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『オッド・トーマスの予知夢』の話。



 ぼくは純粋な愛が許されるスケール──町や、地域や、通りといった小さな場所──で世界を愛し、人生も愛しているが、それは、この世界とこの人生の美しさには多くの可能性が秘められているからだ。ただし、それらを過剰に愛することもない。壮大な宮殿の入り口の間を見て感嘆するものの、次の敷居をまたいだあとに控えているすばらしい光景に比べたらたいしたことはない、と承知している建築家みたいなもので、ほどほどに畏敬の念を抱く程度だ。


 ディーン・クーンツ 『オッド・トーマスの予知夢』

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 だれも純粋に世界を愛することはできない。
 オッド・トーマスは、そう書く。
 なぜなら全体を愛するには世界は大きすぎるから。

 だから彼は、やむなくスケールダウンした、近所の町並みなどを愛しているのかといえば、そうではない。オッドは積極的にダイナーのコックでありつづけて毎日ふわふわのパンケーキを焼きたかったし、できればタイヤの販売員になって、前に進めなくなった人たちに代金を受けとる替わりに新品のタイヤを取りつけて、ふたたび前進できるようにしてあげたいと思っているし、究極的な夢としては、恋人とアイスクリーム屋を営んで、それで世界が終わったらいいのにと考えている。

 なにごともなく平和でいたいだけだ。
 その願いこそが、世界を愛するということだ。

 だれよりもそう考えている、だれよりも無欲で善良な若造なのに、オッド・トーマスは、シリーズ四冊目にして、父ディーン・クーンツに、決定的に戻れない道を歩まされる。

 つねづね、ここで私はクーンツ作品の邦訳のスローペースぶりを嘆いていたが、昨年はなんだかんだで片手の指では数え切れないほどの作品が日本で刊行され、このオッド・トーマスのシリーズも、本国での発刊ペースに、ついに追いついてしまった。
 そう、五冊目を、ディーン・クーンツは、まだ書いていない。
 いっぽう、オッドの冒険は、四冊目でも完結しない。
 年季の入ったクーンツ・フリークたちは、ふう、と息を吐く。

 この物語は、きっと終わらない。

 クーンツ師の執筆姿勢は、基本、ノリである。主人公が現れ、悪者が現れ、追いかけっこをして、悪が討たれる。そういう単純明快なプロレス・プロットをもちいて、目の肥えた観客に満足のいくディテールを提供するプレイスタイルこそが、師の真骨頂であるといっていい。オッド・トーマスはシリーズものという体裁になっているが、実際に読んでいただければわかるように、一冊ずつ、まるで別の物語だ。

 『オッド・トーマスの霊感』

 これは文句なくだれもに全力でお勧めしたいシリーズ第一作にして、完全に完結した一冊としても読める名作である。

 以後の『受難』『救済』『予知夢』は、生まれ出でてしまったエンターテインメント小説界の無垢王オッド・トーマスに、ムチャブリをかけてあたふたさせ、そのさまをみんなで眺めましょう。という趣向である。人気の出た実力もともなっているベビーフェイスに対し、いかにもあつかいにくいイロモノキャラや冷血非道なヒトデナシ、そしてついにはこの世のものではない化け物までもを焚きつけて、それをオッド君がどうやってさばくのかをたのしむ……否、その無茶な世界と対戦相手たちとの紆余曲折な死闘の果てに、オッド君がどう成長するかを父みずからが予測もなく書き進めたのが、二冊目以降だと表現できる。

 ディーン・クーンツが、作品に登場させるすべてのキャラクターに詳細な裏設定を用意し、仲の良い友人以上に自分の創作したその架空の人物のことをよく知った上で、作品上に放つという手法をとることは、よく知られている。
 いわく、キャラクターが勝手に動き出す、ということを小説書きはよく言うが、それは事前に動き出せるだけの確固たる人物像を自分でそのキャラに与えたからだ、と。そして、だいたいの小説書きは、主人公とヒロインあたりには思い入れがあって設定も詰めていることが常なので、主要なキャラが勝手に動き出すのは、当たり前のことなのだ、と。

