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『饅頭怖い理論・応用編』のこと。



 前回話していた饅頭怖い理論を、まずおさらい。

「人類には怖れるものを呼び込む性質がある」

 端的にまとめきると、そういうこと。
 前回は事故の話だったので、私が饅頭怖い理論を信じているという話が、全体としてネガティブな思考が事故を呼び込む、という方向で読めてしまうことを、読みかえして気づいたので、いや、そういう側面ばかりではないのだ、ということも追記しておこうかと。

 相手が饅頭であり、飛行機であり、オートバイであったりしたとき、私もそれらを擬人化して話しかけるように書いてはいたが、やっぱりモノはモノにすぎず、そうであるのだという大前提は、前回も冒頭に書いたのだが、強調しておくのが弱かった。
 というわけで、もういちど言う。

「恐怖というものは、己の心の問題でしかない」

 もしも、恐怖心によって饅頭の味が変わったり、バイクの挙動がおかしくなったりしたら、それは100パーセント、恐怖しているこっち側の問題である。そこに超能力の話を絡めたために話をわかりにくくしたが、鳥がエンジンに飛び込むというのはともかく、配線がショートする(つまりは整備不良)とか、パイロットがミスをするというのは、それもやっぱり人の心の問題が絡んでくる。

 相手がモノでなく、ヒトならば。
 饅頭怖い理論は、呪いであり、祈りとして、はたらく。

「リッチー・ミゲロが大嫌い」

 口には出さないが、彼女はそう思っている。
 リッチーは彼女の同僚である。
 嫌いだということを態度に表した自覚もないが、もしも表したところで気づくようなリッチーではない。大雑把な男なのだ。客に対して馴れ馴れしい口をきくくせに、なぜだか決定的なもめ事は起こさない。決して優秀ではなく、どちらかといえば愚鈍な男だと周囲のだれもが思っているけれど、逆に言えばまったく仕事ができないわけでもないので、いなければ純粋に人手が足りないということにはなる。待遇に不満でももって、本人が発奮してくれれば改善の見こみもあるが、独身も板についた彼は次の休みにはどこでなにを釣ろうかと思いをはせながら中古で買った釣り竿を磨いていれば幸せらしく、最近は少し幸せ太りしたようにさえ見える。

 害はない。
 だが、彼女は、リッチーを生理的に受けつけない。
 それは多くの女性職員にのみならず、男性でさえ、二十年前に買ったきりのようなスーツで出社してくる彼の頭に寝癖さえあった日には、苦笑いを浮かべて陰口をたたくくらいではある。あるのだが、どうやらみんなにとっては、それはそこで終わる話のようなのだ。

 だが、彼女は違う。
 ともすれば、自宅で、ベッドに入って目を閉じ、頭のなかが空っぽになった眠る前の一瞬にさえ、思ってしまうのである。

「リッチー・ミゲロが大嫌い」

 顔さえ浮かぶ。
 匂いまで浮かんでくる。
 真夏に、リッチーよりもひどい獣臭をただよわせている男は他にいっぱいいるし、リッチーの体臭が常識に照らしあわせて格別ひどいというような事実はないが、しかし生きた人間である以上、体臭はあり、彼女はそれを嗅いだだけで死にたくなる。

 ……と、まあ、こういう場合。

 残念ながら、饅頭怖い理論的には、彼女の脳内で次々にリッチー・ミゲロの虚像が繁殖していき、やがて現実世界に山と積まれた饅頭が出現して圧死することになる。

 ところで、上の話を読んで「これって恋のはじまりじゃないの?」と感じた向きは多いはずだ。多くの古典的少女マンガにおいて、ヒロインが特定の男性にプンスカ腹をたてると、それは恋愛開始フラグが立ったと同義である。

 むろん、その後において、彼女が崖から落ちそうになったところを、たまたま峡谷に釣りに来ていたリッチー・ミゲロが救うことになり、あらこんな勇敢でやさしいところが、という転換もありえなくはないが、ご存じのように、現実世界でそのような少女漫画の王道的転換が起こるのは天文学的にまれだと言わざるをえない。

