontz』
 (コレクターのための事実)というページに記述がある。

 いわく、

 クーンツはFOXネットワークとのシリーズドラマに先駆けて、二時間スペシャルの基本設定だけをもちいた『BLACK RIVER』という中編小説を書き、これを雑誌『ミステリー・シーン』のエド・ゴーマン編集号で発表。だが、その後、テレビシリーズは頓挫。二時間スペシャルは放映されDVD化されたが、クーンツがこの作品に関わったのは「テレビドラマとは関係ない中編小説を一本書いた」ことだけである。

 ということをコレクターのための事実として公式サイトで公開している意図はあきらかだ。その作品は私の名を冠しているが私の書いたものではない、ということである(笑・それほどひどい映像化作品ではない。派手さはないし、スティーブン・キング原作? と感じてしまう既視感はあるにせよ)。

 それにしても、クーンツのフランケンシュタイン・シリーズ第二作『City of Night (Dean Koontz's Frankenstein)』の共著者がエド・ゴーマンであることと、映像化『デュカリオン』がたどったその後の運命をかんがみるに、このあたりがクーンツの「テレビドラマやりたい」結節点である。自身で書いているが「大勢でやる仕事で協調性のなさを発揮してしまう」書き続けていたら知らぬ間に大御所になっていた師の苦悩が見てとれます)

 しかしだからこそ。
 このパッケージ記述が、クーンツ好きに即買いさせてしまう。

 ついにきたのか、ちゃんとした映像化が!!

 結果からいえば、その期待は半分かなえられ、半分うらぎられることに。

 『デュカリオン』は、丁寧に作ってある。
 しかし、あまりにも駆け足かつ、短い。
 それも当然、これはテレビドラマシリーズのパイロット版をディスク販売したもので、正味90分のなかに、説明不足なあれこれが詰めこまれたあげく、これから物語がはじまろうかというところでスタッフロールが流れ出す。

 続きがあるのなら、説明不足のところを、おいおい視聴者が理解するということもあるでしょう。けれど、一本の映画として評価するなら、その終わりかたは最悪です。

 またか。
 どうしていつもこうクーンツ作品の映像化は、充分に練り込まれず、狙ってB級を目指したあげくに生ぬるいものになってしまうのか。前述の、売り文句がすべてを物語っています。私たちは、その怪物を受け入れられるのか? いやいや、そんな話をクーンツが書くわけがない。

 ディーン・クーンツは、愛と正義の小説屋だ。
 フランケンシュタインの怪物を描くのに、それをただの人類の脅威として魅せる?
 あなたは師の代表作『ウォーッチャーズ』を読んだことがないのか?
 怪物にこそ愛を。
 それがクーンツ。

 ……ものすごく未消化な、きっとなにかあったのに違いないという想いだけを胸に、初回限定仕様の紙パッケージを本棚に並べて二度と観ることもなかった2005年。私はこの『徒然』でも、この映画についてそのときは触れませんでした。

 が、その後。
 徐々に事情が判明してきたのです。
 そのクレジットで初回版を買った私などは、詐欺だと訴えてもいいところなのですが、スタッフロールに名前は残っているものの『デュカリオン』の製作初期段階でクーンツとスコセッシは離脱し、あろうことかディーン・クーンツ作の脚本までも、他の作家が書きなおしたというのでした。

 先日、ついにシリーズ最終回を迎えたテレビドラマ『ER』は、仮面ライダーとスタートレックに並ぶ、私にとっての「最初からずっと観ている」作品のひとつでしたが、原作・製作総指揮マイケル・クライトンが逝ってしまっても『ER』はなんら揺らがなかったのとは対照的に『デュカリオン』は、巨匠たちが席を外した途端に別物になってしまったのだと想像できます。

 そう、それは、想像でしかなかった。
 けれど、ディーン・クーンツは、やっぱり私の好きなヒトでした。

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 私はけっこうおしゃべりなほうだが、執筆に至った経緯を作品の冒頭で説明しようと思ったことはこれまで一度もなかった。だが、『ディーン・クーンツのフランケンシュタイン』として出版されるこのシリーズに関しては、少し話しておいたほうがいいような気がする。