 師は、自分の偉大さを、ときどきなにげに口にする。
 つまり、脇役まで勝手に動いてくれるまで、私は詰めているのだ、と。
 だからプロットなど必要ないのだ、と。
 そういう主旨のことを、繰り返しインタビューで答えている。

 そして、十冊ほどのディーン・クーンツ本を読んだあたりで、多くの人が気づく。

「盛り下がってきたからって急にその展開はなに?」

 むかしからそうである。なんだか近年になって、近ごろのぼくは時代を読んで書き方を変えた、みたいなことをクーンツは言ったりしているが、おっとどっこい、それは、このあいだ観た、昭和の有名プロレスラーたちが集まって大盛況だった某興業のメインイベントを思わせる。なんだか大雑把な技がいったりきたりするが、要所要所で、キレこそないが、見慣れた必殺技が出る。盛り下がったら、意味もなくキレて無茶なことをはじめ、しかし、客もそういうものだとわかって観ているので、余裕を持って拍手さえ送ってしまう。大御所と呼ばれる者たちの、上手さである。客は損はしない。いや、なにはともあれ、新作が読めたし、そこではもう笑ってしまいそうなくらいに勢いで読ませてしまう、それを技術と呼んでいいのかさえ危うい、その舞台を人生の一部として慣れてしまった者だけが出せる「味」が満ち満ちている。

 言ってしまっていい。
 ディーン・クーンツの近年の作品群は、読む側にスキルが必要である。

 過去の名作と呼ばれた作品は、予備知識無しでぜひ読んでいただきたい。
 なにせ数が出ているので、古本屋では100円叩き売りのコーナーで数十冊見つかるはずだ。
 どれでもいい。どれを手にとって読んでも、あなたは得るだろう。
 なにを?
 なんにせよ、なにかを。

 しかし、たとえば、オッド・トーマスのシリーズを。
 『予知夢』から読むことは、可能である。オッド君の一人称叙述形式で書かれる本作も、想い出は想い出として逐一書いてあるし、書く必要のないことは省いてあり、これ一冊で、意味の通らない箇所はない。けれども、それでは読む意味がないと、声を大にして言っておきたい。

 ここまで読んでもらってアレだが、もしもあなたが『オッド・トーマスの霊感』を読まずに、第四作のこの書評などと呼べもしない私のぶつくさを読んでいるのだとしたら、いますぐ読むのはやめてほしい。誇張でもなんでもなく『霊感』は、予備知識のいっさいを持たないで読んだほうが7600倍くらいおもしろい。それは言い過ぎにしても、3400倍くらいは確実に。あの童貞王オッド君に、オッド君のなにかを知って出逢ってしまうほど不幸なことはない。もしかしたら、生涯忘れえぬ、棺桶にいっしょに入れて焼いてくれという一冊を、あなたはなくすことになるかもしれない。

 というわけで。
 言い方は悪いが、オッド・トーマス・シリーズの二冊目からは、オッド君ファンのための、ボーナストラックのようなものである。逆にいえば、それゆえに、父クーンツが、生みだしてしまった愛息オッドへ、みずからの小説人生でつちかったあまたの必殺技を、盛り下がることなど許さないペースで投入していくため、そりゃあもうお祭り騒ぎである。
 その様相は『予知夢』に至って、極限を迎える。

 クーンツ師の過去作を読み込んでいる者ならニヤリとする場面もあり! などという程度ではなく、全編がそれで覆われている。当たり前だが、というか、それが当たり前でだれも怒り出さないというのが凄いのだが、事前プロットなしで超大御所がキレ気味のテンションで尽きることのない昭和の必殺技をかましまくる結果、伏線っぽく見えたひっぱりも、投入しまくった謎も、あの魅惑的なキャラの思わせぶりなセリフにも、いっさいの解決がつかないままに終わる。

 昨日、録画していた最終回を観たが『SPEC 警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿』というドラマが、まさにそういう終わりかたをしていた。映画化もしません、続編もあるかどうかわかりません、しかし全10回で描ききれなかったので、なんか謎な感じで終わります、でもおもしろかったっしょ?