 冷酷な現実においては、彼女は「逆あばたもえくぼ」と呼べる状態にある。

(嫌いな相手のすべてがもっと嫌いに見える状態を指し示す的確な言葉があるのかどうか、寡聞にして私は知らない。だれか、なにかうまいこと考えて欲しい。良いところさえ悪く見える状態……さすがに、えくぼをあばただとは見えないだろうし。二重さえ整形、白い歯さえ蝋人形、黒髪さえ貞子。最後のはちょっといい感じだが『君に届け』のなかで使われていそうですね)

 十代女子の愚痴にありがちな「うちの親が」話で、父親の嫌なところが羅列されるのを聞いていると、なんだか微笑ましい。たとえば私は野球を観ないので、どのチームが好きも嫌いも判断のしようがない。それと同じで、嫌いな人という存在だって、嫌いになる材料を収集しない限りはレゴブロックで作るタワーのようには積み上げられないはず。

 大人になると、よくわかる。
 いっしょに住んでいるとか、血縁とか、関係ない。
 2DKのマンションで娘もいるが、完全無欠の仮面夫婦という知りあいがいる。ちなみに、その知りあいというのは、ちょっと遠いが、私と血のつながった親戚だ。
 心が本当にすれ違うと、同じ部屋にいてさえ、もう好きも嫌いもない。
 むしろ、他人と暮らせば好きも嫌いもあるところ、仮面夫婦は前提として互いの存在が無だから、視線を気にすることも必要なく、羞恥心を抱くこともなく、たまに大きな音をたててしまったら静かに頭を下げれば済むことで、とてもおだやかに時間が流れているのだという。

 他人を嫌うにはエナジーが必要であるが、すべてのエネルギーはこの世を姿を変えながら廻っているだけなので、すべてを燃やし尽くす焼夷弾の炎も、ふんわり甘いパンケーキを焼くガスの炎と親戚であり、結果として表れた変換の先こそ幸不幸あれど、放たれたエナジーがなにかを生みだす過程は変わらない。

 相手がモノであれば、それを動かすには、超能力と呼ばれる超絶なエナジーを放出する必要があるが、相手がヒトであれば、それは案外、わずかな炎で、変化が現れたりする。

 リッチー・ミゲロは、友だちの多いタイプではない。
 そのことを苦に思ってはいないし、なんだか避けられている気がする相手が少なからずいることにも気づいていて、そのあたりの詳細は理解できないものの、おそらくは自分のなんらかの異質さが原因としてあるのだろうという推察はできている。

 だから、そっけない態度には、慣れている。
 笑いかけて喋っているのに、笑わない視線を返されることにも慣れている。
 こっちを見もしないで、はいはい、とあしらわれることにさえ慣れているのだが。

 嫌われることに慣れてはいない。

 善良な大人の社会で、あからさまな敵意を他人に向けるものは、基本いない。そういった衝突の原因となる感情を制御するために、マナーであり、社交辞令というものが存在していて、人類の歴史もそう短くはないから、ある程度の文明国では、数万人の人がひとつのビルで一日過ごしても、殴り合いのケンカがまったく起きない日は、珍しいことではなくなった。ビルに詰めこまれたのがマンモスを狩っていたころのアドレナリン類人猿なら、昼ご飯の時間を待たず、石斧で斬りつけ合って絶滅しているところである。

 嫌われる、という呪いは伝播する。

 人の瞳孔は、興味のあるものを見ると開く。
 もちろん、よく見えるようにだけれど、実際にはよく見ようと思わなくても、それは制御できないという実験結果がある。気のおけない友だちがいるなら実験してみるといいが、女好きなやつに、さして露出が高いわけでもない雑誌のグラビアを見せるだけでも、開く瞳孔は、はっきり見てとれる。