 ディーン・クーンツ 『フランケンシュタイン 野望』

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 途中抜けして、名前は残っているのに脚本は書きかえられ、パイロット版は評価を与えられず、テレビ・シリーズは頓挫した。スコセッシとプロジェクトから抜けたとき、まだクーンツは思っていたのかもしれない。

「自分のやりかたを曲げない頑固な作家たちが抜けることで、いまの視聴者にウケるテレビドラマが生みだせるなら、それもよし」

 けれど、彼らがやったのは劣化版を作ることで(というか予算の都合上という大人の事情によるのだろう)、クーンツ師は、共著者を得て『フランケンシュタイン』の小説版を書き出すがそれも破綻し、最終的に自分で小説化を進めるということになった経緯を『フランケンシュタイン 野望』の冒頭で語っている。

(『BLACK RIVER』での失敗をトレースしたかのような展開に、小説は一冊の本としての完成度が必要だという信念も飛んでしまうほどブチギレていたのだろう。作品冒頭で愚痴である。この行為こそを協調性がないと人は呼ぶのだが、キレた巨匠に忠告できるブレーンはまわりに存在しなかったようで、ファンにとってはたまらない、クーンツ先生怒ったーぁははは、なコレクターズアイテムになってしまった)

 クーンツにも、こんどこそ、という想いがあったのに違いない。
 しかし、紆余曲折の果てに、やっぱり残ったのはテレビスペシャルのDVD化(視聴者の酷評付き)と、自分の手で書いた小説だけだった。
 おなじ冒頭のなかで、クーンツは、フィリップ・K・ディックの名を出して、あるエピソードとともに感謝の意を表している。私は、彼に教えられたそれを、ようやく自分の作品のなかに出すことができた、と書いているが、そのシーンは『デュカリオン』にはない。

 それに気づいて、私はいまいちど『デュカリオン』を観た。
 映画に六年遅れて、邦訳も出た小説版『ディーン・クーンツのフランケンシュタイン』第一巻、すなわち邦題『フランケンシュタイン 野望』の存在によって、この映画には、新たな意味が加わったと思う。
 比べれば、クーンツ師のキレた理由がわかる。

 これほどまでに実現したかったテレビシリーズの夢を捨て、プロジェクトから離脱して「おれの名前? 勝手に使ってろボケッ」と捨て台詞まで残したに違いない、その理由。

 それはいうなれば、エンターテインメント作品において巨匠ディーン・クーンツが、ほかのなにを傷つけ投げ出してでも「ゆずれなかった」要素ということだ。

 これは、史上まれに見る、小説の教科書である。
 なにせ、実際にクーンツ作品に手を加えた結果『デュカリオン』は大コケしているのである。
 だったら、マーティン・スコセッシも惚れ込んだ、オリジナルの設定とは、どうだったのか。

 いうまでもないが、クーンツの書いた小説の出来はよい。テンションで小説を書く人なので、執筆動機が明確だとテクニックが冴えわたるのである。あのクソドラマスタッフの野郎ども、などと思いながら書くというのは、師の場合、最高のスパイスになるらしく、小説は全編、映画よりも映画らしいカメラの視点を意識したものになっている。

 あ、念のため書いておくが、あのクソドラマスタッフの野郎どもというのはクーンツが実際に言ったことではない。『フランケンシュタイン 野望』の前書きでは、お互いの『クーンツのフランケンシュタイン』が成功すればいいな、と社交辞令を述べている。しかしまあ、どう読んでもおれのは売れておまえらのはコケればいいさクソ野郎どもと思っているのは間違いないと長年のファンとしては行間から感じます(笑)。むかし書いた自分のポルノ作品を買いあさってこの世から消し去ろうとする人だ。自分の名がクレジットされてクソ映画というのは、ほんとマスターテープを火にくべたいところを、それはできないから、おれの実力を小説で魅せてやる、という「少し話しておいたほうがいいような気がする」なのでしょう。