SPEC

 たいていの場合、それは描ききれなかったのではない。
 はなから客層を予測して、盛り上げかたを謀った結果である。
 中途半端は客を減らす。
 おもしろかったし、いっか。
 それで星を減らす客は、はなからいないものとして進める覚悟をもって思い切った創作が為されたとき、拍手は大喝采になったりするものである。

 で、『オッド・トーマスの予知夢』には、ゴールデン・レトリーバーが登場する。それも通りがかったなどという登場ではなく、がっつりオッド君の相棒として、オッド君の命まで救う役どころ。ディーン・クーンツのファンで、ゴールデン・レトリーバーが出てくると言われて、それだけで腰砕けの絶頂を越えてしまうという向きは多い。それはまさしく、出せば沸くことがわかっている必殺技のひとつに数えられる一撃なのだ。

 そこをとっても、クーンツ師が、この『予知夢』でオッド君を小突き回すのを一時休止した理由は、おのずと知れてくる。
 ジャパニメーションの影響絶大な261ページからの展開描写などは、出せるものぜんぶ出し切った感がありあり。こっちも拍手よりも、笑いが浮かんできて仕方なく、どうやってこの興奮を伝えていいのかがわからず、足踏みして指笛を吹き、クーンツサイコー、の叫びを呼吸困難になるまで繰り返して、帰りにはラーメンでも食べて、発泡酒飲んで寝てあしたからもがんばれる。次の試合は未定らしいが、まあ、別シリーズの興業はあるのだし、オッド君にはたのしませてもらったぜ、と笑いながら良い夢見させてもらったファン冥利に尽きるのであった。

 要は、ひとまず「ディーン・クーンツが」満足した。
 それが作品全体から伝わってきて、実によい。
 思えば、書きあげた自作に対して、ぶつぶついうことの多いオッサンだ。それが、自分の息子だと呼ぶオッド君と組み、過去の技の数々を惜しみなくファンに披露して、なんかごった煮だな、などという批評にも、笑顔で「上等」と返す余裕綽々ぶりなのだ。

 オッド君の日本でのセールスも決して悪くはないようで、映像化が成功していればもっと早く訳されていたであろう『クーンツのフランケンシュタイン』シリーズも、近日刊行と聞く。どうやら、新規読者が育っているというよりは、クーンツの新刊というものに反応する昭和の読者層がいるらしい匂いは、新刊が出るたびに触れている当サイトとしては実感しきりのところ。作品名ではなく、作者名、それも「ディーン・R・クーンツ」で検索して来られるかたが、かなりいる。まったくの推察だけれど、ふと本棚を見て、黄ばんだ『ウォッチャーズ』などが目にとまり「そういえばクーンツって」と検索してみたら、いま年に何冊も(しかも何冊かは犬名義で)出している記憶のなかよりもむしろ大活躍、ということでクーンツ回帰。そういう流れに見えるのだった。

 もしも、そういう層が日本でも、この発刊ペースを支えているのだとすれば、クーンツの描く人造人間の物語というものが、向こうで「なんかクーンツタッチ変わってきてねえ?」と酷評もあったことは気にしなくていいのかも知れない。この国のヲタクたちは、アメコミに対してそもそも緻密なストーリー展開など求めていない。超人が出てきて苦悩して闘う話なんてものは、雰囲気である。キン肉マンだってもともとギャグマンガだったが、それゆえに詳しいことはともかくなんか熱く叫んでいるからこっちも熱く読む、で成り立ったのだ。クーンツのフランケン、登場! どーん、ぎゃーん! ずばーん! ああおもしろかった。それで騙される上品さが、この国にはある。

 ところで、キン肉マンで思い出したけれど。
 前回、『オッド・トーマスの救済』を、全編プロレスに絡めて評した。

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『オッドトーマスの救済』の話。

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 あの作品を読む限りでは、クーンツは、アメリカのケーブルテレビ付きアパートに住む青年なら、観ていないはずがないアメリカンプロレスというものを、オッド君も観ている裏設定ありきで書いているのだろうと予測していたのだけれど。
 本作では、そのあたりを、さらに深読みできる文章が散見される。
 格闘シーンでいくつかのプロレス技が出てくるのはともかく、たとえば、これ。