 これを応用すれば、だれかの前に行って、話をするだけで、その人が自分に興味を抱いているかどうかがわかりそうな気もするが、ことはそう単純ではなく、瞳孔の拡大は性的興味によってもっとも反応するため、こと男性に限れば、女性の後ろ姿に反応する率が高いという。じっと見られると萎えるが、相手の視線がなければヒップラインを吟味するという習慣を持つ男性は多い。女性においても、好きな相手にさえ、真正面から見られると無意識の恐怖で瞳孔が収縮するというケースが多いというのは、きっと自分以外の他人に凝視されるという経験自体が、動物の本能として危険を察知すべき状況だからであろう(逆にとらえれば、他人に見つめられることで燃えあがる、という性欲を持つ人は、野性的なようでいて、野生動物としての警戒心を失った、実に進化した平和を愛する人類の先鋒たる淫乱ということである)。

 ともかく、かようにヒトの表情は制御できない部分を多々もつ表現器官であり、彼女は意識しなくても、同じ職場にいるのだから、リッチー・ミゲロの話題はそこかしこで立ちあらわれ、そのたびに彼女の瞳孔が反応してしまっていることは間違いない。

 大嫌い。
 名前を訊いただけで、世界を闇に閉ざすくらいに瞳孔が収縮する。
 アメリカンプロレスで、悪役レスラーがよく黒目を小さくするコンタクトレンズを入れているが、あれは、以前すげえ威力だなあ、と感心した瞳孔を開かせるコンタクトと逆の印象操作を狙っている。

Mysterio

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『腹話術効果師 VS 腹話術師』の話。

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 フィクションの世界でも、白目と黒目の割合を極端に描くことで、キャラクターの善悪を表現することはよくあり、俗に言う「三白眼」は、とてもわかりやすく悪人面になる。
 大怪獣ゴジラの初期造形は、極端な三白眼である。
 あまりに極端すぎて、映画の解像度が上がるにつれジョークじみてきて、後年のゴジラは顔に占める瞳自体の割合が小さく、表情が読みづらいことで怖さを表現するようになっていった。

Godzilla 

 目玉のほとんどが黒目であることで可愛らしさを強調しているキューピーとのコラボでは、三白眼ではあるが、白目の割合を少なく変えてある。このように、黒目の大小だけで見るものに与える印象は大きく変わるのであり、もちろん、リッチー・ミゲロの名を聞くたびに瞳孔を収縮させて悪役レスラーか大怪獣のような顔になっている彼女の変化に、まわりの者が気づくのは時間の問題だ。

 呪いは伝播する。
 伝播してこそ呪い。

 彼女がリッチーに特別な感情を持っているらしいことは、やがて周知のこととなり、リッチー本人にも早晩届く。そこで、特別な感情、というのを好意的にとるくらいにリッチーが間抜けであれば、むしろ大団円であるところを、ぱっとしない男であることは間違いないものの馬鹿ではないリッチーは、嫌われていることを理解できてしまう。

 生来のピエロ体質。
 さげすまれても笑っていられるが、嫌われるとなると、これは効く。

 伝播した呪いは効力を発し、結果どうなるかといえば。

 リッチー・ミゲロが、彼女の姿を見ると、避けるようになる。
 近づかないようになり、目をそらされる。

 大嫌いな相手が、向こうから避けてくれるのだから快適なはずだが、その状況ができあがると、なかなかに複雑な問題がたちあらわれるのが人の世の常。

「なんであたしが避けられなくちゃならないの?」

 彼女がリッチーを嫌ったからである。
 だれもが知っている、真実そうなのだ。
 
「別に、そんなつもりじゃ……」

 なかったかといえば、それは嘘。
 だったら、どうすればいいのか。

 ある日、彼女は、食堂から飛び出してきた食パンを口にくわえたリッチー・ミゲロと激突して、廊下にしりもちをつく。

「痛たた」

 うめく彼女から、震えて逃げるリッチー。
 触れないように、目も合わないように、匂いも嗅げないように、距離を置いてすごしていたのに。

 ごめん。

 そう言い残して、リッチー・ミゲロは駆け去っていく。
 彼女は、立ち上がり、スカートの埃を払うと、天井を見上げて、ため息をつこうとしたが、うまくできず、かわりにうっすら、涙を浮かべた。