 以下、バレない程度で、そのあたりのことを書く。

 『デュカリオン』を観て『フランケンシュタイン 野望』を読むと『デュカリオン』に感じていた物足りなさを、なぜ小説には感じないのか、まっさきにその原因として思いつく概念がある。

 並行世界。

 主人公デュカリオンは、はっきりと別の世界に足を踏み入れたりはしないが、どうやらそういう場所──別の次元とか、パラレルワールドといった表現であらわされるところ──に、近いところで生きているらしい。

 映像化された『デュカリオン』で、デュカリオンがヒロインに自分は人造人間なんだと証明してみせるシーンは、パッケージにもでかでかと載っている。肌を見せた傷だらけの大男が、自分で自分にちぎれた電線を接続して電流を流すと、あらゆる穴(というのは肌の傷も含む)から、閃光がほとばしる。もちろんデュカリオンは感電などしない。彼は、カミナリの電気エナジーによって命を吹き込まれた、犯罪者の屍肉のつぎはぎなのである。

 それが、クーンツと映像化スタッフのまさに衝突点であったのかどうかは、私の推測である。だが、この映像化作品では目玉シーンのように描かれている、現代まで生き延びたフランケンシュタインの怪物が電線を引きちぎってビカビカビカっっ、うひょーすげー、という場面が、小説にはない。ということは、そもそもクーンツが書いた脚本にもなかったのだろう。

 ディーン・クーンツの小説版で、現代まで生き残ったフランケンシュタインの怪物が、人間の女性に、自分はふつうの存在ではないのだと証明するシーンは、こうだ。

 彼は、一枚のコインを、指ではじいて高く飛ばす。
 はじいては、落ちてくる。
 もういちど。
 そして何回目かで、コインは宙で消えて、彼の手に落ちてはこない。 

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「これでもまだ信じてくれないのか?」と、男が言った。「それとも、話のつづきを聞きたくなったか?」


 ディーン・クーンツ 『フランケンシュタイン 野望』

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 小説のデュカリオンは、静かな男だ。
 彼自身、そのコイン、二十五セント硬貨が、どこに行ってしまったのかは、わからない。
 この展開は、クーンツの、あの作品を思い出させる。

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『サイレント・アイズ』の話。

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 少年バーソロミューは、この世界の隣にあるもうひとつの世界を感じることができ、雨が降りしきるこちらの世界の中で、雨の降っていない世界の中を一瞬だけ通って、濡れずに歩くことができる。

 あのときも、バーソロミューは、隣の世界に首を突っこんで、そこがどんなふうにこっちとちがうのか、確認したりはできなかった。おそらく、ディーン・クーンツにとっての並列世界の概念とは、オッド・トーマスの世界でプレスリーの霊がさまよっているのと同じなのだ。ふつうの人には見えないし、特別な人にとってさえはっきりと見えるわけではないが、確実にそこにある、こことは違う場所。クーンツはそんな直接的な言葉は使わないが、その図式をとても単純化すると、こういうメッセージを含んでいるような気がする。

 この世に希望がなくても、まだ希望はある。

 矛盾したメッセージだが、でもだってバーソロミューは雨に濡れずに歩ける。デュカリオンは、投げた二十五セント硬貨を、この世から消し去ることができる。質量保存の法則が間違っていないかぎり、コインはどこか別の世界に「在る」のであって、ならば、そこから二十五セントぶんのなにかが、こちらの世界ににじみ出た可能性だってある。
 それは、愛とか、希望とか、多くの人が、この世界ではもう錬金術でも作り出せないとあきらめている、なにかかもしれないじゃないか!