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 この後甲板からいちばん速く出る方法は、ぼくのすぐ右手にある、前甲板につづく六段の階段をのぼることだ。しかし、後甲板よりも高い位置にある前甲板は、舷窓のついた構造物を囲んでおり、経験豊富な船乗りならそのなかに何があるのかわかるだろうが、ぼくにとっては、女性レスラーの寝室と同じくらい神秘的だった──そして恐ろしかった。


 ディーン・クーンツ 『オッド・トーマスの予知夢』

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 プロレスファンでも、この描写ができるのは、かなり限られた国のリングをメインに観ている連中だけだ。近年でこそ、この日本でもアイスリボンや旗揚げしたばかりのスターダムなどが男性向けアイドル路線のレスラーを次々誕生させているが、それでも伝統の女子プロレスという枠組みからはずれるものではなく、女子だけで一夜の興業を打つことができる実戦的プロレスラーの側面を忘れることはない。

 一方、某国では、ヌードグラビアがウリな男性向け雑誌の表紙を女子レスラーが飾る。ネタではなく、女子レスラーが、そういうものとして認知され、闘いの女神、美の化身たる地位を確固たるものにしているのである。

 女性レスラーの寝室みたいに神秘的。

 女性レスラーといえばアジャ・コング、というような連想がプロレスファンでさえ少なからずある日本で、その寝室を神秘的だととらえるのは難しい。タメを入れて「そして恐ろしかった」などという表現をするまでもなく、怖くて入りたくない場所の筆頭でさえある。そして近年隆盛するグラビア体型を維持したアイドルレスラーたちはといえば、こちらは完全に肉感が売りであり、その魅力はかなり即物的なアピールをともなっている。リングでは飛びはねて奇声をあげ殴り蹴り、寝室では純情可憐な女子というギャップを妄想させることによる肉々しさこそが、男たちを舌なめずりさせる……そこに神秘はない。

 映像、画像を数売ることで巨大団体を成り立たせているアメリカ某団体の女子レスラーは、必然的にセクシーショットを要求されまくるのだが、そもそも世界中において女子レスラーとは下着同然の姿で衆目の前に出る職業である。それゆえに、そこからさらに露出度を上げた格好が「できる」人材を求め続けた結果、彼女たちのセクシーさは図抜けたものになっていった。世界中さがしても、全裸で男性誌に載る女性たちに、女性観客からも黄色い声援が飛ぶ光景は、他で見ることはできない。彼女たちは傷つくことも脱ぐこともためらわず、限界まで鍛えあげると同時に絞り込まれた、男子とはまた別のルールでトップを争い続けるアスリートたちである。

 リングの上でおこなわれることはすべてプロレスである。
 そう言ったのは、日本人として初めてアメリカで成功したプロレスラーだといまも称され続ける、ジャイアント馬場。当時、馬場はフランケンシュタイン・ババというキャラクターを米国人の前で演じ拍手喝采を受けていた。日本に帰り、あかるくたのしくはげしく、をモットーとする全日本プロレスを旗揚げすることとなるが、そこでたびたび口にすることになる上記のセリフは、力道山が空手チョップだけで日本国中を沸かしていたころ、アメリカの自分は怪奇派フランケンシュタインに扮して負けぬほどの歓声をあびていた、その日本と世界とのギャップ、プロレスの奥深さを、しみじみと口にのぼらせたものだったように想う。

 美女がパジャマで枕投げ。
 それもリングの上でなら、プロレスである。
 なんなら投げなくてもいい。
 美しい女性が現れた。
 それを観る客がいる。
 それですでにプロレスは成り立っている。

 また、こんな一文もある。

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 そのなかにはホス・シャケット署長や、彼の小型クローンであるミニ・ホス──もしそんなものがいるなら──も含まれているかもしれないのだ。


 ディーン・クーンツ 『オッド・トーマスの予知夢』

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 ホス署長は今回のヒール(悪役)である。
 ネタバレでもなんでもなく、初登場からヒールづらの、堂々たる悪だ。
 オッド君は、パトカーの中でホス署長のホスというのは、もっと長い名前を縮めたものなのかとなんども訊ね、最後には自分ひとりで生殖行為を行うように助言される。ヘビの目のようなホス署長に無言で睨まれ、他人を愛することにかけて右に出る者のないオッド君でさえ、愛想笑いを浮かべたり、沈黙が耐えられなくなってしまう。それらが、ホス署長登場の一ページあまりで次々にオッド・トーマスを打ちのめす。
 ホス・シャケット署長は、客を呼べるヒールなのである。