 理由はよくわからない。
 でも、はっきりと、思った。

「あたし、あのひとのどこが嫌いだったの?」

 いや、嫌いなところなど、そもそもなかった。
 大嫌いという思考がふくれあがって制御できなくなっていた。
 
 私にも、確たる理由なく、苦手な相手がいる。
 でもそういう場合、いろいろあってひとまわりすると、ふと気づくことが多い。

 別にいっしょに暮らしている相手ではないのだから。
 嫌いにならないでも、仮面のように無表情で接していればいいのに。
 あえて感情がたかぶるには、なにかある。

 さげすむ、というけれど。
 本当にヒトを蔑むヒトは、ヒトをモノのように思って無視するものだ。
 さげすむのは、そこになにかが見えるから。
 嫌うのは、自分のなかにも、呼応するなにかがあるから。

 饅頭怖い、の落語でも、友人を騙す男は言う。

「まんじゅうの、ま、を聞いただけでこわい」

 そのくだりだけで、充分に破綻している。
 そんなことはありえない。
 ま、は別に怖くない。
 ま、は饅頭自体ではない。

 バナナ恐怖症の人なんかもいるらしいから、現実に饅頭が怖い人だっているかもしれない。でも、そこまでくると、はっきり他人には害を及ぼさないものなので、本人も自分の思いこみによる恐怖だとわかるはず。過去のなんらかのトラウマに関わっていて、あえて克服する気もなければ、放っておけばいい。

 しかし、饅頭が本当に怖いと、街を歩くたび、どこかに饅頭がひそんでいないかと怯えながら生きることになる。それはきっとものすごく大変でつらい。現実には、それほど街に饅頭はあふれていないが、フォビア(恐怖症)な人にとっては、それはもう世界が饅頭で埋め尽くされていて窒息してしまうようなものだろう。考えるだに地獄。

 フォビアのほとんどは、慣れによって改善する。
 もともと、心がどう受けとめるかの問題だから。

 だれかをわけなく嫌いになってしまう。
 だとしたら、それは饅頭怖い理論の応用編。
 ゆくゆく、なにかに気づくための、得るための、嫌い。

 嫌い、嫌い、と、掘り下げればいい。
 饅頭怖い、が、嘘であれ真実であれ。
 たいていの人の人生で主役にはなりえない饅頭というものが、いま自分の心を占めている。

 それは呪い。
 呪いとは、祈り。
  
 祈ることが人生で見つかることほど、幸いなことはない。
 
 饅頭怖い理論。
 応用編は、よくわからない。
 はい。いきおいで書きました(笑)。
 でもこういうことってあるように思うのです。

 なにかを大好きになるにせよ大嫌いになるにせよ、それができるということは、基準点がきっちり定まっているということ。だから、新たな嫌いなものが見つかったりしたときは、その距離感をさぐっていくと、自分がどこにいるのかが、よりはっきりわかる。

 落語のなかで、饅頭怖いと友人に嘘を言った彼は、ひとりで怖い饅頭を待ちながら、つぶやきます。

「あいつら、おれが甘いものに目がないって忘れてやがるんだ……」

 この落語の、もっとも切ないところ。
 友人たちとは距離ができている。
 その友人たちは、自分を怖がらせようとしている。
 彼は、友人たちが突きだした饅頭を喰う。
 むさぼるように。
 なにかを悟って。  

 そう、なにか、得てしまって。
 嗚咽する。
 大好きな饅頭に、喉を詰まらせながら。
 嘘でも怖がったりしたから、真実を手に入れてしまった。

 呪いであり、祈りであり、魔術。
 饅頭怖い理論を、恣意的に使用するべからず。
 
 

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