 小説のデュカリオンは、ビカビカと光ったりしない。
 けれど、彼女がそっと見つめると、その瞳は、闇のなかで白く光っている。

 確かに、違う。
 ヒトではない。
 でも、ヒトの姿をしている。
 コインを消すことができて、瞳が光ってはいても。

 屍肉のつぎはぎデュカリオンは、右の頬にも大きな傷痕がある。
 『フランケンシュタイン 野望』の冒頭で、デュカリオンはチベットの寺院でヒトではないとわかっていながら受け入れられ、修行を積んでいる。俗世に帰る運命を受け入れたデュカリオンの右の頬に、高僧はタトゥを彫る。傷が目立たないように。少しは、好奇の目をそらせるように。
 高僧は最後にもういちどあれを見せてくれないかとデュカリオンにねだる。
 あの、宙で消えるコインの技を。

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「それは魔術か? それとも、ただの手品か?」
 デュカリオンは笑みを浮かべた。「片手で手拍子を打つとどんな音がするかという禅問答がありますよね」
「何年たってもそなたは謎だ」
「この世は謎に満ちていますから」


 ディーン・クーンツ 『フランケンシュタイン 野望』

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 もう、なんというか、デュカったら、素敵のかたまりである。
 見た目がなんだというのか。
 彼を受け入れて何年もともにすごし、いまは別れを惜しんでいる、アジアの寺のふところの深さを見せつけられ、私は、デュカリオンをもうすでに好ましく思っている。

 いっぽう、映像化『デュカリオン』では冒頭、デュカリオンは密航すべく船内で身を隠しているが、怖いオッサンに見つかり、そのオッサンを殺す。
 右の頬に傷はあるが、それを隠すタトゥはない。
 オッサンを殺したのは、デュカリオンをかくまっていた少年にオッサンが暴力を振るったあとだが、それにしたって、初対面でヒトを殺してこっちを睨みつける異形の大男を、監督が「こいつを好きになってやって」と紹介しているとは、どうやっても受けとめられない。

 監督のマーカス・二スペルは『テキサス・チェーンソー』のほか『13日の金曜日』のリメイク作でも知られるが、どちらも賛否両論ながらやや否が多いといった割合で、共通するリメイクの極意は「無駄な人間ドラマを追加する」である。レザーフェイスもジェイソンも、むやみやたらにチェーンソーを振り回し、殺られるほうにしてもチェーンソー振り回す怪物の心持ちなど理解しようもなく、ただざっくんざっくんと切り裂かれるのがスプラッター・ホラーの名作たるゆえんだったところを、この監督は、リメイクにあたりマスクの下の思惑を描くという意欲的な作法に出た。

 『デュカリオン』では、逆である。
 小説版、すなわち真のクーンツバージョン『フランケンシュタイン』では、デュカは静かにコインを消し「それでもおれを受け入れてくれるのか」と問う、哀しき人造人間。だが、映画屋としては、テメエコラ伝説の怪物フランケンシュタインズモンスターだろうがとにかく殺しのシーンは必要なんだよ、という解釈だったとしか思えない。で、それが、レザーフェイスではなく、ジェイソンではなく、ディーン・クーンツのデュカリオンでもないのなら問題はないのだが、映像化自体は、前述したとおり、かなり丁寧におこなわれているのである。

(そこがクーンツ師のさらに気に入らないところになったのは想像にかたくない。『BLACK RIVER』のように、その作品そのものに私は関与していないと断言できればいいのだが、残念ながら『デュカリオン』のストーリーラインは原作に忠実で、書きなおされたとはいえクーンツの書いた脚本の大半をそのまま使用しているのだった)

 結果、愛と正義の人クーンツの生んだ哀しく素敵なデュカリオンは、映像化されてもそのキャラクターのまま、なぜか冒頭で突然どうでもいい殺人を犯したり、ヒロインを前にして自分に電気を流してビカビカ光って驚かせたりする。
 やたら画面のこっち側を、ぎょろりと睨んだりする。

(なんどか、どう見てもWWEのスーパースター・プロレスラーであるエッジを真似ているとしか思えないシーンがあった。まあこれはわかる人だけわかってくれればいいが、そういう演技過剰さである)