 ミニ・ホス。

 恐ろしいホス署長だけでも手に負えないのに、同じようなヘビの目をしたミニチュア版ホス署長まで現れて、オッド君の膝の裏を蹴ったりしはじめた日には、さすがのオッドも泣き出すだろう。しかし、作中にミニ・ホスは登場しないし、登場しないだけでどこかに存在しているわけでもない。

 邦訳では、くだんの
「自分ひとりで生殖行為を行うように」
 という一文には
「(go fuck yourself で〝黙れ〟という意味)」
 と注釈が入れてある。

 だが、日本においては、まったく脈絡なくオッド君のつぶやきの中にだけ現れるミニ・ホスについても注釈がいるだろう。

 それは、オッド・トーマスと、その父ディーン・クーンツが、私が思っていたよりもずっと深いプロレス・フリークであることを表している。

 ルチャ・リブレを観ないアメリカ人は多い。
 私が言いきってしまうのもなんだが、視聴率競争を繰り広げる大手団体の発表する数字によれば、そういうことになっている。
 ルチャ・リブレ(Lucha Libre)とは、直訳すれば「自由な闘い」という意味のスペイン語。それはそのものずばりのプロレスを指しているのだが、メキシコにおけるプロレスが独特なスタイルを歴史上獲得したこともあり、現代ではルチャ・リブレ=メキシコスタイルのプロレス、という意味で使われている。

 そのルチャ・リブレ。
 最大の特徴は、正義と悪があいまいに描かれないこと。
 試合が終わったらノーサイド、握手を交わして抱きあって、という真剣勝負を模した演出はない。正義が悪を倒せばさらに踏みつけて観客に拍手を求め、悪が正義を沈めればブーイングしきりの観客に向かってさらに中指を突き立てる。
 そういうストーリーラインで建国からプレイし続けられているゲームであるため、必然的にプレイヤーのキャラクターが強調されていく。果たしていまにいたり、映像的に正義らしさ悪らしさが魅せやすいマスクをかぶったレスラーが選手の大半を占めるようになったのである。

 多くの人気レスラーがマスクをかぶるようになった結果、マスクのレプリカが人気商品として売られるようになり、会場では子供たちがお気に入りのヒーローになりきって偽のマスクをかぶっていたりする。そうなってくれば、特撮ヒーローモノでもおなじみな悪の戦法が使われないわけがない。

 偽物の登場である。
 しかし、わかりやすいストーリーラインが信条のルチャ・リブレ。会場の端っこの立ち見席から観ている三歳児にさえ区別がつく形で偽物を登場させる。

 ミニである。
 読んで字のごとく、小さい人が演じている。日本のみならず、他の多くの国々でいろいろな団体から抗議が来そうな思いつきだが、なにしろ自由な闘い。結果的には、ミニの登場はだれもがヒーローになれるのだという幻想を補強するプロットとなり、正義も悪も問わず「ミニが登場すれば真の人気レスラー」といわれるようになり、いつしか数も増えたミニたちだけの試合などもおこなわれるようになった。



 サイズは小さいが、マスクをかぶっているのだから、どのレスラーのミニなのかは一目瞭然。突然にリングの下から現れて、敵を攪乱し、ときには足をひっぱって転ばせたり、レフェリーの目をふさいだり……いつしか人々は、ミニたちのことを「妖精さん」と呼ぶようになった。
 正義の妖精さんは、本物の放った技に、さらなる小さなオマケを放って試合を決める。
 そして、悪の妖精さんは……

 ただでさえ、ルチャの悪はわかりやすい。
 わかりやすい悪というのはすなわち、バットで人を殴るとか、そういう悪である。その状況において、悪の妖精さんは正義の妖精さんよりも仕事のしがいがある。小さくたって、次の凶器をリングの下から引っぱり出して運んでくることくらいできる。小さくたって、ダウンしたヒーローのマスクを剥ぎ取ることはできるのだから。

 ミニ・ホス。

 その表現だけで、オッド君が、署長をいかにわかりやすい悪であるか表したい気持ちは伝わってくる。よりによって警察署の署長が、見るからに凶器を提供する妖精さんだって連れていても不思議はないほどに、悪なのだ。

 だが、そこは物書きとしてはデビュー前の若造オッド・トーマス。
 ルチャ・リブレは観なくても、アメリカ国民なら古くはミゼットという呼び名で、現代ではドワーフやマイクロといった呼びかたで各方面で活躍するミニなエンターテイナーたちのことを知っていて当然だと書いてしまったのだろうが、まさか極東の読者にも訳された内容が届こうとは、夢にも思わなかったのに違いない。

 でも、だからこそ、かつてはミゼット・プロレスが前座で行われていたリングもあったこの国で、いまだって身体を鍛えあげているちっちゃな人はいるはずなのにタブー視されて上がるリングはなく、めっきり姿を見なくなった。真の妖精さん、架空の存在として愉快なミニたちを忘れかけているこの国の住人だから、オッドの意外な一面としてそれをとらえてしまうことができるのかもしれない。

 凡庸なコックであり、タイヤの販売員になって、愛する彼女と添い遂げたい。
 凡庸であることこそを夢とするオッドなら、自分たちの街に、ヒーローと美女の詰まったアメリカンプロレス団体の興業がやってきたならば、嬉々として出かけ、いかにも凡庸にウォーとかフォーとか奇声をあげながら、ポップコーンでも食べて標準的アメリカ庶民な自身に酔いしれても納得できる。
 だがしかし。

 嫌な奴を見て「こいつのミニが現れたら最悪」と想像するオッド・トーマスは、少し標準からははずれた、いわゆるマニア、ヲタクの域に入ったプロレス・ファンとして私の目には映る。少なくとも、作家を自称してそれがデビュー作になるかもしれない原稿を書いているのに、自分が妖精さんの現れるようなプロレスを好んで観ていて知識も豊富だなどと、わざわざ匂わせる一文は入れないほうがいいに決まっている。

 父ディーン・クーンツならば言うだろう。
 売るためには、広く浅く。
 季節感よりも、読者サービス。
 説明しなくてもわかる文章を書けないなら筆を折れ。

 クーンツ師の教えを聖書のように読みながら、その多くを守れずに書いてきた私には、そう言って首を振る師の姿が見えるようである。

 ……そう言う、はずなのだけれども。

 もちろん、忘れてはならない。
 オッド・トーマスの父ディーン・クーンツは、創造主なのだということを。
 どんなに職人技なキャラ付けをされてオッド君が自由気ままにプロットのない小説世界で動きまわったとしても、最終的なジャッジ権は天なり地なる父クーンツにある。オッド君に限らず、ディーン・クーンツのレフェリングの前では、どんなに有能なヒールがどんなに小狡賢いミニを連れていたって、ルールに反する凶器攻撃やキンタマを蹴りあげるような技は使わせないのである。ましてや、近年まれに見るクーンツお気に入りの息子オッドのこと。いつも以上に、見逃すことなどありえないはずなのだ。

 だとすれば。
 ディーン・クーンツは、息子に、それを許したのである。

 ロリ風味かつ肉感的な彼女と小さなアパートで仲むつまじく暮らし、ダイナーのコックを続けて、いつかふたりでアイスクリームが売れたらいいなどという夢も。
 世界中で毎週500万人が観るとされる巨大アメリカンプロレス団体の中継を観るだけにとどまらず、他国のプロレス、もしくは自国でミゼットプロレスを展開するマニアックなインディ団体までもを観戦する日常も。

 その他、『予知夢』では、ここでは書けないが、およそ「クーンツ・リングの清廉なベビーフェイス」には似合わない、オッド・トーマスの一作目に惚れ込んだ人ならば泣きだしてしまうかもしれない、いくつかの出逢いと、行為と、心情の変化をオッド・トーマスは許されている。

 うがった見方をすれば、父クーンツは、息子にそれらを許してしまったがゆえに、このシリーズの続きを書くためには時間が必要だと判断したのかもしれない。

 世界中のファンが、これまでにも何度も言った。
 しかし、いまこそ、オッド・トーマスにあれや、それをさせた、許した、ディーン・クーンツという作家に対し、これまで以上にそう判断する結節点なのかもしれないと私は感じる。