 映像化で冒頭の寺院が削られた理由も、きっとそこにある。怪物デュカリオンが、だれかのやさしさで入れられたタトゥなど彫られていてはダメなのだ。俗世に帰ってきたデュカリオンが、隠れ家にする映画館の従業員は、小説ではデュカリオンに横幅では負けない巨漢であり、デュカとのあいだに友情めいた関係まで築くのだが、ニスペル作品では、小柄な老女である。たぶんデュカリオンの巨大な異形ぶりをアピールする演出なのだろう。

 恐ろしい人造人間と、人間とが手を組んで悪を討つ。これはそういう話のはずだが、監督と、クーンツの脚本を手直ししたライターは、その恐ろしさを強調しようとして失敗している。冷静に考えれば、この失敗は予期できたもののはずだ。なぜならそもそも、クーンツの意図がそこにないから。ひろげようがないところを、彼らはひろげようとしてしまった。

 フランケンシュタインの怪物。
 日本では、藤子不二雄Ⓐによる『怪物くん』に出てきたフランケンというキャラクターでも顕著なことに、怪物の名が「フランケンシュタイン」なのだと誤解している人も多い。しかし、その誤解も、ある意味では当たっている。その物語で、真の怪物はだれかと問われれば、それは人造人間を造ったフランケンシュタイン博士にほかならない。

 ディーン・クーンツは、フランケンシュタイン博士が自らの肉体も改造し現代に生きていて、ヴィクターという名の億万長者になっていると設定している。そして彼は、いまも人造人間を造り続けている。長年にわたる研究の成果によって、ヴィクターの人造人間たちは、人間社会にまぎれて生活するようにさえなっていて、いつか、ヴィクターの号令によっていっせいに蜂起し、人間社会を転覆させようともくろんでいる。

 ……いや。この書きかたは正確ではない。
 「もくろんでいる」のはヴィクターだけだ。
 彼に作られた人造人間たちは、ただ、それぞれの生活を送っているだけである。ただし、ヴィクターの命令には逆らえないし、ヴィクターを傷つけることもできず、同時に自分自身のことも傷つけられないように、プログラミングされている。

 そう、クーンツの描く主題は、こちら側にある。

 『フランケンシュタイン 野望』の印象的なキャラクターたちは、ただ生活しているだけのヴィクターの人造人間たちだ。大昔に造られたデュカリオンは、ヴィクターとの対立の構図を演出するための装置にすぎない。

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 彼は、クロスワードパズルの縦横のマス目を言葉で埋めることに没頭して一日の大半を過ごしていた。外に出たいと思うことはあるが、外の世界は無秩序で、混乱している。その混乱が自分の部屋に迫ってきているのは感じるが、それが部屋に侵入してくるのを防ぐにはクロスワードパズルのマス目を正しい言葉で埋めていくしかない。
 外の世界が怖いのは、ファーザーがそういうふうに自分をプログラムしたからではないかと、最近になって思いはじめた。彼を教育したのは──それに、命を与えたのも──ファーザーだ。
 そう思うと、ますます混乱した。すべてのことに完璧を求めるファーザーがなぜ自分をこんなふうに創ったのか、考えてもわからない。


 ディーン・クーンツ 『フランケンシュタイン 野望』

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 彼の名は、ランドル6。
 五人目までのランドルは、すでに社会に出ている。
 しかし、六番目の彼は、情緒面に問題がある。

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 彼の創った新人種がみなそうであるように、エリカ4も、耐えられなくなったときは意志の力で痛みをブロックすることができた。しかし、セックスのときはヴィクターがそれを許さなかった。痛みにもだえ苦しんでこそ、完全に、しかも真の意味で服従したことになるからだ。


 ディーン・クーンツ 『フランケンシュタイン 野望』

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 エリカ4は、ヴィクターの妻である。
 妻なので、人造人間だが恥じらいを感じるようにプログラムされている。
 妻は、ベッドで恥ずかしがらないと役に立たない。
 ヴィクターは思いのままに妻を創ることができるのに、三人目までのエリカは失敗作として廃棄された。創造主の意に反して、思いもかけない不具合が妻には出るものなのだ。