「クーンツは変わった」

 技を出しきり、自分で制御できないまでに試合を転がしすぎるのは、小説職人と呼ばれた男の書き方ではない。きれいにまとめる気が、毛頭ない。そのことを、いちばん強く感じているのは、これまでのクーンツ作品を、すり切れるまで読み込んできたクーンツ信者であり、それは私のことである。

 そもそも、オッド・トーマスのシリーズが四冊も続いたことが異常だった。
 意図的にシリーズ化をはかった作品はあったが、書ききれないから続編、主人公に愛着がわいたから次の旅、などという書き方は、およそクーンツらしくない。これまで「そこで終わりっぱなしか!」と叫び「同じプロットで書くならこのあいだの続きを!」とのたうちまわっていたのは、こっちなのに。なにか人生の終わりを予感するようなことがあるのかよクーンツ先生、と心配にさえなってしまう。

 愛犬が逝って、一か月書けなかった。
 そう師は言うが、実は、本人が思った以上に死というものを実感してしまって、いまわの際まで過去の作品を時代に沿うように改稿し続ける、などというこれまで言い続けてきた姿勢よりも、未完でもいいから新しいものを紡ぎ出したいという心境になったのかもしれない。

 オッド・トーマスの二作目以降を読み、技を出し切ることで、新しい引き出しを作り出さざるをえないところまで自分を持っていくこと……二十代のころに師自身が書いた「出し惜しめばそこで終わる」という信念の再構築のようにも私には読めた。

 からっぽにならないと新しい引き出しは増えない。
 悩むくらいなら書け。いま持っているもの全部つぎ込んで書いた結果が最悪でも、それをしないことには、引き出しの容量は増えていかない。

 そう思えば、これは、まさにディーン・クーンツの小説の教科書の何ページだったかに書いてあった内容そのものである。長年にわたって多作な彼の作品を読み続けてきたこちらも感覚が麻痺していたが、もともと、ディーン・クーンツとは、破壊なくして創造なし、という荒くれ者な物書きだった。
 私が惚れたのも、まさにそのスタイルだった。
 タブーはない。
 ミクストジャンルのクーンツ作品では、ミステリーでさえ密室が作れない。だって最後の数ページで、壁にワームホールが出現する可能性は、ないこともないどころか大アリなのだから。
 そんな試合は、クーンツのリングでしか観られない。

 リミッターをはずして生き急ぐ、職人から空飛ぶルチャ・ドールに回帰した、地球が誇るエンターテインメント小説界の生き神ディーン・クーンツが、超人フランケンシュタインのアメコミ的設定の物語を書いているオッド・トーマス以降。

 その手の選手に待っているのは、喝采と失笑だ。
 まさに私と妻がいっしょに観る、初代タイガーマスクの試合のようなものである。
 なによりも虎のマスクが欲しかった幼少時代を過ごした私にとって、体重が百キロだと詐称する太りすぎた現在の初代タイガーは、それでもヒーローだ。そのローリングソバットにキレがないのは認めざるをえないが、それでも「おお」と声が出てしまうし、感涙さえ浮かぶ。もちろん隣の妻は失笑しているのだが。

(余談だが、私の母は裁縫教室をいまも運営している当時はブティック勤めで、プロレスブームでおもちゃ屋にも売っていた虎のマスクを私がねだるたび、父は「お母さんが縫ってくれるから」と嘘をついたものだった。もちろん、そんなものを縫ってもらったことはなく、私はいまだにいつかプロレス・デビューを果たしたら、母に約束通りトカゲのマスクでも縫ってもらおうと心に決めている)

 時代を読んで書き方を変えた、みたいなクーンツ自身の弁をまるまる信じることはできない。だけれども、闘う小説屋の本能として、師のタッチは紛れもなく変わっていっている。それは、変化そのものがディーン・クーンツという選手の必殺技だからなのである。
 本人は、結果オーライで変化に身をまかせている。
 かつての変化よりも、今回の変化が目を見張るほどに思えるのは、きっと、キャリアによる自信のなせるわざなのだろう。もはや失敗を怖れる域に師はいない。放った技が多少崩れたところで、偶然や、ときには不調さえもを巻き込んで試合を成り立たせてしまうに決まっている。毎日決まった時間、休まず書き続けてきた職人的姿勢も、ここまでの年月になれば、悟りに達するのかもしれない。