 映像化『デュカリオン』にも、エリカは出てくる。
 彼女が生けた花を彼女にはバレないように生けなおせとメイドに命じるヴィクターの様子も描かれているし、客人を招いての食事の席で、自分の生けた花が手直しされていることに気づき、しょんぼりするエリカも描かれている。
 しかし、エリカ自身が、死にたいと思っていることは、クーンツの文章のなかでしか描かれていない。映像化に、彼女の独白のシーンはないし、苦悩を暗示する演技さえない。そのかわりに、宣伝用トレーラーでも大々的に使われている、どろりとした液体の詰まったバスタブから、体中に電極とコードをつながれ、ほとんど裸だが髪の毛を含め全身の毛がないエリカが雷に打たれて狂おしく踊る、物語的には意味がないが激しく幻想的な近未来演出のシーンはある。

 むろん、クーンツの小説に、意味なくエリカが舞踏する場面はない。乳白色の抗生剤にエリカが浸っている場面は、非常に抑制された描写である。

 ランドル6は物語のかなめなのだが、驚くことに映像化された物語にランドル6はいない。いないのに、物語はまったく同じように展開し、同じ結末にたどりつく。

 完璧な妻として創られた死にたいエリカ4。
 世界転覆の駒として世に送り出すために創られた兵士のはずが、クロスワードパズルを解きながら幸せとはなんであるかを狂おしく考えているランドル6(見た目は十八歳の完璧な美男子)。

 小説を読んで、心に残るのは、彼らを含めたヴィクターの怪物たち。
 しかし、画面に彼らはいない。
 彼らに似たキャラクターはいるが、そこでは、欠落しているものがある。

 エリカ4は、ヴィクターを性的に興奮させるために植えつけられた恥じらいから羞恥心を生みだし、羞恥心から他者への同情を感じるようになり、その先で思いやりの感情を芽生えさせる。
 死にたかったはずの彼女は、死を怖れる自分に気づき、生きたいのだと自覚する。
 彼女は、希望を胸に抱く。

 いっぽう、映像化は、エリカを名のない創られたヴィクターの妻としてだけ描いた。ヴィクターに、身勝手にもてあそばれ、次の創られた妻にとって代わられる、ヒトよりもモノに近い人造人間として。

 むろん、観客は、ヴィクターに感情移入できるわけがない。
 そのうえ、ポイ捨てされる妻エリカにも惹かれない。
 ただひたすらに醜悪な図式を見て眉をひそめるのが精一杯なのである。

 クーンツの小説でも、エリカ4が希望を抱くのは、ほんの一瞬のことだ。
 しかし、それは絶対に必要な描写だった。

 フランケンシュタインの怪物がみせる、刹那のまなざし。
 そこに浮かぶ、絶望、もしくは、希望。

 映像化『デュカリオン』で、デュカリオンは言う。

「おれはバケモノじゃない。キミの希望だ」

 はしょった部分をすべて、デュカリオンのその一言でまとめてしまった。
 ヒロインは、デュカリオンと手を組む。
 だが、観客は……私は……ふうん、そうなんだ、と鼻をほじっている。
 他人ごとでしかない。

 ちなみに、DVDのパッケージで、デュカリオンは美女をお姫様だっこして荒廃した街で稲光を浴びながらこちらへ向かってくるという、見目麗しい御姿を披露しているが、作中にこんなシーンはない。詐欺である。いや、パイロット版である『デュカリオン』が成功していればテレビシリーズでそういうシーンもあったのかもしれないが、いま、この作品のネット上に流れるレビューをいくつか読んだところ、これがそもそもテレビ放映用の作品であるという認識さえもたれていないのが現実のようなので、やっぱりこれは詐欺である。まあ、パッケージだけでも格好良く仕上がってくれたのは、棚の飾りにするために所有しているような私にとっては、いくばくかの救いではあるが。