 あの愛娘犬が逝ってさえ、書くことに戻れたのだ。
 自分の命が尽きるまで、小説を編み続ける。
 本人も、確信しているに違いない。

 ディーン・クーンツは、もう、そういう心持ちでいい。
 いまさら新規読者? いや、私たちオールドファンだけで、彼と、彼の妻と、犬の数匹くらい、食うに困らせることはないはずだ。だから、クーンツ師は、ぜんぶ捨てて。まだ生みだせるものならば、ぜひともその安泰な王座の上でしか作ることのできない、ヒタイといわずヘソの下に第三の目が開いたかのようにあさってまで吹き飛んだ新しい引き出しを開いて欲しい。

 いま、きっと、それをやるだろうと、予感できている。
 なにせ、なくなった髪が生えたのだ(笑)。
 トラウマだった、彼の父は逝った。
 夢だった愛犬を飼い彼女を喪い、新しい犬を飼った。
 草原を若い犬と駆けまわる見た目までもが十年前より若返ったディーン・クーンツは、あのころのようにコーナーポストからダイブする以上に、いまのレスラーたちでは思いつきもしない新技を、これから開発しても不思議ではない。

 客の拍手は約束されている。
 ひどい作品でも、やっちゃったねクーンツせんせっ、と笑う余裕が、私たちにはあるし、その酷評に本気で怒るパッションが、いまのクーンツにはある気がする。

 クーンツは変わった。
 いつも、そのフレーズは悪い意味で吐かれるのだけれど。
 中途半端は客を逃がす、ということだ。
 時代とともに作品を変えると公言してきた神が、世界は変わったと本能で認識し、作品を変える、すなわち自身を変革する変態作業に着手した。

 このまま、まったりクーンツ・フリークであり続けて逝けるのかと思いかけていた、私をクーンツは裏切らない。神が変わるなら、聖書が書きかえられるなら、私はまた必死でついていかなければならない。私自身を、変えなくてはならない。

 あなたが『オッド・トーマスの霊感』をまだ未読なら、いま買って欲しい。
 気に入ったら、残りの三冊も読んでみて。
 でもとにかく、一冊目は読んでみて欲しい。

 私が、心から尊敬し、大好きだと言える、ひとり。
 だれかからそんなにまで愛されているだれかの、魅力ってなんだろうかと、思ったりしませんか? 私は、それが知りたくて、あとを追い続けている。そして、私自身が、彼のことを惚れなおしてばかりいる。

 ディーン・クーンツの歴史に残る偉業のひとつ。
 オッド・トーマスのシリーズ、とりあえず小休止。
 こんな四冊は、読んだことがない。
 まったく整合性がなく、しかしまとまっている。
 決して忘れられない。
 もう、これだけ語っているんだから、読んでよ。
 オッド・トーマスについてしばらく語ることもないと思うと、いくら薦めても薦め足りないけれど、いまいちどだけ。

 二十世紀の小説神クーンツの業の結晶。
 オッド・トーマスに逢わない人生なんて、もったいない。

odd
odd
odd
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 そうそう、オッド君はコミック化もされているんだが、スーパーナチュラルを扱った漫画をアメコミで読むというのは、繊細な少女漫画で育った日本の読者にはかなり大雑把にみえてしまうため、きっと訳されることはないでしょう。
 ていうか、過去にも映像化をことごとく失敗してきたこともあり、もういいかげん気づいてもいいと思うんだが、クーンツのプロットはクーンツ・タッチがあってこそ扱える諸刃の剣であり、コミック化とか、クーンツになにかの原作を頼むとか、そういうのは愚行でしかない。
 映画化されてヒットしなければ海外作家の作品なんて手にも取らないこの国は、だから損してる。いるんだよ、何人も、映像化不可能な、小説というジャンルでしかできないことを魅せてくれる、偉大なる小説屋たちが、世界には。


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