 ともあれ、比べてみればわかるから。
 クソを承知でDVDも観てほしい。
 小説『フランケンシュタイン 野望』を読んでからのほうがいい。
 まったくおなじ話なのに、ディーン・クーンツが不在だと、ここが伝わらないのかと、わかる。
 逆説的に、クーンツの技を実感できるのである。
 消えるコインが示唆する並行世界も含め、あきらかに物語が持つ可能性の深さがちがう。
 大技ではない、ちょっとした小技のキレこそが、クーンツ・タッチの真髄だと見えてくるのだ。

 『フランケンシュタイン 野望』と『デュカリオン』があれば、ひとの心を揺れ動かすための物語にとって大切なものとはなんであるのか、身に染みてわかります。そして、自分の作品に対して愛が深すぎると自覚している作家は、ほかのだれかに同じ愛をもとめても失望するだけだということも(笑)。

 奥深い教訓の詰まった一冊になりました。
    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「パートナーのマイクル・マディスン刑事よ」カースンは、マイクルをデュカリオンに紹介した。
 会釈を交わすと、マイクルはデュカリオンの大きさにも醜さにも驚いていないふりをして啖呵を切った。「単刀直入に言わせてもらう。おれたちも不気味な森のなかへ迷い込んでしまったことは率直に認めるが、トランシルヴァニアで起きたとかいうことは信じてないからな」
「それは映画のなかでの話だ」と、デュカリオンが言った。「実際はオーストラリアで起きたんだ」

FRANKENSTEIN

 ディーン・クーンツ 『フランケンシュタイン 野望』


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 最後にひとつ。
 私は古くからのクーンツ・フリークだが、クーンツがことあるごとにいう「小説にはユーモアが必要だ」というのを、クーンツ自身が言うほどには実践できていないのではないかと感じていた。それが、クーンツ脚本をもとにしたはずの『デュカリオン』のまったくユーモアのない演出方針を目にしたとき、どれほど、この手のどうでもいいようなユーモアが、クーンツ作品にとって重要であったのかと知った。これは口では伝えにくい。でも『デュカリオン』のクソぶりが、ここに寄っているのは絶対です。たとえば、冒頭で図書館の女子トイレにマイクル刑事が入って言うセリフ。あれ、最初観たとき意味不明だったんですが。小説で補完されました。ああなるほどマイクルってそういうやつなんだ……ほんとどうでもいいんですけれど、重要なんですよね、そういう細かい感想が抱ける描写って。そんな箇所がいくつもあります。私自身、このレビュー自体をユーモアをまじえて書いていますが、今回再び観ても『フランケンシュタイン 野望』と『デュカリオン』のセットからは、多くのものを学ぶことができました。そういう意味で、物語を創る人々にこそ、こっそり真にオススメです。

(さらに最後に。
 『フランケンシュタイン 野望』の販促帯に、

「貴志祐介氏絶賛 大型映画化決定」

 とデカデカと書かれているのですが。
 もちろん『デュカリオン』がすでに製作を終えた大型映画化などというはずもなく、調べてみれば(というかこれもクーンツ公式サイトに自慢げに書かれていた)、1019 Entertainmentに『ディーン・クーンツのフランケンシュタイン』シリーズの映画化権を販売済みということで。その1019 Entertainmentとは、『X-MEN』シリーズや『ファンタスティック・フォー』の製作でおなじみハリウッドのヒットメーカー……って、これも自慢げに書かれているんですけれど……そのラインナップが聞くからに怪物たち大暴れ映画なのはだいじょうぶなのか。ハリウッドに目がくらんで権利売った先で、またデュカリオンが腕からミサイル飛ばすようなことにならないといいけどなあ、と祈ってなりません。ハリウッドで大作ならクーンツ師もそれはそれでよしと認めそうなところがあるから怖いんだ……

 一本でいいから。
 「あの映画の原作者」といえば世界中の人が「へえ」と即座に理解してくれる、ディーン・クーンツ作品の魅力をきちんと映像化した作品が世に出てくれないかと、ファンは願って今日も生きているのです。観るまで死ねない)

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